私のエネルギーを削ぐもの

私のエネルギーを削ぐもの。その共通点を発見したい。

私のエネルギーを削ぐもの、それはおそらく「AのためにBをする」という形式である。もう少し踏み込んで言うとすれば、そのような形式で理解されることである。もちろん「理解」にも自由度がある。その自由度が低ければ低いほど、私はエネルギーを削がれるのである。

もちろん、「AのためにBをする」という形式を拒むことはできる。しかし、「できる」と「する」は違う。し、実際問題「できる」だけのこともある。それはもはや「できる」ではない。そのことがむしろ私のエネルギーを削ぐことも大いにありえることである。

拒む仕方にはおそらく二つの仕方があるだろう。一つは「沈黙する」こと、もう一つは「騙る」ことである。

「AのためにBをする」というのは話すときの形式であると考えられる。あるいは聞くときの形式であると考えられる。つまり、「AのためにBをする」というのはコミュニケーションの形式であると考えられる。そして、コミュニケーションを幅広く取るとすれば、この形式はコミュニケーションのなかでもより相互に「相手は人間である」と考えるときの形式であると考えられる。言い換えれば、相手の言動が「AのためにBをする」という形式で捉えられると「相手は人間である」と考えられるということがこの形式の重要な点であると考えられる。逆に言えば、この形式で捉えられない言動は「相手は人間である」と考えることを妨げる。その妨げはいずれ相手を「変人」として処理するか、そもそも「人間ではない」と処理するか、いずれにせよそういう処理へと向かうだろう。

ここで一つ、細かいところに拘泥することにしてみよう。私は「相手は人間である」と考えることに「相互に」という限定をしている。しかし、これはどういう限定なのだろうか。

と、良い問いを出したとは思うのだが、いかんせんよくわからない。なのでとりあえず、これは置いておこう。

本題に戻るとすると、「AのためにBをする」は「相手は人間である」(この「相手は」というのは「相互に」という限定と関係が深いと思う。が、よくわからないので置いておこう。)と考えられるか否かの分水嶺となるようなコミュニケーションの形式であると考えられる。私はこの形式によってエネルギーが削がれるからこの形式が嫌いである。だからこの形式を拒もうとしているわけである。二つの方法によって。「沈黙する」と「騙る」である。しかしそもそも、私はなぜこの形式が嫌いなのだろうか。それはおそらく、この形式が形式的ではないからである。言い換えれば、ここには具体的な問題がある。

「AのためにBをする」という形式自体に規範性はないがこの形式は規範性を際立たせる。いや、なんと言えばよいか、この形式は「人間である/人間でない」という主題を迫り上がらせる。言い換えれば、私たちは常に「人間である/人間でない」を考えているわけではないがこの形式はそれを考えさせるのである。それ自体は別に嫌なことではない。しかし、「考えさせる」というのはそこで起こる「考える」をまったく自由に始めさせるということではない。つまり、そこには「このように考えるべし」という規範がつきものなのである。

その規範を一言で言うなら、「支離滅裂になるな」ということであると考えられる。仮に「支離滅裂」になるとすれば「変人」や「人間ではない」の処理に向かうことになる。例えば、ムルソーは「太陽が眩しかったから人を殺した」と言った。それはここでの形式「AのためにBをする」には沿っている。Aが「太陽が眩しい」でありBが「人を殺す」である。しかし、そのAとBの組み合わせは異様である。しかし、私はそもそも「AのためにBをする」という形式が異様であると思うのである。いや、それを異様であると思うことはそれほど異様なことではないと思うのである。

もちろん、私たちがその形式を使用せざるを得ない、さらにはその使用法を限定せざるを得ないということの意味はわかる。それは端的に言えば、怖いから、である。安心したいからである。それはわかる。

ここでの問題は何か。それを掴み直す前に置いておいた問題に立ち返ろう。実を言うとムルソーの発言、あ、ムルソーはカミュの『異邦人』に出てくる人物である。ムルソーの発言のうちにその問題は存在していると思われる。それはムルソーが「人を殺す」というふうに「人」という概念を用いているところに存在していると思われる。というのも、ここには「相互に」とつけたり、「相手は」とつけたり、そういうことをすることによって私たちがこの問題を考えないようにしているということが表現されているように見えるからである。

私は相手が「人間である」か否かを判断したいと思う。それは怖いからである。しかし、他人同士がそのように思っているかはわからない。そのように思っていると思って私はそれを嫌がっているわけであるが、そもそもそのように思っているかはわからない。他人がそのように思っていると言ったり、そのように振る舞ったり、そういうことをしたところでわからないことはわからない。これが問題であると思う。異様さというのはここにあるのである。置いておいた問題がおそらくは真の問題である。その整理をここまでしたわけである。いや、そもそも整理そのものがこのことによって可能になっていると言ってもよいだろう。

そもそものことを話すとすれば、私は理由を語りたくない。それはどうしてもそれが「騙る」であるからである。この「騙る」を「語る」にするための方策はいろいろある。例えば、「本音」とか「本心」とか、そういうものを作ることによって「騙る」と「語る」を区別することはできるだろう。しかし、「本音」や「本心」も所詮そのように振る舞っているだけであると考えるとすれば、その区別はできない。ここでの「考えるとすれば」というのは譲歩である。私はそのように考えるしかないと思う。だから嫌なのである。そのように考えるしかないと思うことを一旦脇に退けて、さらにはそのことすら忘れてやっと、やっと「AのためにBをする」という形式は使用可能になるのである。

