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「えらい」と言われるのが嫌い

僕は、誰かに「えらいね」と言われるのが好きじゃない。

え?褒められてるのにうれしくないの?
そう思うだろうか。

今回は、この心情を言語化してみた。

「えらい」って言われるのってどんなとき?

あなたが、誰かを「えらい」と思うのはどんなときだろう?

一般的に面倒くさかったり大変なことをやっているときだろう。

例えば、ものすごく繊細な気遣いをしているだとか
ストイックな習慣があるだとか。

「意識高いね」と言われるのと非常に近い。

そして大抵一緒についてくる言葉は
「私にはとてもできない~」である。

それは多くの場合あなたにもできることだ。
でも面倒くさくて続けられないこと
やろうと思えないこと
そんなとき人は「えらい」という言葉を使う。

あなたが誰かを「えらい」と思うときは
その対象の行為について
あなたが価値は感じるがモチベーションを感じないときである。

だからこそ
「そこまでしなくてもいいのに頑張るねえ」と
外野から嘲笑されているように感じてしまうのだ。

やかましいわ、と思う。


では、視点を変えてみよう。

あなたが子供の頃、どんなとき「えらい」と言われただろうか?
実はここに「えらい」という言葉の構造が隠れていると思う。

「まあ、ちゃんとお勉強してえらいわねえ」

なんで勉強するとえらいのだろうか?

「遊びたい」という本能を抑えて
「本当はやりたくない」けれど「やらなくてはいけない」
「勉強」というミッションを
真面目にこつこつやっているという固定観念があるからだ。

だからお利口にしようとお勉強してる子供は嬉しいだろう。

だが元々勉強が大好きだからやってる子が言われたらどうだろう?
おそらくきょとんだろう。

僕が「えらいね」と言われて違和感を感じるときは、
自分が好きでやっていることを「えらい」と言われたときだ。

これは賛否分かれるかもしれないが、
勉強が好きで好きでたまらなく夢中な人と
ゲームが好きで好きでたまらなく夢中な人の
その行動に至るモチベーションの価値に優劣はないと思うのだ。

そこに「えらい」も「えらくない」もない。
ただ夢中になれるもののジャンルが何だったか
運の問題でしかない
と思うのだ。

自己成長や社会への影響力とかを棚上げして言えば、
ビジネス本好きとマンガ好きに優劣はない。

「えらいね」と言われると
本当はやりたくない面倒なことを
我慢してやってるのが立派だねと聞こえるのだ。

冗談じゃない。僕は好きでやってるだけだ。
それを変に美徳みたいにしないでくれ。

これが「えらい」への嫌悪感の正体だ。





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