『イズム-イズムのわからなさ』

2024/5/6「イズム-イズムのわからなさ」

マッチョイズム、ニヒリズム、そしてイズムイズム。

おそらく私の違和感はイズムイズムに向かっている。しかし、それはあまりに大きな問題である。手に余る問題である。それゆえに私はそれをマッチョイズムとかニヒリズムとか、そういう問題であると考えようとしている。私にはそう見える。ただ、たしかに君の言うようにこれは計画された誤認なのかもしれない。

周りから計画的な誤認に見えることがその観察者から見た行為者の特異性のヒントなのである。おそらく。

「考え過ぎ」とはなんだろうか。私は昔の方がそうだったと思う。自分に対して。ただ、いまの私もおそらくそう言われる。それはなぜか。たしかにここで目的合理性の話をしてもいいかもしれない。が、それができてしまうがゆえに見えにくくなるものがあると信じて粘っている。私は。

「心身の体調が良くない」というようなことを聞いた。が、「心」「身」「体」はどういう関係にあるのだろうか。

振る舞うために心を作るのか、心を作るために振る舞うのか、それとも振る舞う=心を作るなのか。

2024/5/7「螺旋会」

正直にいまの思いを書いていこうと思う。散歩しながら。(後半は散歩していない。)

いまの私は相当心身の体調が悪い。なぜかはわからないが相当悪い。「なぜかわからない」というのは嘘かもしれない。ただ、ストレスと言っても、それを仮に仕事のストレスだと言っても、私からすれば仕事をすること自体のストレスであるし、この言いぶり(このように言うという振る舞い)ももしかしたら嘘なのかもしれないとも思う。

だいぶ思考力が落ちている気がする。思考力と言ってもなにを指しているのかはわからないが。

私は自己嫌悪に陥っているわけではないと思う。たぶん。では、この落ち込みのようなものはなんなのか。それはわからない。し、もしかすると「自己嫌悪に陥っているわけではない」というのは嘘なのかもしれない。

ここまで「嘘」ということを連発しているが、別に本心があるからそう言っているわけではない。なんというか、本心とされるものが信用できないからわざわざ別のことを言おうとしているのだがそれはそれで欺瞞的であるから「嘘」と言っているだけである。

いわゆる希死念慮があるわけではないと思う。ただ、衝動的に死んでしまうかもしれない、という思い、恐れは前よりも強い。もちろん、衝動的ではない自殺が存在するとすれば、だが。「前よりも強い」というのは前から私は生きることを拒むことはなくとも生きることを受け入れることもなかったということであり、それゆえにふとしたときにいまここでバイクのブレーキを握らなかったらどうなるんだろうと思い、実際すごくぎりぎりまで握らなかったことがあるということである。

朝からいくつか「死にたい人のために……」みたいな動画を見た。が、私は別に死にたいわけではない。し、生きたいわけでもない。わけではない。死んだら悲しむ人がいるから死んでいないだけである。

話が逸れたが、そういう動画を見て私はなんだか違うなあと思ったのである。なにが違うかを言うのは難しいが、一つ大きくあると思われるのは私が死に対して欲望とその成就という形式を用いて理解することができないということである。というよりもむしろ、欲望とその成就、という形式自体がよくわからないのである。

だからと言って代わりの形式を提案できるわけではない。ただ、欲望とその成就ではないと思うのだ。

うっすら存在する死への何かがある反応によってふいに屹立と存在する。そんな気がするのである。

まあ、屹立と存在したからと言って死ぬかはわからないのだが。

あと二つ話しておきたいことがある。気がする。一つはコミュニケーションに関して、もう一つは破壊衝動に関して、である。

一つ目のコミュニケーションに関して、コミュニケーションを取るのにも体力が必要である。挨拶に関してもそうである。だから、私は挨拶をしなくなった。するとしても相当やる気を出さなくてはならなくなった。

まあ、だからなんだと言われればそれまでなのだが、読書もできなくなった。精確に言えば、できると思えなくなった。読める気がしなくなったのである。まるでバラバラの語彙があるだけ。そんな感じになる気がしているのである。

私は専門家ではないので自分の症状が何と呼ばれうるのかを知らない。いずれ病院に行くかもしれない。

ああ、話は逸れるが、私は怖いのだ。このままなにともコミュニケーションが取れなくなることが。世界と接するところがまるでなくなることが、怖いのだ。

ある朝、私は不思議な体験をした。このような状態になる前の話である。私は世界と接していない感じがした。世界と私の間には明確に膜が存在するような感じがしたのである。いまの私は人ともそうなりかけている。ただ挨拶ができないくらいで大袈裟かもしれないが。

大袈裟なのかどうか、それもよくわからないのだ。私は恐れている。無感動的になることを。しかし、無感動の原因がなにであるかがわからないのだ。もちろん原因を特定することができるというのはどういうことかもわからないが。

二つ目の破壊衝動に関して、私は自分で自分を叩いたり、他人に強く当たったりする自分を見た。自己嫌悪はしていないが自傷はしている。叩くくらいなので軽度だとは思うが。私はこのことを自分に対する破壊衝動であると思っている。他人に対してもそのような衝動が働いている気がする。他人は気がついていないかもしれないが。

(ここから後半。)

ご飯を食べ、寝た。ので違うことを書くかもしれない。眠れないことや眠りすぎること、食べられないことや食べすぎることが一つのサインらしいが私にはそれがない。

破壊衝動についてそれはもともと存在し、健康であるというのはそのことを隠すことができていることであると考えられるのではないかと思う。

この意味で好きなのはLibroというラッパーの「シグナル(光の当て方次第影の形)」という曲の冒頭、「やれやれと思うより晴れ晴れ過ごしたいわれわれのミュージック/風が奏でる自由だけど破壊衝動はチューニング」という歌詞である。破壊衝動はもともと存在する。が、それはチューニングする必要があるのである。これはフロイトの「死の欲動」ということに関する議論にも関係し、おそらくここでの発想はそのことに影響されつつ、千葉雅也やその奥にいるドゥルーズの「差異が先にありその後に同一性がある」という信念にも影響されている。が、近づきすぎると私のことを書けないのでとりあえず示唆だけしておこう。

考えすぎるがゆえに、そして考えすぎることによってなにもできなくなるがゆえに私は考えようとしなくなった。おそらく。そしておそらく、そのことが習慣化してもはや考えることさえできなくなった。

私は「考えすぎる」も「考えない」も怖いのである。楽しむというのは「考える」ということであるから。ただ単に勝ったりただ単に気持ち良かったりしても楽しくはない。

さて、私は自己嫌悪しているのかどうか。ここで話したことのもう少し具体的な話をある人にした。そのときにこう言われた。「○○さん(私のこと)は自己分析も他者分析も得意で、そこがいいところだと思うんだけれど、それが自分に向いてて、それでそれが自責になってるから苦しいのかもね。」みたいなことを言われた。私はそのある人のおおらかさに驚き、そしてそこである種の自己嫌悪に陥った、気がする。が、私は自責しているのだろうか。そしてそれゆえに苦しいのだろうか。

なんというか、自責というのは変な表現である。ところもある。というのも自分を責められるのは自分だけであるからである。だから「自責しているから苦しい」というのは何を言っているか、実はよくわからないところもあるのである。もちろん、この「変な表現」というのも二つの仕方で理解できるのだが。と思ったが、なんというか、私はある種の宙吊り性に「変な」という表現を用いていたのだが、「自責」は「他責」と対比されるものであり、結局どちらも自分しか「責める」主体はいないのだとすれば、ここで私はなにを言っているのだろうか。わからなくなってきた。

「責める」には(仮に中動態的用法がないと考えれば)それをする者とされる者とが存在することになる。そしてその両者に自己と他者は入りうる。から、単純に言えば4パターンあるわけである。自己から自己へ、他者から自己へ、他者から自己へ、他者から他者へ、と「責める」という4パターンが。そのある人(Yさんと呼ぼう)はどれを指して私の苦しさを言い当てようとしたのだろうか。いや、言い当てるというか、示唆しようとしたのだろうか。

おそらく、前段、つまり「○○さん(私のこと)は自己分析も他者分析も得意で、そこがいいところだと思うんだけれど、それが自分に向いてて、それでそれが自責になってるから苦しいのかもね。」の「○○さん(私のこと)は自己分析も他者分析も得意で、そこがいいところだと思うんだけれど、それが自分に向いてて、」からすれば、おそらく分析主体は自分であると思うから自己から自己へ、になるのだろう。なぜなら、自己から他者へ、と、他者から他者へ、はそもそも他責だからであり、他者から自己へ、は分析主体が他者だからである。

しかし、私がわからないのはこの「自己」やら「他者」やらである。

ただ、この話をする前に一つ重要なことを確認しておこう。確認というか議論?しておこう。それは私が自己嫌悪するとすればYさんのおおらかさ、受容性に対して、対比して自らを顧みた場合のような場合でしかあり得ないということである。このおおらかさや受容性を私はおそらく価値として認めている。つまり簡単に言えば、おおらかである人や受容的である人が偉いと思っている。明示的にではなくとも。そして私はYさんと自分を比べてYさんに軍配が上がると思って自己嫌悪、のようなものをしたわけである。別に勝ち負けとかではないが「負けたなあ。すごいなあ。」と思ったのである。ただ、書いてみて思ったがこれは自己嫌悪ではない。自己嫌悪であるとしても良い自己嫌悪である。さらに言えば、Yさんにこのようなことを言ったとしても「私は○○さん(私のこと)よりも段取りがわかっているだけだよ。」と言われるだけだろう。(Yさんは先輩である。仕事の。)それはたしかにその通りであるかもしれない。ああ、話が終わってしまった。が、ここで重要なのはそれでもなおやはり私に段取りがわからないのだとしたらYさんが私よりも優れていることには変わりがなく、それは圧倒的な現実であるということである。そしておそらく、Yさんが私に言った「自責」というのは「良い自己嫌悪」ではなく「悪い自己嫌悪」を指していると思われる。

では、「良い自己嫌悪」と「悪い自己嫌悪」はなにが違うのだろうか。簡単に答えておくとすれば、それがエネルギーになるかどうかが違いであると考えられる。「良い自己嫌悪」はよりよく生きようということのエネルギーになる。「悪い自己嫌悪」はそうはならない。が、「そうはならない」とはなんなのだろうか。「生きよう」自体に「そうはならない」がかかるのか、それとも「よりよく生きる」の「よりよく」に「そうはならない」がかかるのか、このことは難しいし、そもそもこれらが区別できるのかがよくわからない。よりよく生きること以外に生きることができるのかどうか、私にはわからない。

たしかにこのわからなさ、つまり「よりよく生きること以外に生きることができるのかどうか」がわからないというのが根本的な問題なのかもしれない。これはなんと言えば良いか、哲学に関わるところでは「力への意志」(ニーチェ)みたいなことか、別にそんなことに関わらなくて良いとすればマッチョイズムみたいなことか、そんなところだろうと思う。私の根にあるマッチョイズム。

しかし、おそらく、私が「悪い自己嫌悪」をわざわざするのはこのマッチョイズムを取らざるを得ないときであると思われる。精確に言えば、このマッチョイズムを取らざるを得ないことがあからさまであるときであると思われる。仕事とはそういうものである。わけではないが、私がいましているそれはそういうものである。と思っている。だけであるとも言えるが、実際そうなのであり、そこはもはや地盤だから何も言えない。(独我論的言えなさ!)

