「自己嫌悪」やら「自己肯定」やら、それらの「自己」がわからない、そしてそれを言えないのではないか

ここからは「自己嫌悪」や「自己肯定」について考えよう。まず、話したいことを明確にしておきたい。話したいことは二つである。一つは「自己」とは何かということ。もう一つは「嫌悪」やら「肯定」やらをしなくてはならないのはなぜかということ。この二つを考えたい。

まず、「自己」とは何か、である。この問いは大きすぎてよくわからない。が、ここで重要なことに絞るとすれば、「どうしてわざわざ「自己」を目の前に存在させる必要があるのか?」という疑問がいつも、私の頭をかすめる。私は「自己」ということを意識するたびにそれが意識させられていることに他ならないのではないか、と思う。しかし、私は怖くもあるのだ。それを意識せずにエネルギーを持って生きることができないのではないか、と思って。

誰かに訊かれる。「あなたはどのような人なのですか?」と。私は思う。そんなことはわからない。と。別に隠したいからそう言っているわけではない。これが最も正直な答えである。だから私はおそらく私を批判している人、称賛している人、彼らを嫌っている。表には出さないし、いや表に出ていたとしてもこのようなことからそういう態度を取っているとは思いもしないだろうから表には出ていないが私は嫌っている。彼らを。

私はこのことに対するある種の折衷案として「私-他人」という関係をより曖昧にするという戦略を取っている。過去の私は「他人」ではないか、ということを強調することを通して。私は強調していることを強調しつつこれをしている。それはなぜか。これは哲学的なことを言おうとか、何か突飛なことを言おうとか、そういうことではないからである。たしかに私もそういうことをすることがある。私にはそのように思えることをすることがある。しかし、これはそうではない。しかし、これを強調しないとそもそもなぜ私が「自己」がわからないかがわからないと思うのだ。

別に私は私の多面性ゆえに彼らの批判やら称賛やらを拒否しているわけではない。「私はもっといろんな面があるんだ!」という怒り、寂しさのようなものから拒否しているわけではない。そもそも、多面性というのは一つの立体に使われる比喩だろう。私はその立体そのものが多数あると思っている。それらが統合されて「自己=あなたたちが『あなた』と呼ぶもの」が生まれると思っている。そして私はその生まれに違和感があるのだ。よくわからないのだ。

私が君たちの話を聞いていないのはなぜか。聞けないのはなぜか。それは私が君たちになることが許されていないからである。そして許されていたとしても私はそれを怖がってしまうからである。

「自己」とは何か、それは「あなたたちが『あなた』と呼ぶもの」である。「あなたたち」が呼ぶ必要があるのか、「あなた」だけではダメなのか、それはいまはよくわからない。なので、「自己とはあなた(たち)が『あなた』と呼ぶものである」と言っておこう。ここでのポイントは呼ばれる側は「あなた」と呼ばれるということである。ここでは「あなたたち」にはならない。実質的にはそうであるがそうはならないのである。この「実質的に」がうまく言えないのだが。

さて、もう一つにいこう。もう一つは「嫌悪」やら「肯定」やらをしなくてはならないのはなぜか、ということであった。私は「自己」が好きでも嫌いでもない。なぜか。それは私が「あなた(たち)」になれないからである。どういう原因があってそうなのかはわからないがそれになれないかぎり好きも嫌いもない。私は私が書くものが好きなときがある。し、そういうときが多い。嫌いなときはあまりない。いや、おそらく、ない。快と快も不快もないしかない。ゼロからプラス方向しかない。そもそも、「自己」を対象にできないから好きも嫌いもない。大抵の場合は。それがおそらくゼロである。近すぎると見えないのだ。

もっとわからないのは「肯定」だとか「否定」だとか、そういうことである。わからないからなにも書けない。

ただ、仮に「自己肯定」が「自己」を作ることであり、「自己否定」が「自己」を作らないこと、であると考えるとすれば、私はずっと「自己否定」していることになるだろう。しかし、私はずっとそれをしているせいでそれがわからないのだ。

なんとか頑張って書こうと思ったが、わからなさすぎることは書けないらしい。そりゃそうだと思うが。

この文章を読んで誰か、誰か勇気づけられたり落ち着いたりするのだろうか。私にはわからない。私はおそらく仕方なく「過去の私は『他人』ではないのか?」と言っているのだと思う。それはある意味で譲歩でありある意味で自衛である。

二重の過剰、考えすぎること、考えないこと、私はそのどちらも恐れている。動けなくなっている。いや、すでに動いてはいるのだがそれを「動いている」と言えなくなっている。

言葉がそろそろ崩壊する気がしている。なんとなくだが。だから最後の輝き、それを見たいと思っている。いや、最後のくすみを見たいと思っているのかもしれない。

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