恋愛について考え始めたかった

恋愛について考えてみよう。それは『恋愛の哲学』の第二章まで読んで違和感があるからである。こうした違和感は往々にして最後まで読めば氷解するものである。しかし、私はそれを踏まえてもなお反論したいことがあるのである。

ちなみに私は戸谷洋志に反論したいことが多い。少し前もそういうものを書いた。いや、かなり前にもそういうものを書いた。この世にはおそらく三種類の著者がいる。自分を除くと。一人目は反論したくなる著者、二人目は感服したくなる著者、三人目は何も思わない著者である。どの著者が優れているということもないと思うが反論したくなるのはある程度整理されているからであると思うのでそういう意味では優れているのだと思う。

まず確認したいのはおそらく私の感覚はあまり一般的ではないということである。これは私の数少ない恋愛談義から思い知ったことである。私はそもそも「恋愛」にあまり興味がない。なので「恋愛」について話すことはあまりない。周りがそれを話しているとすれば、私はその中に哲学性、文学性などを発見しようとしてまるで話を聞いていない。それは恥ずかしいからの可能性もあるにはあるが、私はそうは思えない。単純に興味がないのではないだろうか。私はそう思う。

あと、私は「恋愛関係」を私と特定の恋人のペアとして考えることがよくわからない。いや、なんというか、「愛」をそのペアの特定のあり方として考えることがよくわからない。だからそもそもあまりよくわからない、実感の湧かないことに関する議論を読んでいる感じがある。

あと思うのは、この本に対して思うのは、「常識的だし、その常識を問い直してる感じがしない。」ということである。もちろん、「常識」は格好の前フリであるからそれを使ってはいるのだが、使うところがつまらない気がしてしまうのである。例えば、愛と暴力の関係については快楽に基づく恋愛と狂気に基づく恋愛の関係を簡素にすれば「愛:暴力=狂気に基づく恋愛:快楽に基づく恋愛」みたいに描いているのだが、「快楽」と「狂気」の関係がそもそもよくわからない。この区別はおそらく「理由を説明できるか否か」で考えられているのだが、すなわち「快楽」の方は「理由を説明できる」もので「狂気」はそうではないとされているのだが、そしてその背景には「理由を説明できる」というのは「他の人もその説明に該当する」ことを意味するという問題意識があるのだが、私はこの問題意識と愛と暴力の関係に関する議論が接続している気がしないのである。別の言い方をすれば、たしかに私はここで問題意識として挙げたことに興味があるのだが、それがおそらく戸谷が問題にしていることと接続する姿が想像つかないのである。

なぜ想像つかないのかといえば、戸谷は「説明する」というのは「他の人たちが理解できる」ということを目指して行われると考えているが、「他の人たちが理解できる」というのは「他の人たちにもその説明が該当する」ことに他ならないのだから「説明する」ことにおけるあり方を区別として選んだ場合問題は解決できないものになっていると考えられるからである。そして、私は「他の人たちが理解できる」というのは「他の人たちにもその説明が該当する」ことに他ならないということをその通りだと思っている。そもそも解決不可能な問題を持ってきているのだからそれがなぜ解決不可能なのかを考えるほうが哲学的には重要なのではないかと思うのである。

この意味で私はこの箇所を読んでいるときに「名指し」の問題から「愛」について「説明する」ことの問題を剔抉した『恋愛の不可能性について』や「愛」における「暴力」を「承認」の問題を絡めてより人間学的に考察した『歪な愛の倫理』などのほうが優れていると思ったのである。もちろん、この本はプラトンの学説を現代の常識と対比して理解していくこと自体の価値を説くものである。おそらく。だからこの批判はそもそも正当ではないのかもしれない。しかし、第二章でデカルトに触れるときにも恋愛における「錯乱」についての議論を提示するだけでそれを深める示唆もないとなれば、もちろん私の受容に問題があるのだとしても面白くはない。これは批判というよりも私と戸谷の議論が活性化されないという不満である。

ただ、戸谷の議論は「相互性」について着目するところ、そしてそれをとてもクリアーに示すところに特徴があると思うし、その真価はまだ発揮されていないと思うから時期尚早なだけだったのかもしれない。

あと、あまり関係ないが、私は恋人が何をしてようと何も思わない、と思っている。あまり何をしているのか知らないからそうなのかもしれないが、そもそもあまり興味がないのである。しかし、お出かけをしていたら楽しいし、一緒に映画を見たり美術館に行ったり、そういうときにはそのセンスに驚くことがある。いい意味で。だからこれが好きな理由と言えばそうなのかもしれない。だから、私が仮に「快楽に基づく恋愛」をしているなら「どうしてセンスが悪くなっちゃったんだよ!」と怒ったり勝手に失望したりするのかもしれない。しかし、私はそうなることがまったく予感できない。彼女はおそらくずっとセンスが良い。悪くなったら私が私を疑うべきだとは思わないが、そう思ってもおかしくないくらいにはそのセンスを信用している。そもそも、「センスがいいから好き。」というのはあまり説明をしないための戦略なのかもしれない。

私はこの本に対して「常識に対する常識的な反論?みたいなものが書かれている本」くらいにしか思えない。あまり楽しくない。もちろん、何度も言うが私の力不足が原因でもあるだろう。しかし、反論する気すら起きない文章というものは存在するのである。これは実感としてそうなのである。なんとなく反論したくなると思ったがそのようにはならなかったらしい。それはそれで悲しいことだが、まあいい。まあ、私が机上の空論をしているからこうなっているのかもしれない。しかし、そのような批判がまるで私の耳を痛くさせないのである。いまは。

これでは戸谷も困るだろう。まるで議論というものが成り立たないからである。その申し訳なさについて私はこの文章を書いた後で次のように書いている。

私は私が問題や課題を否認していることを認めるのにやぶさかではない。しかし、それは問題や課題に取り組めることを意味しないし、もちろん取り組むことを意味しない。

しかし、この不感の理由を考えるのは楽しいことである。私にとっては。戸谷にとってどうかは知らないし、正直なことを言うとあまり興味がない。し、戸谷も興味がないだろう。ここが私と戸谷の集合場所なのかもしれないのだが。残念なことである。

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