もちろん、ここを掘り崩すことはできるかもしれない。が、私はそうやって仕事をすることができない。このできなさを言うのは難しいのだが、できない。もちろんここに問題の核心があるのかもしれない。しかし、これを掴むと、そしてそれをある種コントロールしようとするとニヒリズムになってしまう。このニヒリズムとマッチョイズムの振り子は私の制御できるところではない。し、おそらく極限まで行けば二つは同じところに到達する。「同じところ」というのは「もはや何もできない」というところである。

「何もできない」というのは「何かできる」ということと対比できる。「何かできる」というのは「何かしている」からしかわかることではない。だから、「何かする」がないと「何かできる」はない。「何かしている」「何かする」「何かできる」。二つの極限が同じところにあるのはおそらく「何かしている」を「何かする」にできないということと「何かできる」にできないことが「何かしている」をそれとして理解できなくさせることにおいては同じであるからであると思われる。考えすぎても考えなくても何もできない。前者は動けないのであり、後者は動いていたとしても「動いていた」と思えないのである。

さて、やたらと哲学めいてしまったが、主題に戻るとすれば、私のこの苦しみは自己から自己への「責める」=「自責」ゆえに生じているのか、ということを議論しようとしていた。そして、その根本に私の岩盤たるニヒリズムを避けるためのマッチョイズムがあるのではないか、みたいな話をしていた。この二つの話の関係はどうなっているのだろうか。

「責める」ためには岩盤が必要である。おそらく。何もなしに「責める」ことはできない。何か基準となることがあって初めて「責める」ことが可能になる。しかもそれが正当なコミュニケーションであるためにはその基準は共有されている必要がある。少なくとも共有されているとみなす必要がある。しかし、自己と自己はその共有が必要なのだろうか。わざわざそれをする必要があるのだとすれば、その両方を「自己」と呼ぶのは間違っているのではないだろうか。そう考えると、私がだいぶ前に「分析主体」として私自身を捉えていたことが間違いであることになる。

うーん、このように思ってみると、そもそもYさんは「分析を頻繁にする/分析を頻繁にはしない」みたいな対比で私を前者であると考え、それを「得意」という表現で指し示していたことになる。それでそれが「自責」を促すことになってしまっていることが苦しみの原因であると言っていたわけである。つまり、「分析」が私の基礎的な反復としてあり、その反復は楽しみにも苦しみにもなるのだが、今回は苦しみになっていると言っていたわけである。

ところで、「分析」は楽しみになるのだろうか。私はどうしても、それをどうしようもなさ、仕方なさに対する透徹した理解、受容のためのものであると考えていると思う。だから、Yさんがそういうことを言っていたのだとしたら、私とYさんでは話がずれている。

では、どのようにずれているのか。それをちゃんと形式化するのは案外難しいように思われる。が、単純にするとすれば、Yさんは「分析を頻繁にする/分析を頻繁にはしない」ということと「分析」が「楽しさの原因/苦しさの原因」という二つの可能性を持っていて現状は「楽しさの原因」ではなく「苦しさの原因」になっているということを言っている。それに対して私は「分析」によって明らかになる「どうしようもなさ」が「楽しさの原因/苦しさの原因」という二つの可能性を持っていることには同意しているが「現状は「楽しさの原因」ではなく「苦しさの原因」になっているということと「分析を頻繁にする/分析を頻繁にはしない」ということには同意していないのである。そして同意していない理由は「分析」が「どうしようもなさ」に到達するためのものであると思っているからである。あえて溝を作るとすれば、Yさんはその到達を仕事のために使えると思っているが私は使いたくないと思っているか、そもそも使えないと思っているのである。

ただ、一つ思ったのは私は「分析を頻繁にする/分析を頻繁にはしない」という対比にはあまり興味がないということである。そして、それが「得意」かどうかにもあまり興味がない。だからおそらく、間をたくさん飛ばしていて申し訳ないのだが、私は現状が変わることによって「分析」によってあらわになる「どうしようもなさ」が「苦しみの原因」にならないことはあり得ないから困っているのである。絶望しているのである。そしてとても意地悪な解釈をするとすれば、この絶望によってYさんを破壊しないように私はYさんのおおらかさを価値として認めることにしたのである。

さすがに意地悪すぎて私もびっくりしているのだが、別に間違っているわけではないと思う。事実そうだと思う。破壊衝動の隠蔽としての称揚という感じで一般化できるかはわからない。

私の初期の絶望のテーゼはおそらく、疲れによって読書の質は私が読書によって得られる快楽に届かなくなるが仕事で疲れないことはあり得ない、というものであったように思われる。そして、この疲れが段取りを知らないことに由来する可能性を考慮してもなおこのテーゼは覆せないと思ったのである。いまもそう思っている。もちろん、私は段取りを知った状態を知らない。し、Yさんはそれをある程度は知っているのだろう。それは疑いようのないことである。しかし、私はその知らなさに希望を見ることができなかったのである。

この「見ることができなかった」がいまもなお続いている。だから、「見ることができない」が正しい表現である。私が「初期の絶望」と言ったばかりにそれに合わせる形になったわけである。が、なぜこのような表現をしたのだろうか。

私はかなり前、次のようなことを言った。「『○○期』(○○はマイナスなこと)と言えば○○が終わったかのように考えることができるというライフハックがある」みたいなことを言った。で、おそらくいま私は無意識に「絶望期」みたいに言ったのである。しかし、私の絶望はなお存在する。ライフハックはライフハックでしかない。ライフ自体はハックを存在させる岩盤として存在する。その岩盤の話をしているのである。

別に何も解決していないがここでしたいことは終わった感じがある。読み直してなお書きたいことがあれば書く。なければ今回はとりあえずこれで終わりである。と思ったが一つ、言っておきたい。キルケゴールだったか、デリダだったか、誰だったか忘れたが、「決断は狂気である」みたいなことを言った人がいる。この「狂気」はおそらく衝動と欲望の間をゆらゆらすること自体である。これが揺れないのだとしたら「狂気」にはなり得ない。が、「狂気」は作られる。面もある。だから、ゆらゆらはもはや振動ではなくなる。それがマッチョイズムとニヒリズムの極限には存在する。私はそれを仮に過剰にそうだとしても恐れているのである。しかし、この恐れはいかにして乗り越えられるのか、どうしたら付き合えるのだろうか、うまくやれるのだろうか、私にはわからない。そしてそのわからなさに向き合う余裕を私は失っている。仕事の疲れによって。この「仕事の疲れ」は何を指しているのか。そのヒントはおそらくここまでの中にある。が、いまの私にはまだわかっていない。

特に書き足そうと思ったことはない。このなさは私がいま思考することにエネルギーを注げないことが原因であるものと単純にあまり知らないから膨らませられないことが原因であるものとの二つがある。が、いまの自分にはどうしようもない。前者は主に整理であり、後者は主に接続である。私はどちらもできない。綺麗にすることができない。しかし、一つ前の文章はかなりまとめられていると思う。もちろん、私にも示唆程度にしかならない程度には、だが。

最後に、読み直していて特に言及はしていないものの参考にしていると思われる議論がいくつかあるのでそれを示しておこう。箇条書きにする。
・千葉雅也が特に「儀礼・戦争機械・自閉症-ルジャンドルからドゥルーズ+ガタリヘ」(『ドゥルーズの21世紀』所収)で展開しているサディズム/マゾヒズム的な法(規則)解釈に関する議論。(ちなみにこの議論の「膨らみ」(この「膨らみ」に関しては「パラマウンド」(『意味がない無意味』所収)で展開されている議論が関係している。)として「単純素朴な暴力について」(『意味がない無意味』所収)がある。)
・「岩盤」については後期ウィトゲンシュタインの議論。その根本的な問題(独我論的な問題)については永井均の議論。より純化された問題(現実性の問題)については永井均の議論と入不二基義の議論。(それぞれの議論について、ウィトゲンシュタインは『哲学探究』の第一部一八五節から二四二節あたり(ちなみにここはいわゆる「規則のパラドックス」が提示されたところであり、「規則のパラドックス」に関する代表的な議論であるクリプキの議論は上で紹介した千葉も援用しているのを見たことがある。が、どこでそうしていたかは忘れてしまった。)を、永井均は『哲学探究1』の第一部を独我論的な問題として、現実性の問題に関しては『哲学探究2』を、入不二基義は『現実性の問題』を、二人の議論の違いについては『<私>の哲学をアップデートする』や『<私>の哲学を哲学する』の二人が書いたり話したりしている箇所を読めばいいと思う。あと、書いていて思ったがこの問題は「自己」と「他者」がわからないという問題にも関係する。が、それを明確に示すことが少なくともいまはできない。)
・ラカンの「享楽」に関する議論。(これはフロイトの「死の欲動」や上でした「衝動」と「欲望」の関係に関する議論、さらには千葉雅也の議論にも関係する議論である。フロイトの「死の欲動」との関連については千葉雅也の『動きすぎてはいけない』の第八章を、「衝動」と「欲望」の関係に関しては松本卓也の『人はみな妄想する』や片岡一竹の『ゼロから始めるジャック・ラカン』の「欲求」と「要請」の関係に関する議論を、千葉雅也の議論との関係に関しては上で挙げたものの繰り返しになるが『動きすぎてはいけない』の第八章と「単純素朴な暴力について」(『意味のない無意味』所収)、繰り返しにならないもので言えば松本卓也と千葉雅也の対談「ポスト精神分析的人間へ-メンタルヘルス時代の<生活>」(『思弁的実在論と現代について 千葉雅也対談集』所収)を読むとよいと思う。)
・「どうしようもなさ」については精神分析の「特異性」の議論や「<他者>(大文字の他者と言ったりする、と思う)」の議論、「フェティシズム」に関する議論。(「特異性」の議論については『ゼロから始めるジャック・ラカン』の「特異性」に関するところを、「<他者>」の議論については『ゼロから始めるジャック・ラカン』の「<他者>」に関するところや『ラカンと哲学者たち』の前半部分を、「フェティシズム」に関しては『欲望会議』を読めばよいと思う。)

ここまではとりあえず私がわかる範囲の参考文献をあげた。ここでの「参考文献」というのはおそらくこれらを参考にして考えているだろうという文献のことである。明確に意識していたわけではない。ここからはより混沌とした参照点を明らかにしておきたい。私がより考えるために。まあ、ここまでの文献紹介も「君(私のこと)はもう少し自分で考えようよ。」ということでもあるのだが。

