疲れきった頭で考える

なんだか頭がとても重たい。今日は展覧会に行って三時間強、頭を休ませることなく、いや後半は少し休ませていたが、ほとんど限界まで頭を使ったので誰か知らない人に、いや、知っているけれど特に特定のモデルがない人に話していることにして頭のガスを抜こう。その労働、頭の重労働からもう6時間弱経っているのだが頭が重くて仕方がない。寝たのにもかかわらず治らなかった。困ったことだ。

理解というのは対比を見つけることである。対比というのは共起と対立のあいだに存在する。それぞれを書き分けるために記号を導入しよう。「・」と「-」と「/」である。九つの要素からなる体系を考えるとすれば、「集める」と「理解する」と「強調する」という三つがあるカテゴリー、「・」と「-」と「/」という三つがあるカテゴリー、「テーマ」と「主題」と「議題」という三つがあるカテゴリーが縦方向に「集める」「・」「テーマ」、「理解する」「-」「主題」、「強調する」「/」「議題」というふうにあると考えられる。これを仮に表にするとすれば、縦方向は列であり横方向は行であると考えて、行の方にはカテゴリーが列のほうにはタイプがあると考えられる。

ここには表は入れられない(やり方を知らない。)ので頭の中で作図していただくことにすると下のように書ける。(*は間があるということを示す。)

「集める」*「理解する」*「強調する」
「・」*「-」*「/」
「テーマ」*「主題」*「議題」

余計分かりにくくなったかもしれないが、横方向は見た通りであり、*を軸に考えると左側と真ん中と右側がありそれぞれがタイプであるということである。横がカテゴリー、縦がタイプである。

さて、私がこんな表を考えるのはなぜだろうか。それは私が対比のカテゴリーの成立として主題のカテゴリーが気になるからである。これは問題意識としてそうであるとも言えるが、もっと根源的なものであり、おそらく、おそらくはそういうものであり、だからこそそれを詳しく理解するためにとりあえず三つにしておいたというわけである。特別三つにした理由はないが、強いて言うなら「均衡」のレトリックが私は好きだからである。「二重制限」のレトリックと言ってもいい。冒頭で私はこう言った。「理解というのは対比を見つけることである。対比というのは共起と対立のあいだに存在する。」と。さらに言えば「理解というのは集めることと強調することのあいだに存在する」ということになる。こういう「あいだ」性が私は好きなのである。それを見出すのが。

では、「主題」が、と思ったが、もう一つ言っておくことがある。「主題はテーマと議題のあいだに存在する。」と。「表記法」、すなわち「・」と「-」と「/」はそれぞれ「共起」「対比」「対立」を示すためのものであった。だからここまでの議論の「表記」についてはそれぞれに読み換える必要があるかもしれない。ここまでは普通の訂正だが、それ以上に重要に思われるのは、「表記法」が「タイプ」の名前なのか、あくまで「対比」が属するカテゴリーにおける簡便のための記号なのか、どちらか?ということである。そして私は「タイプ」の名前なのではないか、と思う。というか、そう考えたい。そう考えると、「タイプ」には「・」と「-」と「/」があり、それぞれ「集める」「共起」「テーマ」、「理解する」「対比」「主題」、「強調する」「対立」「議題」があることになる。

こうなると、「集める」「理解する」「強調する」などの行にも名前が欲しい。まあとりあえず、あまり納得はしていないが簡便のために「行為」「体系」「基盤」にしよう。「行為」は「集める」「理解する」「強調する」、「体系」は「共起」「対比」「対立」、「基盤」は「テーマ」「主題」「議題」である。これによって表はより綺麗になった。が、それを示す術が残念ながら私にはないのでみなさんに想像していただくことにしよう。申し訳ない。

さて、私たちの前には二つの道が続いている。一つは上でしようとしていたように「体系」においてどうしても「基盤」に着目してしまうというのはどういうことなのかを考えること。もう一つは……忘れてしまった。なので仕方ない、前者をしよう。わざわざ後者を出そうとしたということはおそらくそれがしたかったのだろうけれど。仕方ない。

