「作品を作る」こと、「作品を受容する」こと

作品は思い出すために存在する。何を思い出すか。作品が思い出させてくれることを。

 これは私の「作品」に対するスタンスを明確に表現したアフォリズム?である。いや、精確に言うなら「作品を作る」に対するスタンスを表現したアフォリズムである。
 私は私の作品が大好きである。これは何度も言っていることである。しかし、これは私の名前が記された作品が好きということでもないし、状況証拠的に私が書いたとしか言えない作品が好きということでもない。私は「作品を作る」ことになった何か、それを感じたときにそれを「私の作品」だと思っているのである。しかし、大抵は他人の作品と私の作品はそれを作った人、作者で区別されているからこれは詭弁なのかもしれないが。
 しかし、他人の作品でも上に書いたようなアフォリズムのような受容が可能になることがある。「そうだよなあ。」と言いたくなるような、でも誰も言ってなかったような、そんなことを見つけることがある。しかし、私は同時に思うのだ。「そうやってさぼってんじゃないよ。」と。他人さんが言ってくれたことをあたかも自分が言ったと錯覚して、その錯覚を見ないふりをして、それでいいのか、と言いたくなるのである。しかし、私は同時に思うのだ。「でもさあ、別にいいんじゃないかな。それが『私の作品』に近づくことに集中すればいいんじゃないかな。」と。別に他人の作品が「私の作品」と誤認(?)されても問題はない。あるとすれば、それはプライオリティの問題だけである。一人で楽しむならそれは別に問題じゃない。
 「作品を作る」ということが最も重要な「作品を受容する」の練習である。私はあくまで「作品を受容する」のが本番だと思う。私はあまり「作品を作る」ことをしたいとは思わない。作っているときはあるし、そこで作られた「作品」はとても素敵である。ときもある。しかし、そんなに覚えてられないし、そもそも「私の作品」というのも「作品を受容する」の一つの形式にすぎない。何かが譲歩された形式にすぎない。私が何かをしなくてよくなった形式にすぎない。
 たしかに「作品を作る」ことは「作品を受容する」をより素敵にするだろう。それはまったく間違いではない。しかし、「作品を受容する」ために「作品を作る」というのはなんだかおかしなことである。何が言いたいのかはわからないが、二つのこと、「作品を作る」ことと「作品を受容する」ことにもし関係があるとすれば「練習/本番」という対比がいいのではないか、くらいに思っている。そして、それくらいに思うのが良いのではないか、とも思っているのである。おそらく。
 ひさしく私は「私の作品」を作っていない。それがなんだか寂しいだけなのかもしれない。まあ、「作品を受容する」をあまりしていないから仕方ないのかもしれないが。

水口に清明の雲はしりけり

大嶽青児

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