・打ち切りという主題。(この主題は無限の有限化として考えることができると思う。ここでの無限は永井均の独我論、入不二基義の現実性論のことを指している。ここでの有限化は千葉雅也の解釈論、千野帽子が『人はなぜ物語を求めるのか』で展開している(実践的)物語論を主に指している。千葉の議論はよりミニマムな議論であり、千野の議論はよりマキシマムな議論である。そして、千葉や千野は有限化のために無限を設定している。千葉は根拠の無根拠性と解釈の無際限性を、千野はそれほど強く設定しているわけではないが私たちの中に「物語にしたい」という欲望を、その奥に理解のホメオスタシスとしての「物語にせざるをえない」という機能のようなものを設定している。ここで私はそれらではなく独我論や現実性論が提示する無限を設定しようとしているわけである。この設定は別に千葉や千野の設定と同型ではある。ただ、同様であるわけではないのでここは私の領域になっていると思っている。ちゃんと開けているわけではないし、永井や入不二が有限化に相当する議論をしていないわけではないが。)
・「刺激-反応」と「要請-応答」に共通する「問い-こたえ(答え/応え)」という構造に関する主題。(この構造に関しては伊藤亜紗の『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』における「純粋詩」運動の議論が関係している。ここには実は中動態の議論も関係すると思う(この議論に関して私は國分功一郎の一連の議論(『中動態の世界』や『<責任>の生成』)くらいしか知らないので「思う」だけだが。)が、とりあえずそれを抜きにすると「純粋詩」のような「作品」において私たちは(孫引きで申し訳ないが)「ひとつの詩は、在る声と、やってくる声と、やってこなければならない声とのあいだの、連続的なつながりを要求し、またそれを駆り立てる、一つの発話である」(『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』 66-67頁)と言われるような「作品」(ここでは「詩」に限定されているが抽象化して「ひとつの作品」であると考えてもよいと思う。もちろん、ヴァレリーは「詩」にこだわっているのだが、今回は構造だけに着目したい。)の中に一部として組み込まれることで「要請-応答」から「刺激-反応」へと移行していくのだがそれがむしろ自由であるという逆説を発見するということに、逆に言えば「刺激-反応」から「要請-応答」に移行していくほど自由ではなくなるという逆説を発見するということに構造の動性を見ることができると思う。そして、このように「見ることができる」のは「問い-こたえ(答え/応え)」として「刺激-反応」(こっちが「答え」)と「要請-応答」(こっちが「応え」)を見ることができるからであると私は思う。この「問い-こたえ(答え/応え)」として見るということの後ろにあるのは「人間」という主題であり、私はこの主題を古田徹也の『行為の哲学入門』に主に依拠して理解している。そして、古田はそんなに「人間」を主題にしていないのにも関わらず私がそれを主題にしているのは「問い」がなければ「こたえ」がないと思っている、というか、なんと言えばよいかわからないが、「問い」なしにそもそも「人間」的な理解が難しいというか、そういうことを思っているからである。そういう「人間」的な処置がなされてやっと「刺激-反応」と「要請-応答」という構造や構造同士の関係が動くようになるという意味でこの二つの議論には明確に次元の違いがある。本文との関わりがよくわからないかもしれないので軽く触れるとすれば、「考えすぎる」にも「考えない」にも「問い」が存在しないのである。それを「要請-応答」と「刺激-反応」に重ねることはできるが、これが「できる」のは「人間」であるという前提があるからであるというのが後者の議論が指摘していることである。そして前者の議論はこの二つの「問い-こたえ」はそれぞれ移行していくし、そこに「自由」という主題があるということを指摘しているのである。ちなみに「何かしている」というのも「何をしていますか?」という「問い」に「こたえ」るものであり、「何かする」と「何かできる」はそれぞれ「答え」と「応え」であると少し粗雑ではあるが考えることもできる。もう少し精確に理解したいが。あと、ラカンの議論、特に「欲求」と「要請」の議論は「生物としての人間=ヒト/人間としての人間」みたいな形ではあるがここでの「こたえ」の二重性を捉えるようなものであると思う。)

さて、もうやめにしよう。話が弾みすぎてしまってよくわからなくなってくるからである。ただ、一つだけ言うなら(こればっかり言ってつまらない話をずっと続ける人にはなりたくないのだが仕方ない。話したいのだから。)私の二つの参照点の関係はよくわからない。私は一時期、有限化と「要請-応答」から「刺激-反応」への移行を重ね、無限化と「刺激-反応」から「要請-応答」への移行を重ねていたが、「有限化/無限化」と「刺激-反応/要請-応答」がなぜ重なるのかがよくわからない。「X/人間」を重ねて「有限化/無限化」と「刺激-反応/要請-応答」の重なりを説明するとしてXに何が入るのかがわからない。し、そもそもこのことを語ることができるようにも思えない。しかし、このできなさを利用してちゃらちゃらした言説を作る気にもなれない。この「ちゃらちゃらした言説」は「嘘」に近いかもしれない。「嘘」について語ったのは相当前で覚えている人はもはやいないかもしれないが。「本心」というのはもしかすると「ちゃらちゃらした言説」の代表格なのかもしれない。私はある先輩(Yさんとは別の先輩。仕事の先輩ではなく趣味の先輩。)に私の「幸せとはなんですか。」という「問い」に対する「幸せなふりをすること。」という「こたえ」を褒められたことがあるがもはや私は「幸せなふりをする」元気がないのである。別にそれができている人が元気であるわけではないが。

さて、もう長くなりそうなので終わろう。なんとなく全部を鷲掴みにするきっかけを作った気はするので終わろう。別に掴めなくても仕方ない。私とあなたは違うから。当たり前のことだが。

例えばね、元も子もなさというのはね、たしかに救いではあると思うよ。ただ、それは処方箋ではないし、対処療法ではない。か、処方箋に過ぎず、対処療法に過ぎない。それをまるで万能薬かのように語るのは間違っていると思う。

「例えばね」で始まっているが別にここまでの議論に関係あるかはわからない。関係があると言えばあるし、ないと言えばない。

二重の過剰を恐れている。がゆえに私は何もできないのだ。何かするというのは二重の過剰を恐れないことなのだ。どのように恐れていなかったか、私は忘れてしまった。

2024/5/8「やまやましい」

そうか。私は「自分で自分を持て余している」のか。

君はここにいる。私の中にいる。持て余されている。持て余されて、いる。

君、言うなら、破壊衝動、君だ、話を聞け。私の話を。

考え過ぎないように考える。これは無限の有限化である。

共同注視の哲学的解釈。

共同性と視認性の関係。

考え過ぎないようにするための哲学、考えなさ過ぎないようにするための文学。

理解とは対比を発見することである。のか。この「のか。」は「理解」やら「対比」やら「発見」やらを適切にそれこそ理解する必要があるということの表現である。

仮に共同的な理解というふうに「共同的な」という限定をするとすれば、理解は間違いなく対比を発見することであると言えると思う。それでしか確認ができないから。もちろん、ここでの「共同的な」というのは「確認することができる」と同じことを指していると思われるのが気になるが。

「対比を発見する」というのは「対比がなぜ対比でありうるかを発見する」ということである。言い換えれば、対比のもとになる構造を見出すことが「発見」なのである。これは言い換えれば、二つのものとその二つのものの類似と差異を発見することが「対比を発見する」ということなのである。

「バスに乗っている私」ということであれば「バス」は「乗り物」の集合に、「乗っている」は「行為」もしくは「行動」の集合に属すると思うが、「私」は「誰か」の集合に属するのだろうか。

君は誤魔化していることを誤魔化せるようになりたまえ。しかしそれでいて誤魔化していることを誤魔化していることは誤魔化さないようになりたまえ。

持て余す自分、持て余される自分。

「自分で考える」について考えてみよう。

まず、ものすごく単純に考え始めるとすれば、「自分で考える」は「自分で考えない」ではないことであると言えるだろう。これが排中律的にそうなのか、それとも重なるところもあってその襞をなぞることが必要なのか、現時点では全くわからない。都合が良いのでとりあえず排中律的であると考えるとしよう。

(排中律の細かい話はできないのだが、私の能力不足ゆえにできないのだが、とりあえずここでは「自分で考える」と「自分で考えない」が同時に起こることはないことにしておくことを宣言しているということが重要である。「自分で考えない」というのはどういうことなのか、それをいまから考えよう。)

さて、「自分で考える」の反対かつ重なるところもないことにした「自分で考えない」とはどういうことを指すのだろうか。もしかすると「自分で考える」は「自分で考えない」の否定もしくは禁止を指しているかもしれない。

おそらく、「自分で考えない」というのは「他人が考えたことに追従する」みたいなことを指していると考えられる。例えば、「ショーペンハウアーも古典だけを読むべしと言っていたしね。」みたいな感じだろうか。(ちなみにちゃんと確認していないので「だけ」「べし」と言っていたかはわからない。が、大略こういうことを言っていた記憶がある。記憶違いの可能性は大いにあるが。)こういうふうに言っている人を見ると人は「自分で考えない」と思うだろうか。

一つ取り除いておきたいことがある。取り除けるかはいまのところわからないがとりあえず取り除いておきたいことがある。それはショーペンハウアーが賢ぶるために使われているからそれを批判するために「自分で考えるべきなのに自分で考えていない。」と言っているのはこの話とは別であるということである。私はこの批判自体、そして批判の手法がある意味で賢しいことを批判したいからこう言っているわけではない。これをいま取り除いておかないと話がややこしくなると思うからとりあえず取り除いておきたいだけである。いずれ戻ってくるかもしれない。

そもそも、(早々に戻ってしまった。)私たちは権威に弱い。だから、もしかするとショーペンハウアーを引いてきた人はある程度考えた上で、「自分で考える」をした上でそこで考えたことを伝えるためのレトリックとしてショーペンハウアーを持ち出したと考えることもできる。上で書いたような仕方では軽薄に見えるかもしれないが、戦略として仕方なくそうしているかもしれないのだ。あまりややこしくしたくはないが、もし上のように言っている人がショーペンハウアーの研究者のエッセイに書かれていることだとしたらどうだろう。そして魅力的な前段を用意することができていたとしたらどうだろう。例えば、ショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』はいわゆる古典だと思うが、それを手に取るように促すような文章の最後に上のようなことがもう少し洗練された仕方で言われていたとしたらどうだろう。もし、このことによって上のように言うことの印象が変わるのだとしたらそれは言っている人が研究者という権威だからであり、文章力から推察するに古典を読んできたように見えるからであろう。しかし、文章力も権威であると言えるのではないだろうか。ここで言いたいのは権威づけを少し複雑にしたら上で批判していた人の大半は撤退するように思われるということである。しかし、その撤退の理由は権威であろう。違うだろうか。

もちろん、「それも権威じゃん。」と言って議論を終わらせたり泥沼に引き摺り込んだりしたいわけではない。ただ、私は私たちの限界を指摘したいのである。別に私がその限界を免れているとは思わない。これは有限の存在である私を含めた私たちの限界の話である。

ここまでの話を踏まえてここからの話で一つ前に進むことができるとすれば、おそらく二つのルートがあるだろう。それは「自分で考えない」が「他人で考える」であると考えられるのではないかというルート、ルートAと「自分で考えない」と「他人で考える」は似ているが「自分で考える」ために「他人で考える」を用いることがあるというルート、ルートBである。

さて、少し整理したところである意味元も子もないことを言おう。私は「自分で考えてないじゃん。」というのは「自分で考える」を規範として考えてそう言っているわけではないと思う。言い換えれば、批判の理由として「自分で考えてないじゃん。」が言いたいから「自分で考える」を規範であるかのように振る舞っているだけだと私は思うのである。そして、「自分で考える」がどういうことかが曖昧であるからその範例としてショペンハウアー研究者のような権威を持ってくるしかないのだと思っている。しかし、別にこの「持ってくるしかない」というのは私たちの限界ゆえにそうなのであり、問題はそこにあるわけではないと思うのである。もちろん、他人の引用ばかりしている人はつまらない。とても単純に、素朴に言うとすれば、この「つまらない」があまりに無根拠であるから根拠を作るために同じことをするしかないのである。そして、「同じことをするしかない」のは私たちの限界ゆえにそうであると思われるのである。

ここまでの考察をある程度評価してくれる人がいるかもしれない。しかし、これも結局ニーチェの次の言葉でもうすでに端的に示されている。(ほら、結局同じことをしているでしょう?)

