「ぶりっ子」について考え直す

「媚びる」ことについて考えよう。

「媚びる」というのは「ある目的を達成するためにある特定の振る舞いを選ぶ」ことであると考えられるだろう。例えば、「ぶりっ子」は「愛されるという目的を達成するために愛してほしい人が好むような振る舞いを選ぶ」ことであると考えられるだろう。しかし、これは「媚びる」ことの本質には届いているのだろうか?というのも、私たちは「ある目的を達成するためにある特定の振る舞いを選ぶ」ということを普段からしていると思われるからである。そもそも「目的」によって「ある特定の振る舞い」を「選ぶ」というのは私たちがそう語っているだけなのではないだろうか?

このようなことを考える私の奥底にはあるエピソードがある。しかし、私はそれを触れることができない。まだ、できない。だから、仕方ないので哲学的に書くことにする。哲学的?うーんと、構造的に書くことにする。

さて、私は「ぶりっ子」について書いたことがある。私の近くにそのように言われる人、言われているらしい人がいて、その人がそれで悩んでいたから私はそのことについて考えたのである。と思っていたのだが、実は結構本質的な問題がここにはあるのかもしれない。その問題のキーワードだけ書くとすれば、「媚びる」「嘘をつく」「振る舞う」である。そして、おそらく問題なのは「本心」である。「本心」の周りに「媚びる」「嘘をつく」「振る舞う」がある。そんなふうに私には見える。

とりあえず私が書いた文章を読んでこよう。ちなみに、このタイミングで言うことではないと思うが、私は本が読みたいのにこのことを考えなければどうにも読めなさそうだったのでこれを書いている。

私が書いた文章のタイトルは「演技と遊戯とぶりっ子と」であった。私はそれを読んだ。しかし、困ったことにほとんどそこに書かれていた。それが投稿されたのは2021年らしい。私は3年前と大して変わっていないのである。しかも、おそらく私よりも深く考えられていると思う。多少整理が下手ではあるが、私よりも真剣に考えているように見える。いまの私は私の一種のトラウマを克服するためにしか考えていない。そんなふうに私には見える。

なので整理だけしよう。つんのめるような勢いが私にはない。私はただおろおろしているだけである。

ここからの引用は「演技と遊戯とぶりっ子と」からである。

どのような段階にあっても、戦略的思考は究極「バレる」かつ「美しくない」時にしか真に批判されないのであり、その批判を共有できるような装置やシステムを私たちは持っていないと私は考えている。

「演技と遊戯とぶりっ子と」

まずは前半から考えよう。「ぶりっ子」というのは「ある目的を達成するためにある特定の振る舞いを選ぶ」という意味で「戦略的思考」であると言えるだろう。そして、それが批判されるというのはこの「戦略的思考」が行われていることが「バレる」こととそこで行われている「戦略的思考」が「美しくない」こととが合わさって初めて生じるとここでは言われている。さらに後半ではその批判を「共有する装置やシステムを私たちは持っていない」とこの文章における私は考えている。後半については後に回すとしてとりあえず前半について考えよう。

「戦略的思考」を行っているのが「バレる」というのは「ある目的を達成するためにある特定の振る舞いを選ぶ」ということの「選ぶ」が「バレる」ということである。しかし、どんな振る舞いも「選ぶ」ことによって生じたものであると考えることができるのではないだろうか。どうしようもなく、仕方なく「振る舞う」ことがないと私は思わないが、周りからその「振る舞う」を「選ぶ」ことによって生じたことであると考えられることは避けられないことであるだろう。そうであるとするならば、そのように考えられることにはきっかけが必要であろう。なにせ私たちはいつも「選ぶ」ことをそれとして考えているわけではないからである。

そのときにおそらく「美しくない」という判断が現れてくるだろう。しかし、ここで注意が必要なのはその「美しくない」はおそらく「ある目的」自体にかかっているか、それとも「ある目的」を達成するために選ばれた「ある特定の振る舞い」にかかっているか、を区別する必要があるということである。(ちなみに私の関心はむしろ「達成する」という考え方自体なのであるがとりあえずそれは置いておこう。後半に議論するだろうから。)「ぶりっ子」の「ある目的」を仮に「愛される」ということであったとしよう。そうすると、「美しくない」というのは「愛される」ことを「目的」にすることであり「美しい」ことは「愛される」ことを「目的」にしないことであろう。もっと言えば、そもそも「目的」にするとかしないとか、そういうことを考えることがすでに「美しくない」のかもしれない。どれでもいいが、とりあえずそういうことになるだろう。もし、その「目的」自体は別にいいと考えると、その次はその「目的」を達成するための「ある特定の振る舞い」が「美しくない」から批判されていることになるだろう。言い換えれば、「美しい」ような「振る舞い」もあり得ることになる。それがどういうものか、私はよくわからないがとりあえずそのように考えることができるだろう。

