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私の概念

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私の興味のあることを自己満足的に書いています。もしかすると面白いかもしれません。というか、面白いと思えたならきっと、私よりも私的です。
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記事一覧

私への根源的批判者としてのレヴィナス

なんというか、少し細かい話をしよう。
それは、私が私ではなくなるということはどのようなことなのか、に関するレヴィナスとの対話のことである。
私は「私が私ではなくなる」ということがどのようなことであるかを明らかにしようとしている。
そしてそれはおそらく私の哲学や思想の根源にある考えになるような気がする。いや、考えであるような気がする。
というのも、私の倫理は端的に「偶然の自覚」、つまりは「私が私では

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過去の作品といまの私

私は結構、過去の自分の作品を読み返すタイプである。
その理由としては、まあ、ナルシストなのかもしれないし、懐古主義者なのかもしれないが、私が思っている理由としては、私というものを発展としてではなく、変化として、そして通底する何かを見つけるための活動として捉えたいからである。
というのも、昔の作品というのは未来に書いていた作品かもしれないし、現在書いている作品が過去に書きたかった作品、未来において書

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作品という概念

作品という概念、特に私の書いているものにおける「作品」という概念について考えてみたい。
その理由として妥当だと考えられるのは、私の考える「私」論において、「反応としての私」が反応するものが作品であり、その作品との反応の過剰な抽出によって、「主体としての私」は程度的に存在することが可能だと考えられるからである。
つまり、私の「私」論の中の「反応としての私」には「作品」が不可欠なのである。

では、こ

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プラネタリウムと「私」

美しい比喩は思考を加速させます。それだけでなく、その思考を拡げてくれます。

私の断片的すぎる『あくび』という作品?に素敵な比喩を用いて、意味を与えてくれた人がいます。
その人が与えてくれた比喩というのは、「プラネタリウム」という比喩です。
私はその素晴らしい比喩によって、己の思考の意義を知りました。
私の「私」論の核には、「反応としての私」、「主体としての私」、「場としての私」というものが存在し

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ふざけた話

軽ーい感じで話しますよ。
いつも、しかめっ面みたいな感じがするかもしれませんから。

私はふざけた人間なんですよ。

私の考えているもの、その目次をここに持ってきます。

『あくび』
一章 主体としての私/場としての私、反応としての私
二章 モノを現れさせる言葉
三章 偶然の段階性と倫理的成熟
四章 概念の地平性と本質
五章 コミュニケーションと神
六章 (二項対立と創造性/程度と超越)/X
七章

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よくわからない文体の話

俺は俺の書きたいことを書く。
そしてそれを読んで、笑うんだ。

私の「私」論はこれに尽きるのかもしれない。
これを書くために、考えるために、私はあれやこれやと策を考えているのである。
私の最近得た考えの中に「己の中に天才と秀才を飼う」というものがある。それは「閃きと論理を身につける」ということとほとんど同義である。
なにせ、天才の閃きは形にならないから、秀才が論理で形にしなくてはならないのである。

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偶然の自覚と倫理的成熟

偶然とは何かを考える時、ヒントになる考えがあった。
まず確認しておきたいのは、私は「偶然を自覚すればするほど、倫理的に成熟する」と考えているということである。
簡単な例で言えば、私の今の社会的地位はもちろん、私の存在、生命もまた、偶然に過ぎないと理解すれば、友達や偉い人、すべての人の地位や能力が偶然に過ぎず、偉そうにしている人はそれを知らない人、賢いと自称している人もまたそれを知らない人、さまざま

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私の「私」の哲学と「仄めかし」

友達と話していると、こんな話題がその場を支配した。

病名だけ与える医師は医師なのか。

という話題である。
いや、正確にはこのような話題ではなく、もう少しライトな、「病名だけ伝えてくる医師」というユーモア的なものだったのだが、私はそれが面白いように思えた。
医師の医師的なプロセスを仮に、単純すぎて怒られそうだが、「症状の診断→症状の治癒」であるとしよう。
すると、医師の仕事はそれらを遂行すること

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文学で言う「モノ」

私がよく言う「モノ」、これを哲学ではなく、文学の仕方で現そう。

ペットボトルを、ペットボトルの腹のあたりを、ポフっと押すと、その空気が押し出され、目の前にあるのはCCレモン。だから、CCレモンのペットボトルがぽよんと元に戻って、ここには私が居なくて、そこにはペットボトルがある。
こんな話がある、らしい。

人間型のエイリアンが地球に到来して新たに支配者となり、人間は万物の尺度としての地位から低落

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私の哲学、走り書き

時間がない。
しかし、筆を進める。
これは挑戦である。
走り抜けるという。

私が「私」にこだわるのはどうしてなのだろうか。考えるというのは、コンプレックスをモチーフとして掴み直すことだとするのなら、私が「私」というものについて考えることにはコンプレックスの力動が存在していると考えるのが普通だろう。
もちろん、そのような面はある。私は何度も言っているが、「自己同一性の解体と構築」を目的として、『あ

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私の哲学の射程

私の「私」論にとって、特に関係があるのは、レヴィ=ストロースのアイデンティティに関する言及と私の「純文学とは何か」ということ、そして、ここから行われる思考である。

と、私は考えている。
しかし、それだけでは「考える」ことは可能になっても、それが表現されるということにおいては不十分であると考えられる。もちろん、それは必要はないのかもしれないが、それがなければ、私はつまらない。なぜなら、批判しように

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面白い話、私は好き

私の「私」論は私にとっても全然よくわからないものなのであるが、私は「私」というモチーフを何度も掴み直すことはできそうな気がしている。「考える」というのは「モチーフを掴む」ということ、そして「モチーフを掴み直す」ことだとするのなら、私は「私」を「考える」ことができるのである。

さて、こんなことは昔から知っているのであるが、いかんせん私の表現方法の不足、そして開発の力不足、それによって、私の「私」論

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「私」の全体性

各々の「私」の全体性について。

私の「私」論の前提には、何かに触発された私(=「反応としての私」)というものが全体的であると考えられていることが挙げられていると考えられます。
回りくどいので、簡単に言いますと、私が考える「私」は何かを感じた私、「反応としての私」が前提されているのですが、それは私という歴史の部分としてではなく、それ自体が屹立した全体として前提されているのです。
簡単になりませんで

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『新しい哲学の教科書』を読んで考えたこと

『新しい哲学の教科書』という本を読んだ。
私はびっくりした。
「これは私が考えていることの原理的な考察の可能性だ」とメイヤスーのことを思い、読み進めると、グレアム・ハーマンが私の「もの/モノ」概念をより深く、そして柔軟にしてくれることを知り、テイラーとドレファスが実在との直接的関係とその関係相互の関係性について「広さ」を持つことができることを教えてくれ、マルクス・ガブリエルは「意味の場」ということ

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