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「東大生は高卒の人を見下しますか?」と聞いてくるあなたへ

こんな手紙が届いた。

「東大生から高卒の人ってどう見えますか?好きな人が高卒だったら萎えますか?」

何気なく聞いただけだろう。芸人らしく「バカにしないわ!」と軽快にツッコむべきところかもしれない。でも、私はこういう質問が頭に浮かんでしまうこと自体が病理だと思っているのでこれを機にこの辺りのことを考えたい。


まず、そういう発想が学歴偏重主義を助長していると私は思います。生まれた瞬間から東大生だった人などいないので学歴はそもそも個人の性質ではなく選択の結果です。もちろん高学歴の人の中には学歴で他人を評価する人も多いけど、私自身の体験に照らせばこっちが何とも思ってないのに勝手に先回りして卑屈になられることの方が圧倒的に多い。自分は面白い人たちに憧れてお笑いの世界に入りたかったけど自分の面白さの限界がわかっていたのでキャラをつけるために大学を選びました。ガタイの良い芸人さんが見栄えを良く笑いを取りやすくするために筋肉を鍛えるのと全く同じです。筋肉芸人さんが虚弱な人を見下しますか?「鍛えた方がいいよ!」と思ったり言ったりはすると思いますが見下しはしないと私は思います。自分の周りには学歴なんか関係なく面白い人たちしかいないので、学歴で人を判断するという発想そのものがピンと来なくなりつつあります。 

そんな風に、人にはそれぞれの価値基準があり、その中でよりベタでつまらないものが「お金」「容姿」「学歴」などであるわけです。自分は学歴が低い人よりも、「学歴みたいなベタでつまらない価値基準でしか人を見られない人」と接していてとても萎えます。自分自身とてもミーハーで「知名度」「影響力」のような同じくつまらない価値基準に反応してしまいがちなのでそういう自分はとても嫌いです。今の自分は共感力や語彙力、トークスキルが雑魚で、学歴を使ってしか皆さんの注目を引けないのでそうしています。その結果、教育や受験に関するメディアのお仕事をもらえることが多いけど、それをやらせて頂くのは教育関係の仕事で一生やっていくからではなく、その過程で真芯に確固たる価値基準を持った魅力的な人たちと出会えるからです。 

お笑いの場で「高卒どう思う?」と聞かれたら空気を読みますが、お笑いじゃない場でそういうことを聞いてくる人がいれば、もうその人には私からは話しかけません。20年、30年生きてきてそういうベタでつまらない価値基準しか身につけられなかった人は、その城の中でベタな仲間と過ごしてほしいです。こっちはこっちで楽しくやるので。美醜の話、収入の話も同じです。コンプレックスベースでばかり世界を見ているとコミュニケーションもそれに頼らざるを得ず、人が話していることのほとんどを「自慢」や「見下し」と捉えるようになってしまう。そんなつまらない城から抜け出すために、いろんな人や芸術を愛して自分の物差しを磨いていくことが人生の潤いではないでしょうか。


偉そうにすみません。でも、そうでしょ。

文章を書くと肩が凝る。肩が凝ると血流が遅れる。血流が遅れると脳が遅れる。脳が遅れると文字も遅れる。そんな時に、整体かサウナに行ければ、全てが加速する。