1-1-3 思想の三つの段階を考察するための下準備としてのアナロジーとアレゴリーのコレラチオン

前回の話は二重性とコレラチオンといういわば分裂のはっきりした概念の説明でありましたが、今回はそうはいきません。

前回のものを貼っておきます。

https://note.com/0010312310/n/n63c1c0cd48eb


しかし、二つの概念は二重性やコレラチオンのように哲学に癒着してしまうような性質を比較的持たないので、ここで簡単に辞書的に説明していきましょう。

アナロジーというのは、類推のことで、特定の事物に基づく情報を、他の特定の事物へ、それらの間の何らかの類似に基づいて適用する認知であるとされています。
しかし、この定義では、少し性質が不確定であります。
例えば、文学と哲学の間に穴ロジカルな引用をするとしましょう。
文学から哲学へとアナロジーが働いたとすると、文学のなんらかの情報を、哲学へと適用したということになります。つまり、文学の断片が哲学の断片に反応したと、その間にはわれわれがいた、ということになります。
しかし、ですが、アナロジーというのは部分的なもの、たとえば、文学のかけらに哲学のかけらを見ること、またその逆、そしてその相互浸透のすべて、としてのアナロジーと総体としてのアナロジーに分かれ、二段階を形成してしまい、そこで起るメタアナロジーな現象には目が当てにくくなってしまいます。
そこで、哲学と文学の相互浸透としてのアナロジーを「アナロジー」として考え、それを現存在的に行う主観をメタアナロジーな主体として名づけましょう。
そうすると、アナロジーというのはメタアナロジーな主体の行為によって継続される状態で在るという認識が誕生すると思います。
ここで、アナロジーとメタアナロジーな主体は、例でいえば哲学と文学の関係に相関しているように感じられます。
言い換えれば、アナロジーという相互浸透には主体と主体を取り巻く環境という関係を見出すことができるのです。
これは、シニフィアンとシニフィエがシーニュとなり、そのシーニュがまたシニフィアンへと回収されていく様や、知性のαが一つの要素でありながら、ある過程の終結的な集合で在ることと互換性を持つことに似ています。

ここで話を一般化してみましょう。
AとBの間にアナロジーという相互浸透が状態として起こるにはそれを行うメタアナロジーな主体が必要であります。BのうちにAが主体として生きること、またその逆の生が理論的にも、実際的にも存在することは、アナロジーという状態とメタアナロジーな主体との関係と相関を持っています。そして、ここが重要なことなのですが、アナロジーがアナロジーとしてアナロジーとなるのは、メタアナロジーな主体の変容によってであり、AとBが反転するのと同じように、アナロジーとメタアナロジーな主体は反転するのです。
つまり、アナロジーの状態はメタアナロジーな主体の行為によって成立しますが、そのメタアナロジーな主体はアナロジーによって規定されているのです。
ここでのコレラチオンの段階は非常に複雑であり、それに伴い二重性も複雑を極めますが、ここで重要なことはここで働く志向的な二重性はアナロジーとメタアナロジーな主体との間にはではなく、メタアナロジーな主体とメタアナロジーな主体との間に起こるということです。
その意味で、アナロジーは静態的な状態であり、メタアナロジーな主体は動態的な状態であると言えます。

アレゴリーに関する考察はもうすでに終わってしまいました。
アレゴリーはアナロジーの集合であるので、アレゴリーにはアナロジーの互換性しかありません。それを互換させうるのは、メタアナロジーな主体にほかなりません。
ロランバルトなどは、このメタアナロジーな主体がアナロジーの互換性に、つまりアレゴリーに解けているものとして捉えました。
それに反抗した実在論者、サルトルなどはそのメタアナロジーな主体としての想像力を現象学的に考察しました。
それが『イマジネール』であります。
しかしながら、僕のこのアナロジー論を展開するにはあまりに僕は力不足です。
なので、それは未来へと繋ぐとして、このアレゴリーやアナロジー、メタアナロジーな主体というのは、不思議なことにそのまま思想的段階を表しているのです。
思想的段階に関する考察を展開するには、また少しだけ不足があります。
それは、思想の分析だけにならないために、創造を伴った分析、分析を伴った創造を思想に対して行うために必要や不足です。
ここからは、アナロジーへの憧憬的な憧れの詩学へと向かいましょう。
これは、バフチンの『ドストエフスキーの詩学』への尊敬からなる、いわばアナロジーの集合であるので、それはそのまま思想のアレゴリーへと展開していくのでしょう。

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