嵐の前日

子供のときに台風が接近した時には学校が休みにならないかなといつも思ってた。

どうにかして学校や部活に行かない理由ができないか探して、熱がありそうなら測ったりしていた。なら休めばいいのにとも思うのだが、自分が悪いんじゃないと言いたかったんだ。

なんで、学校とか部活を苦行として捉えていたのか。見つめ直してみると、あの教室という密閉された空間、そこでの人間関係。(部活はちょっとわからないので保留)

内田樹が著書の中で、「いまの子供たちは学校に行くことが自らの義務である」と思っていると言っていて、これが根っこにはあるなと思った。結局、自らの意思ではなく行かされているという感覚。行かないといけない、将来のため、、、など明確な自分の意思ではないから。

こうして考えてみると、この感覚は仕事と同じな気がする。生きていくためにしようがなく、本当は行きたくないけど。仕事は苦行と捉えている人は多いと思うし、自分だって組織にいる以上そう思うことはある。

そういう大人の姿勢というか人生の過ごし方が子どもにも伝播して、学校はしょうがないから行ってる、だから出来るだけサボろうとか。うまくやり過ごそうとか、評価だけ高ければいいみたいな発想になるんだと思う。

大事な事は自分がやりたいと思って突き進んだ結果、自分の中に何が残っているか。それがのちの人生でどう効いてくるかを常に振り返る事。何となく過ぎ去るのを待って、嫌な気持ちはすぐに忘れて、自分が考えていたことはなかったことになる。そんな大人が多ければ、それを見ている子どもだってそうなるに決まってる。

人の可能性って一緒にいる相手によって変わるものだと思う。もし相手のことをつまらないとか思うのなら、それは相手のつまらない面しか出せていない自分がいるってことなんだな。子どもが思い通りにならないと感じるなら、それは自分自身の中に理由があるはず。

自分が人生を謳歌できているか、自分のことを疎かにしてやり過ごしていないか。人生楽しめているか、楽しめていないならそれはどうしてそう思うのか。そんな姿勢で考えられたら、子どもも自分のことと向き合うんじゃないかな。

久しぶりに書いてみると恥ずかしいけど、やっぱり楽しいですね。

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