見出し画像

言葉という武器(誹謗中傷的なものではなく)を鍛えたい。

こんにちは。fiyunです。久しぶりにnoteを投稿します。久々に会った友達にインスパイアされて硬めの文章を書きたくなったので、今回の記事では大学での課題をここに記したいと思います。

今回の課題を簡単に言うと、「先手を打つ」と「働きかける」という大切さを記した記事に対する感想を書けというようなものです。日本語が苦手なので、これからちょくちょく硬めの文章を書く練習をしていこうと思います。誰にも需要はないと思うのだけど、まあ自己研鑽をする場としてnoteを活用しているのでいいかなと。もし読んだらスキ、コメントしていただけると投稿頻度上がります。(見られるとテンション上がるタイプ)

以下課題

今回の記事では大きく、「先手」と「働きかけ」についての筆者の考察が展開されている。どちらの考察も示唆に富んでおり、学ぶ点が多かった。以下では私がそれぞれのテーマに対して感じたこと、重要だと思ったことについて記していきたい。
 まず「先手」についてであるが、これは何事においても重要である。仕事、勉強、スポーツなど、これらは行き当たりばったりだとうまく行かないことがザラである。私は先手を取らずに、つまり仮説を立てずに挑んだ結果、大きな失敗をしてしまったことが何度もある。SFCの教授である安宅和人著「イシューからはじめよ」は名著であることに異論はないだろう。その問題は本当に正しいのか、その問題に本当に取り掛かるべきなのをまず先に慎重に考察したうえで実行に移す。まさに先手先手の精神であるだろう。しかし、世の中にはとりあえずチャレンジ!という人が少なくない。若さが売りの若者においてそれは必ずしも悪とは言えない。しかし、それは非常に非効率的なものであることも事実である。逆に筆者が記しているように、仮説を立てるだけでも意味はない。大事なのはうまくサイクルを回すことなのである。このように理論を展開していったとき、私はまだそのサイクルをうまく回せていないことに気付くことができる。
 「祖父と父が会社を経営していて、それに自分も興味があるから経営学を学びたい」私はそのような志で産業能率大学を選んだ。しかし、それは本当に正しかったのだろうか。今考えると、昔の自分に喝を入れたいことがいくつもある。まずは大学は経営のスキルを学ぶ場所ではないという事。本来アカデミックな場所である大学では、言葉という武器を持って対話を重ねていくべきなのではないかと私は今になって感じる。その他にも世界の心理を探求する場所、ともいう事ができるだろう。このような仮説、いや真理を私は大学の選考理由に含むことは出来なかった。また、私は今、「資本主義の原理原則を学びたい」という目標がある。これも大学を選考する当時の私にはない考え方であった。
 結論から述べると、仮説には多大な知識を要するとここで言っておきたい。私はよく、本を読んでいく過程で「自分は無知だ」と感じることがよくある。つまり、無知であることを知るには、それ相応の学びが必要なのである。この「無知であると知る体験」が積み上げられた末に、正しい仮説を立てることが可能になると私は思う。世界とは残酷なものでこれを教えてくれる人はいない。いや正しくは、教えてくれたとしてもそれを理解できないのである。私は今回の記事を読んで改めて思考を深める必要があると感じた。
 次に「働きかけ」についてであるが、これに関しても実体験からインスパイアされる感情がいくつかあった。本記事では「働きかける」を「ビジネス・パートナーを巻き込み、協業して仕事を進行する」と定義づけ、その原動力に「ビジョン」「ミッション」「パッション」の3つが重要であると述べていた。私は「働きかける」という行為をそのようには捉えない。私は「人が持つべき3つの重要な要素」の1つとして「働きかけ」を定義したい。まず、3つの重要な要素の説明をしていきたい。私は常に「謙虚さ」「知識を基にした実践」「働きかけ」が人生において重要であると考えている。論語と算盤で渋沢栄一が述べているものと同じように、人間はどれだけ手腕があっても謙虚さを失うと、低俗化、陳腐化してしまうと私は考えている。ここで言う手腕は、先ほど述べた「知識を基にした実践」から来るものであるだろう。そしてそこに新たに加えたのが「働きかけ」である。人は必ず一人で生きていけない。スティーブ・ジョブズも、ナポレオンも(行ったことがいいか悪いかは別として)ヒトラーも一人で大きなムーブメントを起こしたわけではない。そこには人がいて、賛同できるビジョンがあって、情熱的に動かされるようなパッションがあったに違いない。大きなことを成し遂げないにしても、それは大事なことである。身近なところでも、「学びを深めるには議論を必要とする」「インターンで働くとしても部門がある」といったようにたくさんの例が挙げられる。やはり人生において、上記の3つのどれかが欠けても成立し得ないのである。
 多くの人は私が展開した「仮説」と「働きかけ」の考察について理解をしている。ただそれを言語化するのは非常に難しい。私は上記のようにすでに知っているような事実でも理論を展開していくことが非常に重要であると感じる。それが自己研鑽につながるし、自分の軸になるからだ。私はこれからも自分が考えていることを言語化することに努めていきたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?