読書はなぜ楽しいのか 4(私は哲学が好きらしい)

眠たいが書いてやろう!やる気だやる気!

こんなキャラではないのだが書いてみようと思う。

結構眠たい。おそらく寝ようとしたらすぐに寝れるだろう。しかし、書くといったら書く。明日の朝に推敲して出す。そういうことにした!

私にはニーチェのような意欲に溢れるイクスクラメーションマーク(!のこと)は使えない。私はただ駄々をこねるようにしか使えない。

落ち着こう。やけくそのときにこそ書けることがあるかもしれない。私はいつも、やけくそじゃないときはいつも、というかやけくそなときには何も書かないのでこれまでずっと、やたらと細かいことを考えてきた。スローガンとか、モットーとか、そういうことを信じず、信じられず、乗れず、なんというか肩身の狭い思いをしてきた。今日はそれを払拭しようと思う。

私は哲学が好きらしい。どうやら。というのも、私は話題の書物を読んでも、売れているらしい教養書を読んでも、どうにもワクワクしない。どうにも、どうがんばってもワクワクしない。私は割と真面目なので面白くない本でも面白くなる可能性に賭けて大抵は通読する。しかし、哲学書以外は面白くない。世に言われる哲学書以外は面白くないのである。

ここでの「面白い」というのは「何か言いたくなる」ということである。実際に言えるかどうかは別として、何か言いたくなるような本、それが「面白い」本である。教養書は学びにはなるが面白くはない。反論の余地がないわけではない。おそらく。教養書も。しかし、なにぶん面白くないのである。何か言ってやろう!というエネルギーが湧いてこない。哲学書は学びにはならないかもしれないがやる気は出る。いや、学びの種類が違うのかもしれない。しかし、私にそれを言語化する力はない!今日はないことにする!

ここでの「哲学書」というのはなんだろうか。わからない!みんながそうやって読んでそうなもの!そういうことにする!

もちろん「哲学書」にも文学で言うところの純文学寄りのものもあれば大衆文学寄りのものもある。私はどちらも好きである。しかし、このように周りがどう呼んでいるかに依存せず周りが「哲学書」と呼ばなさそうなものも「何か言ってやる!」と思うようなものは「哲学書」と同じような受容をしていると思う。だからその意味では二つの区別がある。「哲学書」か否か、に関して。しかし、大抵みんなが「哲学書」と呼ぶようなものは「何か言ってやる!」と思わせられるのでそれが拡張していると見るのが正しいだろう。おそらく。知らんけど!

で、これは普段あまり言わないが、「哲学書」はあまり専門知識が必要ではない。いや、なんというか、ある程度の基礎を押さえれば「手がかりがない。」と途方に暮れることがない。なんというか、参加のハードルが低いのである。他の分野がどうかは知らないが、とりあえずそういう点でも「哲学書」は楽しい。

まあ、これは一種の自分上げになってしまうかもしれないが、私は「哲学書」に書いてあることを何度か考えている。大抵は。それはこれまでに読んだ「哲学書」になんか言う過程でそうなったのかもしれないし、別にそんなこと関係なくそういう生き方?感じ方?、わからないがそういうのをしているのかもしれない。そういう人にとって「哲学書」は手がかりの多い書物である。

私は「哲学対話」ということをしたことがないし、あまり興味もないのだが、哲学の良いところとして「手がかりがある」ことは重要であると思う。もちろん教養書も、売れている教養書もそういうところがある。しかし、なんというか、「手がかりですよ。」って感じが強くて、「掴むぞお!」って感じにならないことが多い。「勝手に使ってやる!」みたいに思うことが少ない。

まあ、もちろん先入観もあるだろう。というのは「これは『哲学書』らしい。てことは『手がかりがある』んだな。」みたいに思っているというのもあるだろうということである。しかし、上でも言ったように「これは『哲学書』らしい。」と思わなくても「手がかりがある!」と思うことはある。しかし、教養書はそういう感じにならない。

私は別に目の覚めるような解釈をしたいと思ったり画期的な受容をしたいと思ったり、そういうことはない。しかし、そういう解釈や受容の可能性が嗅ぎ取りやすいのが「哲学書」なのである。その本をほっぽり出しちゃって、うんとこすんとこ、散歩しに行きたいなあ、考えたいなあ、そんなふうに思わせられるのが「哲学書」なのである。教養書はそういうふうに思わせてくれない。一緒に歩いてくれない。一緒に歩きまっせ、みたいに書いてあってもそこでは著者と一般人が歩いているだけである。

私は別に「私は一般人ではないぞ!」とか「一般人なんてつまらない!」とか、そういうことを言いたいわけではまったくない。これは相性とか生き方とかの問題である。しかし、私にはどうも「哲学書」以外を楽しむ才能がないらしい。