理由と,その理由の無理由。
君は彼を嫌悪していて,だからまたこの嫌悪の理由をたくさん持ち出す。ーしかし私が信用するのは,君の嫌悪感だけであって,君のあげる理由ではないのだ!本能的に生じることがらを、君自身や私に対して,あたかも理性に則った推論のように見せかけて述べ立てるのは、君自身を取りつくろって気取っているだけなのだ。
『曙光』(頁数をメモしていなくて申し訳ない。『ニーチェ・セレクション』の53頁を読めばわかる。さて、このようなセレクションものを読むことは批判されて然るべきだろうか。それとも……)

この話はこれで終わりである。で、ここから先に進むためにはルートAとルートBのどちらに進めばよいだろうか。それは別に私が決めることではない。が、いまのままではおそらくどちらにも進めない。なぜなら、ここで言う「自分」や「他人」、「考える」が何であるか、まるでわかっていないからである。

ここで煙草休憩を挟ませていただこう。一つだけ言っておきたいのは私はこれまで読んできたものをバンバン引用して話す。矛盾しているかもしれないがそれが私のスタイルである。別に私は私自身を擁護したいからそうするわけではない。ただ、ここからは「取りつくろって気取っている」だけであるとも言える。それはあなたが考えてくれればいい。では、二、三本吸ったら戻ってくる。

さて、戻ってきた。外は寒すぎる。外で煙草を吸おうと思ったのだが寒すぎたので近くのラーメン屋さんに入った。さて、考えるために少し振り返ろう。私は「自分」「他人」「考える」について考えようと言っていた。少し前のことである。「考える」からにしよう。特に理由はないが強いて言うなら「自分」と「他人」はすごくややこしいし、副題として表れてくるだろうという予感、もしくは希望的観測があるからである。

「考える」というのは「考えすぎる」ことと「考えない」ことの間に存在すると考えられる。これが私が考える「考える」である。このように考えるのはウィトゲンシュタインの「規則のパラドックス」やそのパラドックスに対する入不二基義の解釈、そしてもう少し実践的な考察として千葉雅也のサディズム/マゾヒズム論を知っているがゆえである。ただ、それぞれの議論に触れつつここでの考察を豊かにすることが目的ではないし、実際問題それができる気もしないのでとりあえず書いておくだけにしよう。

これは権威づけだろうか。別にそう言ってもいっこうに問題はない。実際そうだからである。ただ、私は手がかりとして書いておいている、とも言える。これもまた内田樹がどこかで言っていたことに影響されていると思う。このように影響を明確にしておくことは「考えすぎる」ことや「考えない」ことから距離をとって「考える」ことにつながるだろう。そのようにも思っている。私は。

ラーメンが来てしまった。助走しかしていないのに。ラーメンが伸びてしまうのでラーメンを食べる。やる気が出なかったらみなさんに考えるのは任せてしまうかもしれない。まあ、「考える」のは楽しいからたぶん「自分で考える」と思うが。

さて、家に帰ってきた。ラーメンと一緒に餃子とご飯とお酒も飲んでしまったので精度が落ちるかもしれない。が、逆に「考えすぎる」こともなく「考えない」こともない、ちょうどいいくらいになるかもしれない。わからないが。あと、帰る前に何本か煙草を吸ったのでお風呂に入る。家で煙草の匂いをさせるのはなんだか恥ずかしいので。幸い家にはまだ誰も帰ってきていなかった。もう夜の八時過ぎだが。

ところで一つだけ言っておくと、私は二日仕事を休んだ。し、辞めようとも思っていたのだが、今日何人かと話してもう少し続けられるようなら続けようと思った。し、ここで考えているようなことを考えている間だけは仕事について、そしてその周りのことについて「考えすぎる」こともないから考えていると言ってもいい。ある意味で現実逃避のために都合が良いから考えていると言ってもよい。し、逆に仕事が現実逃避であると考えてもよい。いまはどっちでもいいという感じがしているのでいい感じだと思う。相当寒かったのかお湯にあたると手が少しジンジンする。

さて、上で「考えすぎる」と「考えない」の間に「考える」があると言った。が、これを対比として考えることもできると思う。つまり、「考えすぎる」と「考えない」は結局同じことであり「考える」はそれに対比されるということである。言い換えれば、「考えすぎる=考えない/考える」と考えることができると思う。ここで新しいのは「考えすぎない=考える」「考えないわけではない=考える」という対応関係を見出せる予感があることである。まあ、「考えない」を否定すると「考えないわけではない」になるかどうか、なるにしてもなぜそうなるかは課題として残っているがとりあえず「考えすぎない=考える」のほうを考えよう。その前に体を洗おう。お湯ももったいないし。

さて、お風呂から上がって少しした。一時間くらいだろうか。考えるために本を読もうと思ったが本を読むのは案外体力が必要である。しかもいまの私は「本を読む」が「君はそれを楽しめているか?」という問いと一緒に現れてしまうから、そしてその問いに私はいま、こたえられないから、やめておいた。ただの怠惰を美しめいて言っているだけかもしれないが。

「考えすぎる」というのには二つのパターンがある。一つは根拠を問い質しすぎるというパターン、もう一つは解釈を問い質しすぎるというパターンである。この二つのパターンは「問い質しすぎる」という点では共通している。私たちはどこかでこの「問い質し」をやめなくてはならない。もし、「考える」が「問い質し」をすることであるとするなら、私たちはそれをしないことによってようやく「考える」ことができる。もちろん、そもそも私たちは有限の存在であるからそんなことをしなくても「考える」ことはできる。しかし、「考える」を「考えない」の反対であると考えるだけでなく「考えすぎる」の反対であると考えることができることを知っていることは重要なことであると考えられる。なぜなら、「考えない」は「考えすぎる」を含みうるからである。しかも、それは「考えすぎる」がただ単にぐるぐる地団駄しているだけであるからそうであるだけではないことを知ることであり、それは重要なことであると考えられる。なぜなら、「考えない」ように見える人も「考える」ことをしてはいるがそれを「考える」であると表現できない場合があるからである。ここはうまく言えていない。し、おそらく自己弁護でもある。ただ、だからといって価値がまったくないわけではない。

私は「価値がまったくないわけではない」と言って逃げているのかもしれない。他にも問う仕方はあるのに、私の偏りがこのような書きぶりを選ばせているとも言えるからである。しかし、そこに「選ぶ」と言えるほどの自由があるだろうか。あるといってもよいが、そうだとしてその自由を示すことは「考える」ことなのだろうか。それこそ二つの無限に飲み込まれて、結局「考える」ことはできないのではないだろうか。

私は生物的な認知負荷の話とそういった話とは関係ない話を混同している気がする。し、多くの人がそうである気がする。特定の人を挙げるのはやめておくが、私たちにそれが分離することができるのだろうか。少なくとも分離していることにすることくらいはできるかもしれない。

根拠の無限と解釈の無限がある。この二つを区別することは私の力不足で叶わない。が、不恰好でよければ、解釈の方は無際限と言ってもよいかもしれない。根拠の方は……

このあたりのことは千葉雅也が『動きすぎてはいけない』の第八章や「儀礼・戦争機械・自閉症-ルジャンドルからドゥルーズ+ガタリヘ」(『ドゥルーズの21世紀』所収)で議論している。し、もう少し実践的なことは『意味がない無意味』や『センスの哲学』、『勉強の哲学』などに書かれている。が、私は「本を読む」ことがいまできないので踏み込むことはできない。

ここで上の問題が帰ってくる。というのも、そんな、千葉雅也なんかに頼らなくても「自分で考える」ことをすればいいと言われるかもしれないからである。しかも、それはその通りである。しかし、自分しかいないのだとすれば手がかりがない。ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』で構築した氷のような体系はおそらくこの「手がかりがない」の一つの表現である。ウィトゲンシュタイン自身も『論理哲学論考』の後に書いた『哲学探究』でそのようなことを言っている。とっかかりがないのだ。もちろん、私はそこまで徹底していないので自分の不徹底をウィトゲンシュタインによって隠しているとも言える。

ここで、触れずに済ませようと思っていたのだが、「自分」と「他人」の話をしよう。過去の私は「自分」だろうか、それとも「他人」だろうか。私にはそれがよくわからない。し、「自分」があるとしてそれが「他人」のキメラ的な存在形式ではないと考えることがよくわからない。突き詰めると私たちは宙吊りになる。私たちのままそうなるかもしれないし、そうではないかもしれないがそれは本質的なことなのだろうか。

走りすぎた。「自分」は「他人」の集まりである。これも結局千葉雅也が『動きすぎてはいけない』の最初らへんで言っていたことである。細かいところを議論しないと私と千葉が違うかはわからない。し、その違いを明らかにすることが「自分で考える」ということの表現なのだろうと思う。ここにあるのは私と千葉の類似と差異である。そしてそれを語るためには私と千葉に共通しているところとそうでないところをそれとして見つけなくてはならない。それがおそらく「自分で考える」ということである。しかし、その「自分で」の「自分」は「他人」の集まりであると考えられるのである。

話がややこしくなってきた。し、別に私もよくわかっていない。わかっていて「わかってないのかあ。」とみなさんを見ているわけではない。し、別に「わかっていないから一緒に考えよう。」とみなさんを見ているわけではない。ただ単にそうであると言いたいのである。

ところで、私は楽しいから「考える」と言っていた。が、ここでの「楽しい」とはどのような楽しさなのだろうか。

それは……よくわからない。ただ、「ああ、こういうふうに同じなんだ。」みたいな「楽しい」であるとは言えると思う。例えば、ここから極端に伝わらなくなるかもしれないのだが、私はネモフィラ畑のネモフィラが揺れているところに地球と地球たちを見た。そう見えたのではなくそれを見た。どちらも小さくて青かった。それを私は句にした。「ネモフィラの小さく青い地球かな」という句に。私は発見したのだ。ネモフィラも地球も「小さく青い」ということを。それも別に見つけようとしていたわけではなくなぜか見つかったのである。まあ、この「なぜか見つかった」はエピソードにすぎないが。

私は好きな人にこの句を紹介した。から、もしかするとこの文章を発見するかもしれない。まあ、別にそんなことはどうでもいいことである。私はその人に言われた。「この句はたしかに凄いけれど、揺れていることとか、一つとたくさんとか、そういうことがよくわからないね。」と。そしていくつか作り直そうとした。その人は言った。「『ネモフィラの揺れて小さき地球かな』はどう?」と。私はなんだか違うと思った。何が違うのかは難しいがなぜかそう思ったのである。そのとき私はやっと、「ああ、この句は『自分で考える』ことによって生まれたのか。」と思った。というのはここでの作り話である。別にこんなことを思ったわけではない。しかし、二人で作り直そうとしたのは本当である。ドッグショーを見ながら。

ある理論、ある哲学、ある文学というのはここでの句と同じようなものである。私にとっては。話のタネと言えば聞こえは悪いかもしれないがそのようなものなのだ。私と千葉の間にはおそらくドゥルーズがいるだろう。そのときドゥルーズは一つの場所なのである。私と千葉が集合できる場所なのである。私がもし「それって権威づけのために引いてるだけじゃん。」みたいなことを言うとすれば、おそらくこのことを理由にそう言うのだろうと思う。つまり、その引用では場所が開かれていないという理由で批判するということである。たしかにこれは一つの権威のあり方であろう。し、真に批判的ではないかもしれない。しかし、「考える」が「楽しい」というのはこのようなことに支えられ、たまたま「私とあなたは違う。」と言い切ることができることなのである。

これをもう少し判明な仕方で書くとすれば、(別に判明であることは偉くないし、仮にそれが「偉い」とすれば「判明である」のはなぜかをあからさまにすることが「偉い」のである。)私とあなた(例えば好きな人、例えば千葉)のどうしようもない偏りを場所が明らかにしてくれるのである。

これは個性が何かによって現れるということであると言ってもいい。が、実質的に個性がそれとして称揚されるのは何か、場所が共有されているからであろう。だから少し違う。その場所が私にはよくわからずいつも困るのだが、「役に立つ」みたいなこと、「皆に感動を与えられる」みたいなことが場所になっていると思う。それとここでの「どうしようもない偏り」は次元が違う。「役に立つ」ことがなくとも「皆に感動を与えられる」わけではなくとも存在することに気がつくことだからである。

しかし、それに気がつくことは楽しいばかりではない。それに気がつくことは、そしてそれを「気がついた」ということにすることは硬直でもある。しかし、私たちはどうしても硬直しなくてはならないのだ。ウィトゲンシュタインはこのことを次のように書いている。(これも権威づけに見えるだろうか。見えると言えば見えるし見えないと言えば見えない、くらいになっていればここでの取り組みは成功であり、そうなっていなければ失敗であろう。もうこの引用とそれに対する少しの考察でこの考察を終える。もうあんまり味がしないからである。)

言語による意思の疎通には、定義の一致のみならず、(不思議に聞こえるかもしれないが)判断の一致も必要である。これは論理というものを廃棄するように見える。しかしそれは論理を廃棄しない。-測定方法を記述することと、測定結果を知り、それを表現することは別のことである。しかし我々が「測定」と呼ぶものは、測定結果の恒常性によっても規定されているのだ。
『哲学探究』(鬼界彰夫訳)第一部二四二節

