「人生の意味とは何か」という問いがまだつまらない
私は人生の意味について考えているらしい。しかし、これは伝聞なので実のところ何について考えているのかは知らない。
理由を作るときに固有の力学が働くということを等閑視することはできないだろう。
偏頭痛は頭が常に内側に畳み込まれているような痛みを持っている。
まあ、一旦考えてやろう。考え始めてやろう。「人生の意味とは何か」ということを。
そのための手がかりとして『人生の意味の哲学入門』の第一章で指摘されていることを確認しよう。蔵田は次のように言っている。
私はここで言われていることの意味がよくわからない。わかるとすれば、仮に「人生の意味とは何か」と問えば周りの人は「わからないから問うんだろうなあ」とか「悩んでるんだろうなあ」とか思ったり言ったりするということだけである。そして大抵の人は後者であろう。問うことと悩むことが同じようなことであると考えられるのである。それはそれで不思議なことだが、それ以上に気になるのは、私が気になるのは「わからないから問うんだろうなあ」の方である。仮にまったくわからないのだとすれば問うこともないだろうし、まったくもってわかるのだとしたら問うこともないだろう。そう思うのはわかる。が、それはなぜか?なぜそう思うことならわかるのだろうか。何を言っているか難しいだろうか。私は「わからないから問うんだろうなあ」と言われたらきっとこう返すのだ。「いや、問いたいから問うんだよ。」と。そしたらこう返ってくるかもしれない。「いや、だから、問いたいのはわからないからだろう?」と。そしたら私はこう返すかもしれない。「いや、だから、『わからないから』なんてわざわざ言わなくたって気になることは気になるんだよ。」と。私は私の「問う」を「わかる/わからない」というどうでもいいことに絡みつかれたくないのである。だから、二重に仕方なく連結していると思うのである。おそらく。一つは「人生の意味とは何か」と「問う」のはそのこたえがわからないからだという連結、もう一つは「人生の意味とは何か」を「問う」ということは「悩み」を持っているからだという連結、この二つの連結が存在して上の文章は書かれているわけであるが、それは必要のないことである。ただ、それこそ「わかる」というのはこういう連結の全体における部分として「問う」ことが捉えられることであるかもしれないからそうなるのは仕方のないことなのである。だからと言ってそれに甘んじていていいわけではない。だって、現によく分からないのだから。
そもそも、私は「人生」ということがよく分からないのだ。蔵田は次のように言う。
私にとっては大きな問題がある。ここでの「一人の人間」とは何か。それが私にはよく分からない。このことに関係することは「意味」について考えているところでも出てくる。蔵田によれば、ロバート・ノージックは「意味」に共通する核として「限界を超越する」ことがあると指摘しているという。そして、その指摘を踏まえて蔵田は次のように述べる。
私はそもそも「私たちの人生はさまざまな限界をもつ」と言えないと思うのだ。なぜなら、「人生」を全体として捉えることはできないと思うから。今日の私と明日の私は違う。目的によって彼らを統合しようとするにしても、それが叶ったとしても、それは「統合」ゆえに叶っただけでありそれ以外ではない。もちろん、「統合」を前提にしないことにはあらゆる「意味」がそもそも存在しないとも言えよう。しかし、それゆえにここではすでに限界が乗り越えられている。だから、ここで蔵田が引いているノージックの議論は面白いものの、なんだか後の祭りのように思えてしまうのである。「限界を意識して、その限界を乗り越えたい」と思うその前にそれは乗り越えられていると思うのだ。それをわざわざ「乗り越えたい」と思っていることにしているだけに見えるのだ。
別に私は問いを破壊したいわけではない。問いを享受したいとは思っている。しかし、それはとても困難であると思うのだ。特に「人生の意味とは何か」という問いは。いや、困難であるというよりもこの問いをみんなと考えていくことが困難であると思うのだ。どうでもいいことに「別に、別に、別に、……」と釈明し続けなくてはならない感じがするのだ。それがとても面倒くさく、無力感を感じさせるのだ。
私のこの振る舞いはたしかに問い自体の否認である。しかし、否認せざるを得ないのだ。なにしろ、私は否認せずに問いを享受できないのだから。仮に問いを享受しないのだとしたらわざわざ考える必要なんてない。私はそう思う。もう意味のわかっている問いに答えるのはコメンテーターがすることである。その答え方がいかに怜悧なものであったとしても、それは享受ではない。ただの賢さ、賢しさである。別にそれを批判するつもりはないが、私はそれに興味が湧かない。まったくわくわくしない。私は嫌がらせでこう言っているのではない。と自分では思っている。だって、つまらないんだもん。それじゃあ。
私は『人生の意味の哲学入門』をまだ第一章しか読んでいない。だからつまらないのかもしれない。「ああ、こいつとはお手合わせ願いたい。」と思うような誰か、それが現れることを願おう。「ああ、この問いは抱擁せねば。」と思うような問い、それが現れることを願おう。それしか方法はない。わざわざ興味がないことを考えるために哲学をしているわけではないのだから。面白く考えられるか否かはその人自身による、と言う人もいるかもしれない。それはたしかにそうだが、私は「面白く考えられるぞ!」とアピールしたいわけではないし、そもそも私が考えたいことが素通りされていることを訴えるのは非常に疲れることである。それなら時が来たときに対峙するほうがよい。なんでもかんでも対峙するなんてびびっているだけではないだろうか。不安で、恐怖で、キョロキョロしているだけではないだろうか。そして自分よりも弱そうな人を見つけて、いや、弱そうな人を作ってその人にいちゃもんをつける。なんてつまらない振る舞いなのだろうか。なんの複雑さもない。なんてつまらない振る舞いなのだろうか。
そう。私はもしかすると「人生の意味とは何か」に興味がないのである。というか、「人生」も「意味」もよく分からないから「何か」とか言われても困るのである。そもそも何が問われているのかが分からないのだから。それに目を瞑って答えを出すのなら、後付けであり、後付けであることを隠すことを隠すことである、となるだろう。そんなふうにしか思えない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?