少し寄り道して文学について考えると、私は文学を読めない。正直全然読めない。疲れちゃうのだ。一文一文むちゃくちゃ考えちゃって、いや、なんというか、立ち止まっちゃって、私は一文一文「哲学書」みたいに、いや、違うな、なんというか、じっくり読んでいるわけでもないし、なんというか、本を開けて一文読んで、何か考えるために本を閉じて、何かいろいろ考えて、また本を開けて、みたいなことを繰り返してしまうのである。さらりさらりと読めないのである。もちろん、リズムよくそれができるならいいのだが、私はやたらと考えてしまって文学がそれではなくなるのだ。しかし、私にとっての「読む」はそういう立ち止まりと共にあり、私は頑固にそれをしてしまうのである。

「哲学書」はその点すいすいと読める。私が博識だからそうなのではない。なんだかそうしてもいいと思っているのである。なぜか。それがなにゆえかわかれば私の「読む」ももうちょっとスタイリッシュになるのだろうけれど、どうにもわからない。これはいい問題である。どうして「哲学書」はすいすいと読めるのか。言い方は悪いかもしれないが、私は「哲学書」を舐めている。どうして舐めているのか。文学はどうしてそうならないのか。これはとても良い問いである。しかし、いかんせん眠たい。なんだか安心して眠くなってきてしまった。今日も良い問いを思いついた。それに安心しているのである。

最初らへんは「!」を多用して違う書きぶりを目指すことができていた。が、途中からどうにもふざけた感じだけが残った。あの、ニーチェみたいな、不健康というか、眠気というか、病気まではいかないけれどなんだかやけくそな、治りかけの元気さみたいなものには到底到達できなかった。まあ、別にいい。ちなみにニーチェは後から引用したいと思うような文章を書く。読むときは大して真剣に読んでいないのだが、後から真剣さがふつふつと存在し始めるような、そんな文章を書く。あれは「健康だったときはよかったよな。」と病気のときに思うような、須く病苦の時を思うべし、みたいな不可能性をバネにした、独特の文章である。

普段の私の文章は強気と弱気を往復するような、すごく極端な形式とすごく微小の留保と、そんなものが繰り返される、そんな文章である。この文章はそのリズムを引き延ばしたような、そういうよくわからない文章になった。文学はサスペンスにはなりえない。哲学はどちらかというとサスペンスだから不必要な部分もある。映画じゃないサスペンス。小説的なサスペンスである。映画では全部が意味のある感じになってしまう。まあ、私の映画的受容ではそうなってしまうだけで実際にそうなのかは知らない。文学もその映画的受容にある意味では似ているが立ち止まれるせいで全部が意味のある感じにはならない。処理しきれないからである。しかし、哲学はなんとなく処理できそうな感じがする。なぜだろう。舐めているからだろうか。

さて、終わりどころを失った。寝たいのに。なので引用で終えよう。引用にコメントすると私はますます眠れないし、別にしゃきりとした目標もないために蛇行し続けることになるだろうからコメントは控えよう。控えられるといいな。

作業初日の午前中、ぼくが次々に搬入される石の量に圧倒されていたとき、古川はこう言ったのだった。
「石はそんなに多くないよ。いまは多く見えるけどね。関係性ができてくるとね」
ここで古川は、石組とは石相互のあいだに関係をつくることだと言っている。関係をつくることによって、変動しはじめた力の場と、そこで連鎖する物体の濁流を鎮めていく。のちの古川の言葉にしたがえば庭づくりとは「おさめる」ことであり、「かたづける」ことなのだ。

『庭のかたちが生まれるとき』76頁

補足しなくてはならないことがいくつかあるが、それはすっ飛ばして本質だけぎゅわんと掴んで蠢く比喩性を感じてほしい。詩に締めてもらおう。暴力的で申し訳ない。

ものの種にぎればいのちひしめける

日野草城

この二つの引用には関係がある!

寝る。推敲よろしく。

はいよ。お好みは?

リズム多めで!

はいよおー。

[推敲後記]

 まったくではないがほとんど手直ししなかった。一つだけ言っておきたいことがある。
 これは前も書いた(「読書はなぜ楽しいのか」という文章に書いた。)ことだが、私の受容における「哲学書」「教養書」「文学」と一般に言われるそれらとではずれがある。そのずれの正体がおそらく私の「読む」を考えるポイント、手がかりなのである。おそらく。しかし、困ったことに私はみんながどうやってそれらを読んでいるかを知らない。何かを読めばこのことはわかるのだろうか。しかし、「こういうふうに読んでます」という人はきっと「みんなこういうふうに読んでると思うんですけど、」みたいな前フリをするだけだろう。私は本当に「みんなこういうふうに読んでる」のかがわからないし、決めつけたくもないのである。だから仕方なく対比を作ろうと思う。自作の。どうやって作るかはわからないのだが!

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