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譫妄がほほえむ

沈みこんだ夜が、突然の雷雨に断ち切られる。ハッとしてKは庭に出る。激しい雨粒が芝生を跳ね、バラバラと砂利を投げつけるような雨音が壁に弾ける。洪水だ、とうとう大洪水が来たのだ、とKは覚悟する。「母さん、どこなの~?」と大声で叫ぶ。かぼそい響きが返ってくるのは屋根の上、「お~い、ここだよ、ここ!」。母は大きな如雨露とクーラーボックスを抱えている。抱えたまま、地上波アンテナの横でしゃがみこんでいる。

「何してるんだよ? そんなところで?」
「うなされてたけど、おまえ、悪い夢でも見たかい?」
「風邪ひいちゃうだろ! 早く降りて!」
「これを持ってきたら、ヒヒッ、傘を忘れちまったね」

母はわざわざ如雨露を翳し、傘を持ってこいという。ついでにラジオも。Kは一瞬の躊躇のあと、梯子を上って傘を持っていく。「ラジオは? ラジオが要るだろ!」と母は息子をたしなめる。焦点の合わない瞳は、どこか他人事のようでもある。「ラジオで言ってたんだよ」、母はいつの話やら、竜巻が湖を襲い、まるまる湖水が干上がった記憶を辿っていく。竜巻は、魚も藻も水ごと呑みこんでしまい、次にどこかで大雨が降るときは、天からきっと魚が降ってくる。そうかと思うと、大国が核実験をしたのちに、何万キロも離れた土地へ放射能の雨を降らせる内容に変わっている。

歯車の狂った論理と真摯な眼差しを、Kは天秤にかける。にわかには認めがたい緩やかな譫妄は、悪夢以上にリアルな悪夢だ。時間軸が目茶苦茶だ。雨は激しく二人を打ちつける。母に傘を差しかけて、Kはやさしく言う。「そうなんだ? 鳥じゃなくて魚が降ってくるんだ?」。

「あっ、父さんにも教えてやらなきゃ。職場には電話したかい?」

「冷蔵庫に薬を置くの、悪い癖だよね?」

「アポロ11号は月面に着陸したんだよ!」

「ベッドの下に隠してるアレ、この目が節穴だとでも思ったか!」

濡れそぼる母のブラウスは、細い身体にぴっちり貼りついている。いつの間にこんなに小さくなったのか、Kは哀しくなる。それでも、嬉しそうに胸を躍らせる母を前に、Kはあらゆる過去をそのまま胸の奥へと流す。横殴りの雨が記憶を、新しい記憶を、一瞬にして過去の同一地平へ叩きつける。いま起きていることが「いつ」なのか、母はもう分からない。いや、記憶は別にして、意識はまだ自由だ、と思う、だから道にも迷う。

「降ってきたとしても、せいぜいバスかトラウトだよ」
「そうかい? そんなものかい?」
「でも見たいよね、魚が降るところ …… 」
「フン、おまえも一人前の口を叩くじゃないか!」

ややひねこびたように母は言う。そして、如雨露に溜まった雨水をひとおもいに屋根の上から撒き散らすのだ。少なからず興奮しながら、あたかも沐浴を楽しむ乙女のように。ニッと剥きだされた母の前歯には、見たことのない歯列矯正器がくすんで光る。

「えっ? 母さん、その歯?」

「…………… 」言いかけて、Kはちょっと嬉しく押し黙る。






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