小3女子かのちゃんにこたえる

 Twitter(現X)で「心の中で考える時、言葉を使うけれど、言葉がなかった時はどうやって考えていたんですか?」という小3女子かのちゃんの問いが話題になっている(らしい)。(Twitterから引用したことがないし、埋め込み?みたいなもののやり方もわからないのでアカウント名だけ書いておこう。「A1 Katayama」さんが投稿したものである。)

 私はこの問いを見たときにスパイファミリーのアーニャへの疑問を思い出した。アーニャは人の心が読める。アーニャは子どもなのでその「人の心」の読解に難があって、それもポイントだと思うのだが、それよりも注目したいのは「人の心」が言葉になっていることである。だからこそ「読解に難がある」ということが可能になっている。
 ところで、私はこの設定についてふと思った。「俺って、こんなに言葉で考えているかなあ。」と。私はおそらく「言葉にする」ということを普通の人よりはしていると思う。いや、「言葉にする」というよりも「書く」ということを普通の人よりはしていると思う。しかし、それは私の心の中をそのまま写そうとしたものではない。そうしてきてそれが無理だと思っているからそうなっているのか、それとも最初からそうしていないのかはわからないが「私の心の中→書く→私の心の中が表現される」みたいには思っていない。どちらかと言えば「私の心の中←書く→私の心の中が表現される」みたいに思っている。はじめに「書く」があってそれから「(みんなには見えない)私の心の中」と「(みんなからも見える)私の心の中」ができると思っている。おそらく。
 さて、問いに戻るとしよう。もう一度ここにそれを示す。「心の中で考える時、言葉を使うけれど、言葉がなかった時はどうやって考えていたんですか?」。ここでの「言葉を使う」というのはどういうことを指しているのだろうか。
 ここがとても難しく、そしておそらく重要なところである。とりあえず私は「私の心の中←書く→私の心の中が表現される」という構造を「私の心の中→書く→私の心の中が表現される」という構造として考えることを「言葉を使う」であると考えてみたい。
 そう考えるとすると、「心の中」というのは「言葉を使う」ことによって生じたものであると考えられる。(推敲。ここでの議論はあまりに杜撰というか、曖昧というか、議論になっていない。後から付け加えると弛み、余裕がなくなると思うので最小限議論にはしておこう。私はここで「心」を言わば後付けの産物であると考えようとしているのである。そしてその「後付け」は「言葉を使う」ことによって可能になる。もちろんここには存在論的な問い、カント-ウィトゲンシュタイン的な問いがあると思うがとにかくそういう話をしたくなくて杜撰に、曖昧になったのだと思う。以後、()は推敲者のものである。ただ、推敲者である私と執筆者である私が同じことを思っている保証はまったくない。これがここでの問題である。)「書く」ということで内である「私の心の中」と外である「私の心の中の表現」が生まれるからである。しかも、その発生には一方向性が加わり、建前である「私の心の中の表現」と本音である「私の心の中」も生まれる。つまり、「心の中」は「内/外」と「本音/建前」という二つの対比によって理解されるようになるということである。
 ところで、この二つの対比のどちらの境界線もそれほどはっきりしたものではないだろう。ある表現(ここでは「書く」を例に取っている。)がより本音的であるか、建前的であるかも曖昧だし、
 と思ったが、この二つの対比は性質が違うものであるかもしれない。ある表現は一度言葉を使うと「内/外」に分かれるようになる。もしかするとそれを補うように「本音/建前」という対比が生まれてくるのかもしれない。「言葉」が仮に「内」から「外」へという方向性を持つものであるとするならば、それは「本音」から「建前」へという方向性を持つものであると考えられるだろう。つまり、上で「言葉を使う」を方向性の付与による解釈の非-解釈化、すなわち「言葉を使う」ときにはかならず「内/外」と「本音/建前」を重ね合わせることで理解することにすることとして考えたのはある程度鋭かったことになる。ただ、これは触発された考察であり、かのちゃんへのアンサーではない。
 ただ、私は思う。問いを見直してみよう。「心の中で考える時、言葉を使うけれど、言葉がなかった時はどうやって考えていたんですか?」という問いにおける「言葉を使う」とはどういうことなのだろうか。私たちはこれを見ると、いや、私はこれをみると、あたかも「言葉」になる前の何かが存在するかのように見える。だが、そんなものは存在するのだろうか。存在したとして「考える」に使うことができるのだろうか。さらには、それができるとしてそのことが伝わるのはなぜなのか。「考える」を仮に「内省⇔周知」というリズムで考えるとするならば、「周知」に「言葉」以外を用いることができるのか、ということがかのちゃんの問いの本質であることになるだろう。しかし、ここでの「言葉」が書かれたものや話されたことを指しているのか、それとも上で書いたような「言葉を使う」という構造自体の作動を指すのか、それがわからない。仮に後者なら「考えていなかった」がアンサーだろう。なぜなら「考える」は構造が作動していないとそれとして存在することができないからである。仮に前者なら「『言葉』にならない何かで考えていたんじゃないかな」がアンサーになると考えることもできるだろう。なぜなら「言葉」は書かれたものや話されたことを指していて、それがなかったと言っているのだからそう答えるしかないからである。
 これがアンサーである。が、ここで重要なのはアンサーというよりもむしろアンサーがどういう限定によってアンサーたり得ているかであろう。ここで最も大きな限定はおそらく「考える」を「内省⇔周知」であると考えることにするという限定である。ただ、ここまでの限定において私は「内省」における「内」についてはある程度示唆しているが「周知」の「周」、つまり他人については何も示唆していない。だから結局「内省」における「内」も不充分に限定されていると言える。そもそも、「心の中」が「心の中」という「建前」ではないことがわかる可能性があるのかどうか、いやもっと精確に言うとすれば、わかることにするとすればそれはどのようにか、が問われる必要がある。
 私はアーニャに言いたいのだ。おそらく。「君の聞いているそれ、『心の中』というのは『心の中』のふりをした心の外側でしかないんじゃないか。」と。アーニャの確信はおそらく「心の中」と「心の外」すなわち行動が一致しているという確信に支えられている。し、読者である私たちも仮に「心の中」と行動がずれていても照れ隠しであるとか、戯けであるとか、それこそ「本音」と「建前」であるとか理解してアーニャの設定を保持することができる。が、それは別に確実なことではない。ではなぜ私たちはそれを確実なものであるかのように感じるのか。それはもうすでに「言葉を使う」ことをしている、一方向性を仮定している、それも全体として仮定しているからである。その仮定は本当に正しいのか。それはわからないがそれを仮定することなしに人間的であることは難しいのである。
 さらに……とそもそもこの構造がこのような構造として存在するための構造、簡潔に言えば「問い-こたえ(応え/答え)」という構造、そしてその構造がなぜ成り立つのか、について考えたいがとりあえず今日はここまで。私たちは「本音のふりをした建前」を「本音」だと思うのか、「建前」だと思うのか。そもそも、このように問うことは可能なのか、をかのちゃんから学ぶことができるのではないか。私はそうこたえたい。
 (最後に一つ書いておこう。それはここでの一方向性の議論の不充分さである。一方向性の議論を批判するならそれをちゃんとしたほうがよい。これは上の()で書いたこととも深い関係があると思うが、「本音」とその表現としての「建前」、「建前」とその裏付けとしての「本音」という関係性がどこまでも見出されることを明確にするためには「心」が「問い」によって作動し、それによってしか作動していないことを示す必要がある。それは私の課題であり、ここでは私たちの課題である。)

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