訳者である鬼界はこの節の解説において次のように書いている。「ここでは『論考』[=『論理哲学論考』:引用者]的な古い概念観に基づいた論理像に代わる、新しい概念観に基づいた新しい論理像が示されている。それによれば概念は、その定義によってのみならず、共同体におけるその使用例(判断例)の一致・不一致によっても規定される。」(『哲学探究』(講談社)517頁)。この解説は「共同体におけるその使用例(判断例)の一致・不一致によっても規定される」の二重性、「一致している」と「一致しているように見える」の二重性を指摘していないという意味で誤解を招くものだと思うがとりあえず重要なのは私たちが有り難がっている「論理」には「定義の一致」と「判断の一致」という二重の硬直が必要であるということである。もう少しだけ書いておくとすれば、入不二はここである「<見方の変更>」(『ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか』99頁)を求めているという。それは「規則→事実」(規則が事実を律し、根拠づける)ではなく、「原事実→規則」(或る事実があってこそ、規則の成立が可能になる)という逆の見方」(同書、99-100頁)に見方を変更することである。つまり、ウィトゲンシュタインがここで抉り出そうとしているのは「規則」の解釈において異同を語ることができるのは異同を成り立たせる「原事実」があるからであるということなのである。この「原事実」は言うなれば硬直である。しかし、それがなければ、そしてもちろん規則の文面上の硬直がなければ、私たちは「言語による意思の疎通」が叶わないのである。

しかし、このことによって根拠の無限も解釈の無際限も解決されたわけではない。し、もうすでに解決されてしまっている。というよりも解決したことにしないと場所が成立しない。「私とあなたは違う。」と言えるような場所が。

さて、問題はなぜ「私とあなたは違う。」と言えるような場所がなくてはならないか、である。これはよくわからない。しかしもし、このように言えることが上下の争いのために使われるのだとしたらそれはつまらない。私はこの「つまらない」にあーだこーだ書いてきたわけである。最後はやたらと権威をましましにしながら。どうだろう。最後のあたりで「ああ、信用できるなあ。」と思った人はそれが場所を開いているがゆえなのか、それとも権威っぽい語りであるがゆえなのか、それを振り返らなくてはならない。しかし、私はそれ以上に私が開いた場所に集まった彼ら、ウィトゲンシュタインが開いた場所に集まった私たちが何を「考える」ことができたか、できそうか、できるかに着目する必要があるのではないかと、いや、着目する必要もあるのではないか、と思うのである。だって、つまらないじゃん。そうしないとわざわざ勉強する意味がないじゃん。私の中にたくさんの人を集めて、いや、私のところにたくさんの人を集めて、誰かの中に、誰かのところに集まって、どうしようもない違いを「私とあなたは違う。」と言える僥倖を愛することくらいしか楽しいことはないから仕方ないじゃん。別にみんなにこう思ってもらいたいとかはまったくない。が、私は私の快楽をある程度掴むことでまた、楽しく「本を読む」こと、そして世界を愛し、世界に手をかけ、見て聞いて、またそれを何か、句でも詩でもおしゃべりでも、それにするくらいしか私には楽しいことが思いつかないのである。それは仕方のないことであり、それでいいんじゃないか、と思うのである。

自己弁護癖はおそらく弱っている証拠である。し、わざわざ自己弁護しなくてはならないのは弱っていることを隠すことである。しかし、そのこと、隠していることに気がつくのだとしたら、そしてもしその弱さを決めつけ、それを抱擁する気がないのだとしたら私はどう生きていけばよいのか、よくわからない。みんなもそうだろう?この「みんな」が誰か、私はまだ知らないのだが。

一通り推敲して書き直したいところや誤解を招くところを発見した。が、今回は文章の粒立ちに免じて許しておこう。まあ、眠たいから寝たいだけなのだが。

2024/5/9「トレンドと重さ」

現実逃避としての思考実践。

疲れているから仕方なく、仕方なく受け入れる。そこから思考実践は始まる。と私は思っていた。が、もしかするとそれとは違うルートで、いやもしかするとそれ自体は現実逃避のルートなのかもしれない。

元気になればそれを恐れ、疲れてしまえばそれを恐れる。恐れを恐れることなく。

私は本当は死にたいのに予言の自己成就が怖くて死にたいわけではないが衝動的に死んでしまう気がするなどと言っているのかもしれない。ところで「予言の自己成就が怖」いというのはどういうことなのだろう。

私は私に「人間じゃないふりをするのはやめな。」などと言いたいがそれは真実なのか。

ロマンチックとは何か。

そういうことにしないと意味づけられない。

べき論が人を苦しめるのではなくて「苦しんでいる」の原因をべき論にしているだけである。ただ、なぜそれがされやすいのかは考える必要がある。

「苦しんでいる」というのはメシアの待望であるとしよう。するとどうしようもない原因を挙げても仕方がないことになる。それゆえにそうではない原因を挙げる必要が出てくる。しかし、だからといってどうしようもないわけではないということにも限度はある。メシアはある程度来ない必要があるからだ。すると二重に制限がかかるのだ。どうしようもなさすぎないように、そして「どうしようもなさすぎないように」という思惑があからさますぎないように、という二重の制限が。もちろん、「あらかさますぎないように」は無限に続くと考えることもできるがこれも一つの制限である。均衡性は一つのレトリックであり、かなり人間的なレトリックだからである。それに適合するのが「べき論」だということである。別に「べき論」である必要があるかどうかはわからない。し、「べき論」の「論」を強く取れば「べき論」というのは議論の構造自体を指すと考えることもできるからその場合は「べき論」だけであると言っても差し支えはなくなる。その意味で「べき論が人を苦しめるのではなくて「苦しんでいる」の原因をべき論にしているだけである。ただ、なぜそれがされやすいのかは考える必要がある。」というのは人間に対する考察なのだ。しかし、ここまでで示唆されているように人間に対する人間の考察であるからこれも無限があり、それゆえにそれにも制限がかかっているのだ。これが「均衡性は一つのレトリックであり、かなり人間的なレトリックだ」ということである。

2024/5/10「ご無沙汰なサタデー」

最近はなんだか思い詰めているので息抜きに哲学について考えよう。哲学が息抜きになるのか、とか、仮になるのだとしたらそれは不誠実なのではないか、とか、そういうことを思う人がいるかもしれないが、事実そうなのだから仕方ない。私にとって哲学とは休息であり、文学とは窒息である。

このように書いてみて思い出すのは『水中の哲学者たち』で正確には覚えていないのだが哲学することを海の中にみんなで潜ることみたいに言っていたことである。息が苦しくなりながらもみんながいることで、なんだ?みんながいることでなんだ?こういうときは読み返せばいいと思うが「読む」というのは思い詰めずに行うことが難しい。いまの私には。なのでとりあえず思い出したことだけ言っておこう。

で、なぜ思い出したのかと言うと、私は文学にそういうイメージを当てたくなるからである。なんというか、哲学は溌剌としたものである。溌剌とすることである。だから海の中というイメージでは湿っぽい。それに対して文学は、と言おうとしたが、文学に湿っぽいイメージはない。私は「文学」でほとんど純文学を指しているが私はかつて「文学」について「文学とはある人の根本的な気分である。」と述べるのと一緒に「文学とは海の底のドームである。」と述べた。そのイメージを引き継ぐとすれば、「文学」は湿っぽさの底の乾きであると考えられる。

ただ、ここで話そうとしているのは「哲学」である。私にとっての「哲学」である。「文学」との対比を大事にするなら「哲学」における湿っぽさは蜜である。芳しい香りのする蜜である。そしてその蜜は二つの仕方で現れる。一つは重さによって。もう一つはねじれによって。そしてあまり底というイメージはない。無理に対応を取る必要もないが。

重さというのは同じ構造の異なる反復があるボリュームを持っていることを指している。例えば、私は最近私の「哲学」には「打ち切り」という実践と「問い-こたえ(答え/応え)」という実践とが存在していることに気がついた。というよりもそういうことにすれば探究が力強くなることに気がついた。別にどちらでもよいが後者のほうがわかりやすそうなので後者で話をしよう。

後者の根本にあることを雑談っぽく言うとすれば、「そもそもさ、なんで話さなきゃなんないのか、って話だよね。」「でもさ、君も話してるじゃん。話さなくてもいいのに。」みたいなことである。どんなことを話したとしても「話しているってことは話したいからだよね。何かを話したいからだよね。」みたいなことは追いついてくる。そしてこの追跡から逃げきれないと「なんで話したのかわかんない。何言ってるのかわかんない。」と言われるのである。仮にこのことを言おうとしても。だからみなさんも思っているはずである。このように。しかし、これは単にAに対するBの反復ではなくXに対するAの反復がBの反復であると考えられる。これがここでの実践であり、これが「こたえ」を「答え」と「応え」にしているわけである。

で、ここでの主題は「哲学」とはなんなのかということであり、この主題に私は「文学」との対比によってこたえようとしていた。その対比においてイメージの対比があった。「海/蜜」という対比である。とりあえずこれを手がかりにして考えていこうとしていたわけである。そして、「蜜」には「重さ」と「ねじれ」という二つの存在形式があり、「重さ」は「同じ構造の異なる反復があるボリュームを持っていること」であると言われていた。この「重さ」の具体的な例として「問い-こたえ(答え/応え)」の話が出てきていたのである。しかし、私は思っている。この説明は失敗するだろう、と。それはなぜか。それはおそらく、「ボリュームを持っている」がどういうことかよくわかっていないからである。だからとりあえず定義を少し緩くして「重さ」を「同じ構造の異なる反復がある」にしよう。いや、この定義だと「重さ」にならないので、なににしよう、「リズム」にしよう。とりあえず。

さて、「リズム」とは「同じ構造の異なる反復がある」ことである。それが「蜜」を生み出すわけだ。例えば韻というのは「蜜」を作る一つの手法である。韻にもたくさんあると思うがとりあえず異なる言葉の母音が一致することであると考えよう。なんでもいいが、「才能」と「胎動」は韻を踏んでいると言える。別に全部一緒である必要はなく、「感覚」と「シーバス」は後ろの二音が一致しているから韻であるし、「ギャンブル」と「短冊」は前の二音が一致しているから韻である。別に文字数を揃える必要もないし、別に言葉を跨いだり言葉の真ん中にあったりしても「異なる言葉の母音が一致する」なら韻と呼んでも差し支えないだろう。ここでの「同じ構造」というのは「母音の並び」である。そして「異なる反復」というのは「子音の並び」である。だから韻は「蜜」を作る一つの手法なのである。

韻は音に着目した手法だが、あるシーンのオマージュというのは「同じ構造」が「シーンの構図」や「シーンの文脈」であり「異なる反復」が「シーンに登場する具体物」であることになるだろう。別に他にもあるが、それは置いておいて抽象化するとすれば、Aという構造のXというあらわれとYというあらわれがあるというのが「リズム」なのである。と言ってみて、「リズム」はもう少し複雑であると思った。なので「リズム」ではなく、うーん、とりあえず「蜜」を作る一つの手法として「同じ構造の異なる反復がある」 =(か≒)「Aという構造のXというあらわれとYというあらわれがある」ということがあることだけ確認しておこう。と思ったが、手法と呼ぶなら「ある」で終わるのではなく「あることがわかる」くらいにしたほうがいいかもしれない。が、それだと話がもっとややこしくなるので、「蜜である」という状態が「同じ構造の異なる反復がある」もしくは「Aという構造のXというあらわれとYというあらわれがある」ことからわかる、くらいにしておこう。