かなり単純な整理だがとりあえずそういうことになるだろう。で、問題の本質、私がここで気にしているのは後半部分である。つまり、「その批判を共有できるような装置やシステムを私たちは持っていないと私は考えている。」というところである。私も同じように考えている。おそらく。

まず、私は上でも言っていたように「目的を達成する」というビジョンがよくわからない。わからないふりをしているのか、本当にわからないのかはわからないが、よくわからない。だから、もしこの「目的を達成する」というビジョンが「批判を共有できるような装置やシステム」であると言われたなら私は乗れない。その「装置やシステム」に。よくわからないから。これはある意味で消極的な結論である。もう少し積極的な結論について考えよう。「演技と遊戯とぶりっ子と」では上に引用した文章の少し後に次のように書かれている。

私がもしぶりっ子を過剰だと思っても、それは私にもあり得ることで、むしろ望ましいものであるように思える。

「演技と遊戯とぶりっ子と」

ここで言われているのは二つのことである。かなり深い問題があると思うのだが、ここで確認したいのは次の二つのことである。「ぶりっ子」は「目的を達成する」ことを目指すわれわれをその「過剰」によってある意味でおちょくり、ある意味で突きつける。「振る舞い」が「美しくない」というのはこのおちょくりや突きつけに反応しているだけであるのだ。わざわざ「美しくない」と言わせられているのだ。しかし、批判する人はそのことを知らずか、それとも知っていて隠したくてかはわからないが、その「ぶりっ子」の人だけが「過剰」であるかのように考える。しかし、私は私たちもそうだと思っている。というか、私は私もそうだと思っている。私はあまり批判されたことがないが私もそうであると私は自戒しているのである。まるで自分は「ある目的を達成するためにある特定の振る舞いを選ぶ」ことをしていないかのような、そんなふうに考えている自分を顧みているのである。このように顧みることが偉いと言いたいのではない。こういう構造がここにはあると言いたいのである。

そして、私が過去の私に愛を感じるのは「ぶりっ子」の「過剰」を「むしろ望ましいものであるように思われる」と書いているところである。これはたしかに私の自己欺瞞でもあるだろう。しかし、「ある目的を達成するためにある特定の振る舞いを選ぶ」ことの共有できなさ、「目的を達成するために」という「目的」のつまらなさ、そういう諸々を自覚しつつ、それでもなおそれをしてみようとする、そんな勇気、私はそれが素晴らしいと思うのだ。そして、いまの私にはそのようなエネルギー、踏み込みがない。だから冒頭にも言ったようにこのときの私の方が素敵であったと思うのである。

私は「ぶりっ子」を弁護しているように見えるかもしれない。しかし、それは半面であり、もう半面は私たちのどうしようもない「ぶりっ子」性、そしてそれを隠したくなるような心性を抉り出そうとしているのである。しかしそもそも、私たちはなぜそれを隠したいのだろうか。私は思うのだ。過去の私よりも意地悪な私は思うのだ。私たちはエネルギーを得るために「本心」とやらを作っているだけなのではないか?と。「本心」が「嘘」ではないということを確認するために、「本心」を事実にするために私たちは「ぶりっ子」批判のようなつまらない批判を繰り返しているのではないか?と思うのである。私たち、いや、私が恐れているのはエネルギーを失うことである。そして、素敵な私はエネルギーを得ることを見事に遂行している。まるで「ぶりっ子」を弁護しているかのように見せかけることで。

私はたしかに「みんなとは違う」と言いたいだけなのかもしれない。しかし、それは哀愁漂うものである。「ああ、私はみんなとは違う。残念ながらみんなとは……」というものである。みんなと同じになりたい。しかしそうはなれない。なぜなのか?なぜなのか?それを私は考えているのである。しかし、それは「みんなと同じになる」ことを「目的」にしているとは思えない。しかし、みんなはそれを「目的」にしていることにして、だからこそ私は「ぶりっ子」の人のように「美しくない」とか「バレてるよ」とか言われないのである。そう思うとなんだか寂しいというか悲しいというか、よくわからない気持ちになる。そうか、私はだから、むしろ「ぶりっ子」の人に憧れていたのだ。母を擁護する子どものように、母を擁護するしかない子どものように私は彼女を擁護していたのかもしれない。

まあ、単純に男女の差があるという社会的な要因からそうなのかもしれないが。これは事実だと思う。が、これをわざわざ言うのは照れ隠しのためである。おそらく。

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