私は私自身、そう、「本音」とか「本心」とか、そういうことがよくわからない。適切だろう「本音」やら「本心」やら、そして私自身やら、そういうものを作ることはできる。習慣として。しかもそれに関して大した苦労はなかった。が、私はやはり「本音」やら「本心」やら、私自身やらに囚われている。いや、それに囚われないとそもそも「語る」にしても「騙る」にしても「かたる」ことができないのである。

このことが忘れられ、「AのためにBをする」がただ「人間である」か否かの判別の場面になるのだとすれば、それはそれは息苦しいことだろう。私は私の理由が拒否されるからそれが嫌なのではない。理由を「かたる」こと自体が拒否するか否かの問題を連れてくること、それが嫌なのである。

このようなことを語ったとしてどれだけの人がこのことをわかるだろう。そして、もしわかったとして、それを解決する術はあるだろうか。その解決する術が私の嫌悪感を取り除くことができるだろうか。しかし、嫌悪感があるからといって私はこのように「かたる」ことをやめられない。それは私の勇気の問題であり、そもそも「沈黙する」としてもそれは何かを語っている。ことにされる。し、そのことによって私は私たちの一人として存在することができるのである。

ムルソーが沈黙していたとしたらどうか。それの方がむしろ、周りの人たちが物語を各々に、そして大したバリエーションもなく付け加えることで、そのバリエーションのなさによって安寧は保たれ、ムルソーは一員になるだろう。人殺しとして、ではあるが。

それはあらゆる感情の根源ではあるだろう。だから私はこのことをこのように考えるたびに無感動になっていく私を見つける。しかし、私はやはりいきいきと生きたいわけである。だから感動に飛びついてしまうのである。

「飛びつく」というのはある意味で批判的である。が、それ自体が肯定でもある。し、実際私は私を「飛びついている」と判断するとき少し、少し嬉しいのである。

この嬉しさがなくなったとき、私はおそらく「人間である」と言われなくなるのだろう。いや、いままで通り周りにはある程度「変人」と思われたりある程度「人間ではない」と思われたりしながらもなお、ある程度は「人間である」と思われるであろう。しかし、それは煩わしさでもある。そして、私はその煩わしさが嫌なのである。

私はこれまでどうやって生きてきたのだろう。よくわからないまま、おそらくよくわからないまま生きてきたのである。私はこのような問題に気づいている私が偉いとは一ミリも思っていないし、気づかないほうがよかったとも思う。しかし、私はこの局面を見つけてしまって、そしてどうしてもなかったことにすることにできず、それで困っているのだ。

私ははやく「気を紛らわせる」をそれとしてわからなくなりたい。もはや「紛らわせる」必要があるような、そんな「気」をなくしてしまいたい。

私の目の前にあるのは実践の問題である。このようなこと、「本心」やら「本音」やら、私自身やら、そういうことがどういう構造で存在しているのかについてはある程度わかった。が、それによって生きることが楽になるわけではない。むしろ、ますますよくわからなくなって、それが苦しい。

この苦しさは紛らわすことしかできない苦しさである。しかし、私の中にある、よくわからない品性はこれを何かによって解消することを望まない。なぜか知らないが。

哲学も文学も、この気晴らしのためにある。しかし、哲学も文学も私を立ち止まらせるのだ。気晴らしとは散歩自体であり、散歩では何も見つけないほうが良い。しかし、何かを見つけるから哲学も文学もそれである。だからおそらく、私は哲学やら文学やらで苦しんでいる。し、その苦しみを生の証であると考えることさえできない。

私はネガティブだろうか。私はわからない。私は考えすぎているのだろうか。私はわからない。しかしどうにも、どうにも私は考えてしまうのである。それ自体はネガティブなことかもしれない。考えていることがネガティブなのではなく考えてしまうということ自体がネガティブなことなのである。

「本心」やら「本音」やら、それを使いつつも顧みない。そのことがポジティブなのである。考えている内容ではない。考える仕方がネガティブやらポジティブやら、そういうことが言われることなのである。

私はもっと勘違いしたい。勘違いして生きていきたい。私は私が醒めていると思っている。と、思われるかもしれない。しかしむしろ、私はみんなが醒めているように見える。微睡むことでしか生きていけないと醒めているように見える。

私の自尊心のようなものがこのようなことを書かせているのだとしたら、それほど嬉しいことはない。それは微睡めているということだからである。

さて、もはや何を書けばよいかわからない。

哲学やら文学やらで得意げになっていた私は幸せそうだった。やっとそのことがわかった。が、これからどうしようということもない。私は不幸せそうだろうか。私はそうも思えない。

私のエネルギーを削ぐこと、それはおそらく問題がある特定の仕方で存在すること自体が問題にならないことである。

私のエネルギーを削ぐもの、それはおそらく「AのためにBをする」という形式である。もう少し踏み込んで言うとすれば、そのような形式で理解されることである。もちろん「理解」にも自由度がある。その自由度が低ければ低いほど、私はエネルギーを削がれるのである。

しかし、私は私のエネルギーを削ぐものを見つけることにエネルギーがあった。とりあえずはそう思うことにしよう。付け焼き刃の気晴らしだが、そう思うことにしよう!

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