眠たくなってきた。ので寝る。お昼だがまだお昼ご飯を食べていない。

眠いので起きたとき用にメモしておこう。「ねじれ」は「同じ構造の異なる反復をそれとしている基盤的構造が反転する」ことである。「Aという構造のXというあらわれとYというあらわれがある」はすでにその反転可能性が否定されているから=と言い切れなかった。眠くてもう書けない。おやすみなさい。

おはようございます。意外とたくさん寝てしまいました。吐き気がします。

まあ、それはよいのだが、「ねじれ」について考えよう。とりあえず上のメモを参考に考えよう。

ただ、正直言うとまとまっていない。なんというか、色々なことが干渉してきてしまってよくわからないのだ。しかし、形式的には理解しているつもりである。つまり、「ねじれ」というのは類比の「比」が成り立つための構造の反転のことである。しかし、この「類比」が「対比」であっては成立しないのかがよくわかっていないのだと思う。そして、上の説明は「対比」であっても成立することにしている。が、私はそうは思わない。寝る前にどう思っていたのかは知らないが私はそうは思わない。

とりあえず形式だけ示すとすると、「類比」というのは「対比の対比」のことであると考えられる。「対比」を「A-B」のように表すとすると、「類比」というのは「(A-B)-(C-D)」のように表すことができると考えられる。このとき「A-B」と「C-D」はXとYと表すことができるだろう。つまり、「(A-B)-(C-D)」は「X-Y」と表すことができるだろうということである。しかし、「(A-B)-(C-D)」は「X-Y」と表すことができるというのは両者をいつでも入れ替えることができるということではない。それでは「類比」を「対比」とは異なるものとして、すなわち「対比の対比」として考えていることにはならないだろう。「(A-B)-(C-D)」は「X-Y」と表すことができるというのは例えば「(A-B)-(C-D)」における「A〜C」「B〜D」(この「〜」は「から」でもなければ伸ばし棒の一種でもない。「類比」において対応していることを指す。)の二つともが成り立っていることを「X-Y」は表しているということである。しかし、ややこしいことだが「X-Y」も新たな「類比」における、すなわち「対比の対比」における前半の「対比」になることもできる。つまり、「A-B」はX、「C-D」はYということになって「X-Y」が「対比の対比」の後半の「対比」であるという制限が取っ払われることもできるのである。しかし、それはただの忘却であり……

話は長くなったが「反転」というのは「対比の対比」における後半の「対比」が反転することを指している。ここで重要なのは「類比」がそれとして成り立つのは「対比の対比」の後半の「対比」すなわち「X-Y」が安定しているからであるということである。

このことは例えば、とても単純な二項対立を考えるとわかりやすいかもしれない。その二項対立は「友/敵」という二項対立である。

しかしここで考えておかなくてはならないことがある。それは二項対立と「対比」の関係である。私は上で「対比」で「○-●」という書き方をした。これは二項が対化していることだけを指そうとしたからである。仮に「対立」を「○/●」と書くとすれば、それの成り立ちにも「○-●」が必要であると私は思う。なぜなら、そもそも「対化」していない二つの事柄は「対立」しうる「二項」ではないからである。これは言い換えれば「-」がすでに「二項」がそれであることを支えているということであり、それはもはや「対化」できないことであるということである。これは例えば、属性であると考えられる。例えば、「友/敵」が成り立つためには「友-敵」が成り立っていなければならず、それが成り立つのは「二項」ともに「人間」であるからである。それが明確に「対化」するのは、つまり「二項対立」となるのは「闘争」という条件下において、である。仮にずっと「闘争」状態にある人がいるとすれば、そもそも「友/敵」は「二項対立」なのだろうか。しかし、ある意味でそういう状態にあることを仮定しなければ「二項対立」は成立しえないだろう。しかし、この条件の議論と上でした「対化」における「二項対立」と「対比」の議論は別の議論である。関係がないということではないが。

ところで、私が「友/敵」という「二項対立」を取り上げたのは私がある事柄について言及したいからではない。ただ、この「二項対立」はたくさんある私たちの「類比」の可能性を極端に狭めるものであり、それゆえに反転も劇的に見えると思ったからである。あとは『友と敵の脱構築』という本の影響もあるかもしれない。

ここから私は私とAさんとBさんがいるとして、という仮定をして話し出そうと思った。だが、私には大きな問題がある。それは「個人」ということがよくわからないということである。そしてなぜよくわからないのかもよくわかっていないし、「これがわからないんだ!」とうまく言える気もしない。なので散歩してこよう。『友と敵の脱構築』のメモを読みながら。

ここからはメモを見ながら考えたことを箇条書きしておく。(ちなみに()内は頁数である。箇条書きにしていることを思いついた頁数り別に厳密さゆえにこれを書いているわけではない。もしかすると変わった人がいてここで引き合いに出している本に直接あたりたい人がいるかもしれないから書いている。あとは私にもう一度読ませるために書いている。後から思いついて番号も振っている。)
1.シュミットとムフ、殲滅とネタ、「対立してみようぜ!」という令和ロマンのくるま。(9-10)
2.「どういう環境下であれば、感情は、他者の苦痛への共感となるのだろうか。逆に、どのような条件下であれば、感情は友敵関係へとつながるのだろうか。」(23)。わざわざ対比したり対立したりすること、対化すること、それは不思議なことである。→2-2 「「感情研究」のなかでも、皆が共有できるような「感情」の定義はない。だが感情には、「こういう性質は間違いなくあるだろう」と認められる要素は指摘されている。その性質とは、受動的に発生すること、そして個人差があるということだ。」(25)→2-3「「理性的である」ことを重視するスピノザにとって「感情」は、理性を脅かすこともあるが、同時に、理性的になるためのエネルギーにもなりうる二面性をもつ。」(28)これは1.と関係が深い。→2-4ムフは「「触発」を言説的なものと情動的なものを節合し、同一化の特定の形式を生み出す実践であると考えるのだ。」と述べている(29)
3.「実のところ、「制限された歓待」とは、理想的で無制限な歓待を前提にしなければ、考えることはできない。無制限に歓待するという前提があって、はじめて「どう制限をかけるのか」という問いが生まれるからだ。」(36)「理想的な歓待とは、他者に自らの場をあたえ、到来させ、わが家のなかで他者のままいさせるようなあり方だ」(36)シュミット的に極端でも、ムフ的に中庸でも疲れてしまう。シュミットとデリダの間を揺れていること自体がムフ的であるように考える必要がある。

あの、41頁までしかいっていないがこの方法、とりあえずメモを読んでみるという方法は得策ではなかったかもしれない。ここでしたい話からずれていることも拾ってしまう。し、そのくせ別にうまくつながるわけでもない。が、まあいい、読んでこよう。

4.「脱構築へとむかう感情とは、未知への恐怖と驚愕である。しかし、感受性あるいは恐怖と驚愕からは、二つの歓待が派生する。一つは、恐怖の克服であり、憐れみであり、制限がない不可能で理想的な歓待への道である。いま一つは、恐怖の温存であり、他者を巨人とよびつづける、制限された歓待への道だ。」(44)ここでの「巨人」はデリダの用語である。(「未知の存在、いいかえれば、まだ「他者」と記述される以前の他者への「巨人」という名づけ=最初の言葉は、自己の感情(恐怖と驚愕)から発せられる。」(41))それは注意しつつなお重要なのはここでの「脱構築」と「ねじれ」は似ているということである。ただ、「ねじれ」は「他者」に向かっているというよりもむしろ、いや「他者」の「歓待」に向かっているというよりもむしろ「快楽」に向かっている。
5.(45-46)ではこの「敵」の記述において、ほとんどが前者になること、つまり再び「巨人」として記述することになることを指摘されながらも、後者のずれが時間的に繰り返されることによって「憐れみ」として記述すること、つまり他者を他者として記述することによって乗り越えられる可能性があると指摘されている。「反復可能性」と「反覆可能性」。しかし、「反覆」もまた「反転」の一種に過ぎないのではないか。別にプライオリティを主張したいわけではないが。
6.あまり関係のないことかもしれないが、カウンターカルチャーが成り立つときに「反転」は「反覆」になりうるのかもしれない。し、それはある意味で幸福なことであるように思われる。「敵がいる」と「敵を作る」。ラップスタア誕生のTohji。尾崎豊。
7.「「敵がいるから友が見いだせる、それならば友を見いだすためには敵が必要」<中略>なぜこのようなことをする必要があるのか。それは「友と敵が否定される世界」を否定するためにだ。」(51)これについては2.で一度触れている。
8.集団的アイデンティティと個人的アイデンティティの関係性。(52)
9.「「未来を開く」とは、こうした「いま」から未来へと意識を向けることだ。「幸運を信じる」(デリダ)とは、「未来を信じる」(ローティ)のではなく、未来へ開かれた「いま」を信じる(肯定する)ということである。「友」と一緒に「敵」を名指して闘争する考え方には、この未来への開きがない。というのは、友敵関係とは、「友」が「友」でありつづける、「敵」が「敵」でありつづける同一性の世界観を前提としているからだ。実は、こうした同一性の思想こそ、多分にロマンティックな信念といえる。」(64)ここで急に「同一性」の問題、上で言ったことでいえば「個人」の問題が現れてきた。これは8.とも関係が深い。
10.「友敵関係の思想、それは「現実をみよ」と述べているのではない。「現実をみるな」と叫んでいるのだ。」(65)これは洞察かつ啓発である。が、私は「快楽」の意味からもこの叫びが騒がしく感じてしまう。5.と関係が深い。
11.「「友」や「敵」は自分である。自分のなかにある「友」と「敵」という定義によって他者を理解しようとするとき、友敵関係がたちあらわれてくる。しかし、それは自分が思うところの他者であり、他者そのものではない。友敵関係の脱構築とは、この自己の思いこみを打破することである。他者を自同者として扱うことをやめるということは、自分が思うところの他者ではなく、他者そのものを想像することによってありうる。ここに二項対立の動揺と、他者の他者性を想像することがむすびつくのである。」(65)最後の一文を私なりに理解するとすれば、快と不快の動揺は享楽を実践することと結びつくのである。しかし、その実践はチューニングされなくてはならない。「破壊衝動はチューニング」とLIBROも言っていただろう?「特異性」(ラカン派精神分析)
12.「「友」と「敵」の二項対立は、自身が能動的に動揺させていくものではなく、到来する他者によって動揺させられるのである。」(74)これは1.の「対立しようぜ」と関係が深い。あとはサモハンテレビジョンの「右左どっちで左翼になった人」が一つの優れた表現であると思う。
13.「なぜ友敵関係を訴える者たちは、個人・個人主義を批判するのだろうか。その理由は、友敵関係とは一般名の二項対立であり、固有名は一般名の記述を動揺させる可能性があるからだ。」(80)ここでの「個人」は私の理解するそれと違うと思うが、それを踏まえると同意できる。し、しかし、「動揺」してばかりだともはや「動揺」はそれとして存在しないのだ。「外れ値」が存在するためには外れていない値が必要なのである。
14.「政治的なもの、友敵関係、一般名と一般名の二項対立を動揺させる立場は、最初から最後まで個人を語ろうとする。」(83)これはカウンター的な語りだが、私はその「カウンター」が存在するためには何が必要なのかも気になるのだ。それがないと話をすることすらできないと思うのだ。
15.「「友」と「敵」は同一性(必然性)の思想である。すなわち今日「友/敵」であった者が、明日も「友/敵」であることを前提としている。「友」と「敵」は自分なので、自分が今日も明日も変わらない必然性があることで成立する。この必然性の世界観を否定することが、友敵関係を動揺させることにもなる。だから、必然性を動揺させるもの、すなわち偶然性を論じることが求められるのである。」(103)私はかつて「偶然性」を愛していたのだが、いまはそれほどでもない。なんというか、「偶然性」の語りは「運命」の語りになってしまうからである。そして「運命」の語りは「努力」に傾倒することにつなげられてしまうからである。私はそれが嫌で嫌で仕方ないのだ。これは6.と関係が深いかもしれない。
16.「共感には、偶然性における共感と、必然性における共感があるということだ。偶然性における共感とは、スミスやローティのような、他者と自分をいれかえ可能とする共感である。他方で必然性における共感とは、ロールズが批判的に述べる、いれかえ不可能な共感、本書の言い方をすると、「友」への共感、他者を自分の思うところの他者とみなす自同者としての共感ということになるだろう。」(113)私はこういうことにあまり興味がなくなってしまった。なぜなら、本当に「いれかえ可能」であるなら「自分」も「他者」もそもそも成立しないと思うからである。これは時間を例にとっても同じことである。永井均。
17.生存者バイアスというのは本当に「バイアス」なのだろうか。私はどうもよくわからないのだ。さまざまなことが作用している総体をある個体の「バイアス」であると言うことなんてできるのか、と思うのである。(118)8.と関係が深い。
18.「不運とは、不安や絶望に陥ることではなく、他者に開かれず、自己に閉じこもる必然性にとりつかれつづけることだ。」(130)/「幸運とは、自己を閉じずに、他者をむかえいれて、他者の他者性を想像し、自己が生成変化していく可能性に開かれることである。」(131)この対比を私はあまり理解できない。それがなぜなのか、私はわからない。

