「人間観察」をする私を観察する

私はいま、おそらく「人間観察」と呼ばれるようなものをしている。しかし、私は極度に人間をモノ化している。機械化している。その振る舞いを解釈するためにか、そもそもそのような見なしを隠すために解釈を強調しているのか、それはわからないがとりあえず「人間観察」のようなものをしている。

趣味を「人間観察」と言う人に出会ったことがない。というか、あまり他人の趣味を知らない。何人かの友人の趣味を脳内で検索したが何もヒットせず、あるのは状況証拠だけである。

私はおそらく私のステレオ化に怯えているのである。ステレオ化してしまう自分が怖くて怖くて仕方がないのだ。それゆえに私は他人に趣味を聞いたり出身を聞いたりできない。これはときに「変人ぶってる」と言われる所以なのだが、私はむしろ私の中の人間性、そしておそらく私が醜いとみなしているそれを隠すためにどうしても変人になるしかないのである。その意味でそれは哀れである。

もし、このような嘆き、いや、これは嘆いているのだろうか?このような振る舞いを「変人ぶってる」と言う人がいるなら私からその人に言うことはない。なぜか。それはつまらないからである。そんな人と話してもつまらないからである。これは別にその人が思うように思ってほしくないということではない。私はあなたをつまらないと思うから、しかもそのつまらなさを考えることもできないくらいつまらないと思うから私からは話しません、ということである。まあ、これも想像上の誰かを思い浮かべていて、その執拗さをむしろ欲している、承認してほしいよお、という目配せであると考えることができるのだが。

さて、話を戻して私は「人間観察」をしている。が、何もわからない。いや、解釈にまるで停滞がなく、すべてはするりするりと過ぎ去っていく。ショッピングモールの椅子に座っているのだが。

ただ、「人間観察」をしてみて思ったことがある。それは人間は複数人いた方が観察しやすいということである。言い換えれば、解釈の止まり木のようなものとして一人よりも複数人のほうが存在しやすい。存在感がある。一人はなんというか、何でもない。やたらと変な動きをしていない限り手がかりもないし手をかけようとも思わない。

解釈ということが可能であるのはある程度の複数性が担保されているからである。複数人いるときは複数性を開く可能性がある。例えば、あの二人は恋人なのかな、とか、あの二人は喧嘩中なのかな、とか、そういうことを思ったり、恋人だとしてどういう恋愛関係なのかな、喧嘩中だとしてどんな喧嘩をしているのかな、とか、そういうことを思ったり、そういうことをして複数性を開く可能性がある。一人のときはそれがない。関係を見出すのが困難である。群像劇、という言葉があるが、劇はそもそも群像劇でしかないのかもしれない。しかし、それが偶像劇ではないのはなぜか。

私のこたえはとりあえず、とりあえず、そんなことを言ったら「劇」自体が「偶像」的だからというものである。言うなれば、「偶像劇」に対比させられるものが思いつかないからである。しかし、私はいまそれを「群像劇」と対比させようとしたのである。そもそも、「群像劇」も対比することがない気がする。それは私が一人で存在する人たちに何も思うことがないことからそういうことになった。

もちろん、一人でいる人にも歩き方とか、目線とか、そういうものを枠組みとして付与すれば複数性は担保される。しかし、それはなぜか「群像劇」とは違う。ストーリーがない。ただの個体が存在するだけなのである。しかし、本当はただの個体が存在するだけなのではないか。

さて、いろいろ散らかしたのだが私の能力不足ゆえに片付けることができない。もしかすると片付けるための準備ができていないのかもしれないが。

モノから人へ、という移行、転換は何によって起こっているか。それはその移行を起こさせるものに私が反応したから起こっている。解釈が始まるというのはそういうことである。そして私はその解釈において「偶像劇」性を「群像劇」性に変えようと必死である。私にはそのように見える。なぜか。というか、それはどういうことなのか、私にはわからない。

ここに重要なピースがあるとすれば、「人生」であろう。それぞれの人の「人生」。しかし、私はその「それぞれの人」がよくわからないのだ。ここにあるのはスケールの問題、次元の問題である。たしかに私はこれまで存在してきた。皆に呼ばれる名前もある。しかし、それぞれの私もまた他人の集まりとして存在してきたのである。それがまとまる術はないのか。他人の集まりとしての私として集まる術はないのか。その可能性を私はおそらく「群像劇」に見ている。どうしてか「偶像劇」になってしまうことに抵抗するというビジョンに見ている。

仮に整理しておくとすれば、ここには解釈の始まりに関する主題と解釈が始まって「集まる」ことに関する主題とがある。しかし、この二つの主題の関係という主題もある。し、おそらく最後の主題を考えられていないからその前の二つが考えられていないのである。いや、別にそういうわけでもないかもしれない。よくわからないが、とりあえずピースが足りない。私の力ももちろん足りないのだが、ピースが足りない。しかも、いくつ足りないのかがわからない。仮にいくつ足りないかがわかるなら仕方なく形を見て、とりあえずこれ嵌めとけ、みたいな感じで考えることができる。しかし、私にはそれができない。それがなにゆえなのか、それがわからないのである。

考えることに落ちてしまった。私はただ「人間観察」がしたかっただけなのに。この「観察」に仮説は存在しない。いや、存在する。ただ、私の興味はそこにない。私は仮説を存在させようとする私の努力にあるのである。これは何をしているのか、それが気になるのだ。

微かに思っていたことを書いて終わろう。おそらくこれがピースであるわけではない。いや、そうだろうか?わからないがとりあえず書いておこう。見られている人たち、ショッピングモールに来ている人たち、彼らは「見られている」とは思っていない。もしかしたら思っているかもしれないが思っていないように見える。なにせ私はただ椅子に座って携帯でこの文章を書き、たまに顔を上げているだけの人なのだから。この非対称性、あちらは見られていて私は見ている。しかも私は見たことを書いている。その人たちには秘密で。というか、秘密で、という感触すらない。この感触があるのは立ち止まっているからである。このような文章を書いているからである。これはどういうことなのか。フーコーという名前が思い浮かんだが私はフーコーをあまり知らない。対面の椅子に、結構遠い対面の椅子にこの文章の途中からずっと座っている人がいる。何を思っているかはわからない。けれど、その人と私の姿はほとんど同じである。その人は携帯を見ているわけではないからそれは違うのだが。

誰かを待っているのだろうか。あの人は。私は誰も待っていない。一人でバイクでブーンと家に帰るだけである。まあまあ時間のかかる家に。

さて、特に書くこともないので終わることにしよう。一回だけ読み直してやる気が出たら書こう。最近はあまり書く気が起きない。

どうして私はあの人、もう居なくなったのだが、あそこにいた人が誰かを待っていると思ったのだろうか。思いたがったのだろうか。私にはわからない。けれど、私は、そのような私を見てなんだか嬉しかった気がする。たくさんのピースがあり、それらはまだピースになってすらいない。だからおそらく、私が「ピースが足りない」と言っているのは一つの希望なのである。そうであるといいなあ、という希望。それなのである。

もう帰ろう。これ以上ここにいるとなんだか、みんな私に見えてしまう。それは重すぎる。そろそろ夜も深くなる。店員さんたち、そこに来ているお客さん、二人は儀礼的に存在できている。それを見るたびになんだか、私は安心する。「ああ、私はそうはなれなかったのだな。」と思えるから。一人で歩く人たちはほとんど無表情である。彼らは私に見えてしまう。夜、川に飛び込むしかないと信じた、あの私に見えてしまう。

店員さんが私を見た。いつ?

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