私たちは議論を整理するとき、「体系」を用いる。「共起」「対比」「対立」が基本的な整理の仕方だろう。「共起」は「テーマ」によって「集める」ことであり、「対比」は「主題」によって「理解する」ことであり、「対立」は「議題」によって「強調する」ことである。私はそう言いたいのだ。ここで強調されているのはおそらく、「行為」の部分である。私たちはわざわざ「テーマ」や「主題」、「議題」を駆使して整理する。いや、整理するというのはそれらを駆使することなのである。

そもそも森羅万象から「共起」を見出すためには引力が必要である。その引力を見るための概念が「テーマ」である。そして「共起」に引力以上の関係を見出すためには安定が必要である。その安定を見るための概念が「主題」である。また、その「対比」に安定以上の安定を、つまりは舞台のようなものを見出すためには闘争が必要である。その闘争を見るための概念が「議題」である。

ここまで順番であるかのように話してきたが、これらは順番にあるわけではない。むしろ、「体系」が先にあり「行為」と「基盤」は後から発見されるのである。しかし、これはおそらく時間的な順序に過ぎない。基礎づけている-基礎づけられている、という関係で考えると「体系」と「基盤」の関係づけが「行為」として考えられていると言えるだろう。

さて、これは別に整理にすぎない。私がこれで何をしたいのかはわからないだろう。しかし、申し訳ないが私はこのことを何かのために作ったわけではない。すでに作られていることを整理しただけである。だからむしろ、これは何に使えるのだろうか?という問いがここにはある。

私はこの何かを悟るために使いたくはない。なんというか、これらはおそらくすっと身を引くことに使える。し、「基盤」と「体系」の関係を考えること、別様でありうると考えることは「権力」について考えることであるだろっ。その意味で有益ではあると思うし、「権力」をこけにしたい場合は役に立つだろう。しかし、私はそれが行き過ぎてしまうと思うのだ。私がそうであるだけでみなさんがどうなのか、私は知らない。が、私は怖いのだ。それが行き過ぎてしまうことが。それゆえに私はこの何かを持て余している。私はどうしてもこのようなことを考えるのだが、それを有効活用する術が見つからないのだ。

だから、整理することにしか使えないのである。そして「基盤」のところでずれている場合の絶望を味わうことにしか使えないのだ。しかも、私はおそらく「基盤」で通じ合えないような、そんな気がしているのだ。

しかし、通じ合いたいのだろうか。私は。わからないのだ。それも。コミュニケートしたい気持ちはおそらくある。が、それがなんなのか、私にはわからないのだ。

目の前に絵がある。私はそれに触りたい。らしい。なぜかって?触ろうとしているからである。いや、何かしていて、その何かは「触りたい」に見えるからである。しかし、触ることは許されていない。私は目で触ってやろうと近づくが監視している人、なんと言えば良いのだろうか、美術館の館員さんは私に近づいてくるのだ。「君、何をしているのかね?」と言おうと。それは正当なことだろう。それは正当なことである。しかし、私は何も悪いことをしていない。触って壊したいわけではない。触ってみたいだけである。触ってビリビリと剥がしたいとも思ってそうだが実際にそうしているわけではない。というか、そうしなかったから、私はそうしなかったからいまこのように文章を書いているわけである。しかし、ストッパーはどんどん緩くなって、緩めているわけではないが緩くなっている、そんな気がするのである。

そうか。この何か、これはおそらく「遅らせる」ために使えるのだ。生きることはその「遅らせる」の上に成り立っている。そうだ。きっとそうだ。しかし、それを整理してしまって、いや、つまらないものにしてしまって、それで私のストッパーはもはや消え去ろうとしている。バイバイしようとしている、私はそれにストップをかけている。逆転しているのだ。私とストッパーの関係は。

さて、結局何も話さなかった。が、私は割と満足している。区切りがつけられそうになったから。しかし、区切りがついたら危険な気もする。どうにかしよう。そうするしかないのだから。

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