さて、「本を読む」こと、まあメモを読んでいるだけだが、それが楽しくてよかったと思って、別にもう話したいことはない。ただ、それでは……

とりあえず1から18まで読み直して関係がありそうなところから話し始めよう。

さて、かなり面白かった。それはいいとして、私はなんの話をしていたのだろうか。ああ、「ねじれ」か。「ねじれ」は「反転可能性」のことである。それは「反覆可能性」のことではない。おそらくこのことがここで関係することだろう。番号で言えば、1.3.4.5.6.7が直接的には関係が深い。(間接的には、というよりおそらく根源的には、私にとっての根源としては8.が、実践的にはここまで出ていない番号すべてが「関係が深い」と言えると思う。)

「ねじれ」というのは一つの安定した均衡である。ここでの「一つの安定した均衡」というのは「裏返す」がそれとして成り立っていることを指す。それが成り立っていないのは例えばラップスタア誕生でTohjiが「昔の人なら大人が悪者だったのに/俺らは一体誰に立ち向かったらいい/目に見える不満がないことが俺らの不満で/つまんないこのぬるま湯からもう出たい」と歌っていたように「反転」がそれとして存在する余地がないということである。それを開くのが「ねじれ」である。とりあえず何かで余地を作り出すのである。

ごめんなさい。久しぶりに聴いたらすごく響いてなんだか書くのが億劫なのでとりあえず置いておきます。もう一度聴きます。

いい歌だった。

さて、「ねじれ」が「蜜」を生み出す二つの手法のうち一つであるというのは「ねじれ」は「快楽」だからである。しかし、「快楽」は持続するのだろうか。というのも、「ねじれ」は「反転」のことであるのか、それとも「反転可能性がある」状態のことなのか、それがよくわからないからである。このよくわからなさはおそらく「リズム」と呼び損ねた「蜜」の作り方でも同じである。持続するとするならば、それらはおそらく状態なのであろう。状態を作り出すことが手法としての「哲学」なのだろう。しかし、それではあまりに実践的ではない。し、旨味がない。甘いだけである。

さて、不意に「文学」に触れてしまったせいで私はある気分に落ち込み、落ち着いた。底まで来てしまった。「哲学」は結局底ではなかったのだろうか。状態だけだとするならそれはおそらく「文学」とは異なる底であることになるだろう。甘い、春のようなドーム、「文学」は澄んだ、冬のようなドーム。しかし、どっちも結局夕焼けは素晴らしい。青く、素晴らしい。Tohjiは言っている。「俺の見える青色と君の見える青色は全然違う」と。しかし、素晴らしいことに変わりはない。私はこの歌詞を知っていたし、そのことに関する哲学の考察、逆転クオリアみたいな話も知っている。し、そのクオリアがどういう構造なのか、なぜ生まれるのかについてもある程度のことを知っている。しかし、その愛、寂しさのようなものは知らなかった。それがまるで透明なトンネルを通って直通してきたのである。Tohjiのドームから私のドームに。

結局「海/蜜」という対比はねじれていた。と言わざるをえないだろう。しかし、どうねじらていたかについてはよくわからないところがある。「海」の上には、「海」があるためには「陸」が必要であるのか。私にはわからない。二つのパターンがあるだろう。ここでのねじれには。一つは「文学/哲学」という対比を「海/ドーム」と「X/蜜満ちたドーム」という対比で理解しているというねじれ。Xが何かわからないのだ。もう一つは「文学」の「ドーム」はどういう「ドーム」なのか、まるでわからないのである。二つを合わせて、なんと呼べばよいか、受容と表現の連関、みたいに呼ぶとすれば、もしかすると「地球/海/蜜満ちたドーム」みたいな階層性を考えることもできるかもしれない。だから、私は誤認していたことになる。「地球」を「海」であると。よくわからなくなってきたがそもそも成功する予感はしなかった。失敗作を出すのは心苦しいが直通を願って出すことにしよう。もはや推敲する元気はない。し、それがあるときがある気もしないので推敲もせずに出す。

疲れた。ただ、嫌な疲れではない。スカッとした疲れである。みなさんはもはや読んでいないか、嫌な疲れを得ただけかもしれないが。

君は何かを抱え込むことによって君であるのだ。しかし、君はその何かが何であるかを知らない。じゃあ君が知っているのか、って?それはわからない。これに「わかる」と答える、いや「わかる」と答えていることが君がその何かを何であるかを決めることの始まりだ。君はまだそこにはいないのだ。

私は実践的になれぬのだ。それはなぜか。私にはよくわからないが、一つ関係していると思われることがある。それは実践がすでに終わっている、という強い思いである。これがなにを意味していて、なにを言っているのか、それがわからないのである。

適切な打ち切り、これが実践上の課題である。しかし、打ち切りが起こらずに何かが起こることはあり得ないように見える。それゆえに実践が反省にしかならないのだ。「あれは適切だったのか?」と。しかし、その反省も無限からの打ち切りによってしか存在できない。そしてそれを問うことができるということはあり得ないのだ。

打ち切っているのだ。それを描くために無限が必要なのか?それはよくわからない。

私は私の能力が不足しているのではないところまでいきたい。もはや「能力がないからできませんでした。」と言えないところ、そこに落ち着きたい。いや、そこでしか落ち着けないのだ。

私は私が言う嘘から私の欲望を知るのだ。

「嘘」というのは「脚色」ではない。「強調」でもない。「創造」である。

私は私をやけに神聖視することもしないしやけに蔑視することもない。しかし直視することもない。直視というのは一つの神聖視であり一つの蔑視だからである。

私は私を責めない。私は私を責めない。しかし、それ以外ならネガティブに思えることもしていると思う。しかし、「責める」ことはしない。

それはおそらく私の特徴である。しかし、それがどういうことを表現しているのか、私にはわからない。

別に無理に考える必要はない。考えなくてはならなくなったら考えるだろうから。いや、いつも考えてはいるのだから。

好きとか嫌いとか決めなくていい。ただ強度があることを見つめたらいい。好き嫌いではなく強弱で見ればいい。

私は私に優しい。甘やかしていると思ったことはない。それがなぜかは知らないが。

私は今日、君と一緒にお布団に入りたい。それはなぜか、わからない。

私がもはや後付けできないような私、これが「持て余す」である。単純素朴な暴力があるのだ。

複雑すぎてよくわからない。このことのない単純さというのはつまらない。

つまらないことに理由なんてない。理由をつけることはできるが。

強く意識すること。それを見つめること。それを手に取って、嫌いなものでも手に取って、それを愛するわけでもなくただ単に見つめる。

強度は私のものではない。あるだけである。

お腹が痛い。冷えてしまったのかもしれない。しかし、私はまるで対策しない。私はまるで対策しない。なぜか。私は私を信じているのか。いや、おそらく違う。だがなぜかわからない。いや、「なぜかわからない」と言わせているのは何か。ねえ、とどこか見る。

2024/5/11「じゃあきっとジャキンジャキンだね」

もはや、AだからBを考えないこと。

私は私の中に寂しさのようなものを見つける。そのたびになんだか、生きていてもいいんだな、という感じがする。肯定なのである。

私は彼ら、哲学者たちの中に自ら、いや、自らそのものであること、すなわち特異性の輝きとくすみを同時に見る。

別に判明になった事柄を怖がらなくてもいいよ。君はその「判明」の条件を洗い出そうと、いわば遅延させる。しかし、それをしなくても別に君の価値は変わらない。そもそも、価値など存在するのだろうか。個物である私たちはそれぞれのコナトゥスを見つけるしかないのではないだろうか。

ここからは「自己嫌悪」や「自己肯定」について考えよう。まず、話したいことを明確にしておきたい。話したいことは二つである。一つは「自己」とは何かということ。もう一つは「嫌悪」やら「肯定」やらをしなくてはならないのはなぜかということ。この二つを考えたい。

まず、「自己」とは何か、である。この問いは大きすぎてよくわからない。が、ここで重要なことに絞るとすれば、「どうしてわざわざ「自己」を目の前に存在させる必要があるのか?」という疑問がいつも、私の頭をかすめる。私は「自己」ということを意識するたびにそれが意識させられていることに他ならないのではないか、と思う。しかし、私は怖くもあるのだ。それを意識せずにエネルギーを持って生きることができないのではないか、と思って。

誰かに訊かれる。「あなたはどのような人なのですか?」と。私は思う。そんなことはわからない。と。別に隠したいからそう言っているわけではない。これが最も正直な答えである。だから私はおそらく私を批判している人、称賛している人、彼らを嫌っている。表には出さないし、いや表に出ていたとしてもこのようなことからそういう態度を取っているとは思いもしないだろうから表には出ていないが私は嫌っている。彼らを。

私はこのことに対するある種の折衷案として「私-他人」という関係をより曖昧にするという戦略を取っている。過去の私は「他人」ではないか、ということを強調することを通して。私は強調していることを強調しつつこれをしている。それはなぜか。これは哲学的なことを言おうとか、何か突飛なことを言おうとか、そういうことではないからである。たしかに私もそういうことをすることがある。私にはそのように思えることをすることがある。しかし、これはそうではない。しかし、これを強調しないとそもそもなぜ私が「自己」がわからないかがわからないと思うのだ。

別に私は私の多面性ゆえに彼らの批判やら称賛やらを拒否しているわけではない。「私はもっといろんな面があるんだ!」という怒り、寂しさのようなものから拒否しているわけではない。そもそも、多面性というのは一つの立体に使われる比喩だろう。私はその立体そのものが多数あると思っている。それらが統合されて「自己=あなたたちが『あなた』と呼ぶもの」が生まれると思っている。そして私はその生まれに違和感があるのだ。よくわからないのだ。

私が君たちの話を聞いていないのはなぜか。聞けないのはなぜか。それは私が君たちになることが許されていないからである。そして許されていたとしても私はそれを怖がってしまうからである。

「自己」とは何か、それは「あなたたちが『あなた』と呼ぶもの」である。「あなたたち」が呼ぶ必要があるのか、「あなた」だけではダメなのか、それはいまはよくわからない。なので、「自己とはあなた(たち)が『あなた』と呼ぶものである」と言っておこう。ここでのポイントは呼ばれる側は「あなた」と呼ばれるということである。ここでは「あなたたち」にはならない。実質的にはそうであるがそうはならないのである。この「実質的に」がうまく言えないのだが。

