私が興味を持てないこと

私が興味を持たない、いや、持てないことについて書いてみよう。もちろん、真に興味を持っていないものはここに現れない。ただ、「興味を持てないなあ」と思うものは現れるだろう。さらに言えば、そのことについて考察することで私のことがよりわかるようになるだろう。

私が興味を持てないのは「歴史」である。もう少し精確に言えば、いま目の前にあるものの背景としての「歴史」である。さらに言えば、「歴史」の構造についても興味が持てない。「歴史は繰り返す。」と言われるような「歴史」、それにも興味が持てない。

私はある程度は不思議がっている。興味が持てないということを。私には「歴史」を学びたいという、そういう欲望がまるでない。と、書いてみて思ったのだが、私は「哲学史」においても「歴史」を学びたいという欲望があまりない。しかし、やはり「哲学」は学びたい。だから少し明確になった。私は「発展」や「成長」にあまり興味がないのかもしれない。「進化」は断絶していることが強調されてもいるから興味がある。構造が摘出されざるを得ない状況をその断絶は作ってくれるからである。そうか、私は断絶を繋ぐことには興味があっても断絶していないことを見てとることには興味がないのかもしれない。

もちろん、「歴史」も断絶と接続の連続ではあるだろう。しかし、接続がうますぎるとなんだかつまらなく思ってしまうのである。また、接続が強調されていても、言い換えれば断絶がありありと存在していても、それが「発展」や「成長」として考えられるとなんだか萎えてしまうのである。口をとんがらせて、「あーあ、」と思ってしまうのである。

だからおそらく、本質的には「発展」や「成長」アレルギーのところがあるのである。おそらく。

では、「変化」はどうか?

おそらくそれも嫌いである。「変化」のためには同一性を想定する必要がある。同一性を想定することなしに「変化」を考えることはできない。しかし、その同一性の想定には権力のようなものが働いている。それが嫌いなのである。しかし、この問題はあまり提起できない。なにゆえかわからないが。しかし、この問題をとりあえず保留にすることはできない。なぜか私はそうできないのである。

しかし、私は思った。「歴史」はそこまで闘争的ではない。なんというか、「嫌だなあ」というよりも「興味がないなあ」なのである。この差は何か。

おそらく同一性の想定を担保することを私が担わされているか否かが違うのだろう。「歴史」は国とか英雄とか大衆とか民衆とか、それらが同一性の想定を担保するのに遣わされている。私は残念ながらそのことにあまり興味を持てない。しかし、「変化」、特に「成長」は私が同一性の想定を担保するのに遣わされる。個人として。それが嫌なのである。だって、私は多様なスケールで断絶しているのだから。それを単線にすることが許されるわけがないと思うのである。というかそもそも、線になるような点の断絶は実は線になれるようなものではないと思うのである。

この嫌さを考えるのにもしかしたらベルクソンは役に立つのかもしれない。「変化」に代えて「変容」を考えたいと私は思っていた。少し前。「変容」は同一性の想定を担保する何かも「変化」しているとしたらその担保における同一性の想定を担保するものは何かと問えることを明確にする。もちろんそれだけではないが、とりあえずここではそのことが重要だろう。もちろん、このように考えることは無限を呼び込むだろう。どうしようもない無限。しかしそれでも、やはり、嫌なのである。興味を持ってしまうのである。

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