さて、もう一つにいこう。もう一つは「嫌悪」やら「肯定」やらをしなくてはならないのはなぜか、ということであった。私は「自己」が好きでも嫌いでもない。なぜか。それは私が「あなた(たち)」になれないからである。どういう原因があってそうなのかはわからないがそれになれないかぎり好きも嫌いもない。私は私が書くものが好きなときがある。し、そういうときが多い。嫌いなときはあまりない。いや、おそらく、ない。快と快も不快もないしかない。ゼロからプラス方向しかない。そもそも、「自己」を対象にできないから好きも嫌いもない。大抵の場合は。それがおそらくゼロである。近すぎると見えないのだ。

もっとわからないのは「肯定」だとか「否定」だとか、そういうことである。わからないからなにも書けない。

ただ、仮に「自己肯定」が「自己」を作ることであり、「自己否定」が「自己」を作らないこと、であると考えるとすれば、私はずっと「自己否定」していることになるだろう。しかし、私はずっとそれをしているせいでそれがわからないのだ。

なんとか頑張って書こうと思ったが、わからなさすぎることは書けないらしい。そりゃそうだと思うが。

この文章を読んで誰か、誰か勇気づけられたり落ち着いたりするのだろうか。私にはわからない。私はおそらく仕方なく「過去の私は『他人』ではないのか?」と言っているのだと思う。それはある意味で譲歩でありある意味で自衛である。

二重の過剰、考えすぎること、考えないこと、私はそのどちらも恐れている。動けなくなっている。いや、すでに動いてはいるのだがそれを「動いている」と言えなくなっている。

言葉がそろそろ崩壊する気がしている。なんとなくだが。だから最後の輝き、それを見たいと思っている。いや、最後のくすみを見たいと思っているのかもしれない。

センスへの愛。愛だと呼ばれるものへの気乗り。乗ろうとしなくてはならないのだ。

私の「対比」と「類比」の関係はラカンの「メニトミー」と「メタファー」の関係にも見られる。しかし、ラカンは「対化」よりもむしろ「移行」を重視している。(『ラカンと哲学者たち』199頁)

と思ったが、むしろ「対化」は「移行」を含むことであるかもしれない。もっと根源的なのは並立、共立なのであろう。当然「並立」は並んでいて、「共立」は共にあることだけを示しているから後者の方が根源的であると考えるのが妥当だろう。

君は笑い、そして私はそれを不思議がる。私たちはいま、そういう関係にあるのだろう。そしてその関係はたぶんに医者と患者、精神分析家と分析主体の関係に似ている。

私たち人間には「自分は知者ではない」という始まりしかありえないのだ。これは意気込みの話ではなく必然的にそうであるという話である。

どうでもいいかもしれないが本屋さんで本を一冊だけ買うというのは困難なことである。今日も本屋さんに行って『哲学史入門Ⅱ』を買おうと思ったのだが、『生物と無生物のあいだ』と『今を生きるための現代詩』も買わなくてはならないというよくわからない使命感があって、結局買わなかった。何も。

このことは何をあらわしているのだろうか。よくわからない。

考えるエネルギーがない。

私は人生の意味について考えているらしい。しかし、これは伝聞なので実のところ何について考えているのかは知らない。

理由を作るときに固有の力学が働くということを等閑視することはできないだろう。

偏頭痛は頭が常に内側に畳み込まれているような痛みを持っている。

まあ、一旦考えてやろう。考え始めてやろう。「人生の意味とは何か」ということを。

そのための手がかりとして『人生の意味の哲学入門』の第一章で指摘されていることを確認しよう。蔵田は次のように言っている。

「人生の意味は何か」と問うのは、人生の意味が分からないからであり、かつ、それを知りたいからである。そして、「人生の意味が分からず、それを知りたい」と思うのは、大抵は、人生に悩みがあるときだろう(人生の意味が分からず、それを知りたいのだが、何の悩みもない、という状態はありうるだろうか?)。
『人生の意味の哲学入門』4頁

私はここで言われていることの意味がよくわからない。わかるとすれば、仮に「人生の意味とは何か」と問えば周りの人は「わからないから問うんだろうなあ」とか「悩んでるんだろうなあ」とか思ったり言ったりするということだけである。そして大抵の人は後者であろう。問うことと悩むことが同じようなことであると考えられるのである。それはそれで不思議なことだが、それ以上に気になるのは、私が気になるのは「わからないから問うんだろうなあ」の方である。仮にまったくわからないのだとすれば問うこともないだろうし、まったくもってわかるのだとしたら問うこともないだろう。そう思うのはわかる。が、それはなぜか?なぜそう思うことならわかるのだろうか。何を言っているか難しいだろうか。私は「わからないから問うんだろうなあ」と言われたらきっとこう返すのだ。「いや、問いたいから問うんだよ。」と。そしたらこう返ってくるかもしれない。「いや、だから、問いたいのはわからないからだろう?」と。そしたら私はこう返すかもしれない。「いや、だから、『わからないから』なんてわざわざ言わなくたって気になることは気になるんだよ。」と。私は私の「問う」を「わかる/わからない」というどうでもいいことに絡みつかれたくないのである。だから、二重に仕方なく連結していると思うのである。おそらく。一つは「人生の意味とは何か」と「問う」のはそのこたえがわからないからだという連結、もう一つは「人生の意味とは何か」を「問う」ということは「悩み」を持っているからだという連結、この二つの連結が存在して上の文章は書かれているわけであるが、それは必要のないことである。ただ、それこそ「わかる」というのはこういう連結の全体における部分として「問う」ことが捉えられることであるかもしれないからそうなるのは仕方のないことなのである。だからと言ってそれに甘んじていていいわけではない。だって、現によく分からないのだから。

そもそも、私は「人生」ということがよく分からないのだ。蔵田は次のように言う。

「人生」という語については大きな問題はないだろう。英語の"life"だと、生命一般や人類全体の生を指すこともできるが、日本語の「人生」は、そうしたものは指さず、"一人の人間の生活や一生"のことを指す。ここで問題にしているのもそれのことである。
『人生の意味の哲学入門』15頁

私にとっては大きな問題がある。ここでの「一人の人間」とは何か。それが私にはよく分からない。このことに関係することは「意味」について考えているところでも出てくる。蔵田によれば、ロバート・ノージックは「意味」に共通する核として「限界を超越する」ことがあると指摘しているという。そして、その指摘を踏まえて蔵田は次のように述べる。

私たちの人生はさまざまな限界をもつ。人生は一通りしか選べないし、それもいつかは終わる。この限られた人生が人類に大いに貢献したとしても、銀河系に比べればはるかにちっぽけでしかない。そして宇宙には無数の銀河系があり……。"こうした限界を意識して、その限界を乗り越えたいと思ったとき"、私たちは「どんな意味があるのか」と問うのだ、というわけである。
『人生の意味の哲学入門』23頁

私はそもそも「私たちの人生はさまざまな限界をもつ」と言えないと思うのだ。なぜなら、「人生」を全体として捉えることはできないと思うから。今日の私と明日の私は違う。目的によって彼らを統合しようとするにしても、それが叶ったとしても、それは「統合」ゆえに叶っただけでありそれ以外ではない。もちろん、「統合」を前提にしないことにはあらゆる「意味」がそもそも存在しないとも言えよう。しかし、それゆえにここではすでに限界が乗り越えられている。だから、ここで蔵田が引いているノージックの議論は面白いものの、なんだか後の祭りのように思えてしまうのである。「限界を意識して、その限界を乗り越えたい」と思うその前にそれは乗り越えられていると思うのだ。それをわざわざ「乗り越えたい」と思っていることにしているだけに見えるのだ。

別に私は問いを破壊したいわけではない。問いを享受したいとは思っている。しかし、それはとても困難であると思うのだ。特に「人生の意味とは何か」という問いは。いや、困難であるというよりもこの問いをみんなと考えていくことが困難であると思うのだ。どうでもいいことに「別に、別に、別に、……」と釈明し続けなくてはならない感じがするのだ。それがとても面倒くさく、無力感を感じさせるのだ。

私のこの振る舞いはたしかに問い自体の否認である。しかし、否認せざるを得ないのだ。なにしろ、私は否認せずに問いを享受できないのだから。仮に問いを享受しないのだとしたらわざわざ考える必要なんてない。私はそう思う。もう意味のわかっている問いに答えるのはコメンテーターがすることである。その答え方がいかに怜悧なものであったとしても、それは享受ではない。ただの賢さ、賢しさである。別にそれを批判するつもりはないが、私はそれに興味が湧かない。まったくわくわくしない。私は嫌がらせでこう言っているのではない。と自分では思っている。だって、つまらないんだもん。それじゃあ。

私は『人生の意味の哲学入門』をまだ第一章しか読んでいない。だからつまらないのかもしれない。「ああ、こいつとはお手合わせ願いたい。」と思うような誰か、それが現れることを願おう。「ああ、この問いは抱擁せねば。」と思うような問い、それが現れることを願おう。それしか方法はない。わざわざ興味がないことを考えるために哲学をしているわけではないのだから。面白く考えられるか否かはその人自身による、と言う人もいるかもしれない。それはたしかにそうだが、私は「面白く考えられるぞ!」とアピールしたいわけではないし、そもそも私が考えたいことが素通りされていることを訴えるのは非常に疲れることである。それなら時が来たときに対峙するほうがよい。なんでもかんでも対峙するなんてびびっているだけではないだろうか。不安で、恐怖で、キョロキョロしているだけではないだろうか。そして自分よりも弱そうな人を見つけて、いや、弱そうな人を作ってその人にいちゃもんをつける。なんてつまらない振る舞いなのだろうか。なんの複雑さもない。なんてつまらない振る舞いなのだろうか。

そう。私はもしかすると「人生の意味とは何か」に興味がないのである。というか、「人生」も「意味」もよく分からないから「何か」とか言われても困るのである。そもそも何が問われているのかが分からないのだから。それに目を瞑って答えを出すのなら、後付けであり、後付けであることを隠すことを隠すことである、となるだろう。そんなふうにしか思えない。

ある頁とある頁のはざまが私によってぎゅいんと開かれた。それはこの本における一生の開きである。私は不意にそれをしてしまってどうにも変な気持ちになった。

要素分解された値のような幸福たちよ。貴殿らはなぜ私を喜ばせないのか。私は不思議に思うのである。

身体の剥離。魂の孤独。世界が膜の向こう側。

わくわく、どきどき、血湧き肉躍る。そんな問いがある。しかし、それゆえにその他のつまらない問いは問いにすらならないのである。私にとっては。

人生に意味を見出すこととその意味を見出すことを邪魔されること、その二つの均衡なのである。結局は。

私は彼らを憐れんでいる気がする。しかし、この憐れみは自己防衛、自己欺瞞なのかもしれない。しかし、そう思わされているだけなのかもしれない。よくわからないのである。

マゾヒズムにも必要な最低限の反転性。それを支えるのは何か。いや、それを支えるものを体力と呼ぼう。

たしかに性急になっているのである。サディズムによって。私は早とちろうとしてそうしているのである。そのように見える。それはなぜか。結局私は口だけだったのだ。反転について。

私はAならBとして振る舞うべしにちゃんと従えていないのではないかと怯えているのである。

他人と話していて楽しいのはどういうときだろうか。それはおそらく、

難しいなあ。

私は「他人を利用しない」ということに厳しい。自分に対して「他人を利用するな!」と強く言っている。周りから見たら利用しているように見えるのだろうけれど。

私は私の残酷さに怯えているのである。

たしかになあ。他人に関わるとなんだか、なんだか怖いのだ。

2024/5/12「かに道楽みたいな髪型」

私に無限の時間があるわけではない。しかし、だからといって無限を設定すると私の知りたいことはもうすでにつまらなくなってしまう。そういう困りがある。

哲学とは「一つの地域を見出す」ことである。

ここで重要なのはおそらく、「住まう/見出す」という対比であり、「一つの」という限定である。この二つはおそらく同時に発見される。

私の哲学は紀行文なのかもしれない。

私の哲学は地図ではない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?