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私の奇跡の親友を紹介します。

私には奇跡の親友がいる。

2人とも36歳になったばかりだ。 しかも、たまたま生年月日が全く同じなのである。

互いの奇跡の親友ネタは、独身の頃から2人で飲み会に行くと、もはや鉄板ネタだった。周りの男性陣を差し置いて、2人だけでつい盛り上がってしまうくらい。1番ダメなあのパターンになる。

想像してほしい、売れていない芸人がコンパ中にネタを披露して、一等懸命笑わないといけないあの辛くて、さぶい時間。

まさか、つまらない芸人の立場になっていたかもなんて…今思えば少し反省である。 

そんな親友、Rを紹介したい。

彼女と初めて会ったのは、14歳の頃。 

彼女と初めて電話したのは、12歳の頃。 

彼女と初めて文通したのは、9歳の頃。

そう、きっかけはたった1つの手紙からだった。

*

Rと出会ったのは女子小学生向けの雑誌で行われていた、『文通相手募集企画』だった。

その企画に私が応募して、雑誌内でハガキが紹介されたのだ。

札幌在住、小学三年生のはるっちです♬今はおしゃれに興味あって服が大好きです!同学年の子文通しませんか?良かったらプリクラも貼ってね〜(^∇^)

まぁこんな内容だったと思う。

我ながらませたガキだ。(笑)

ただこれが意外と反響あり、全国から100通は大げさだが、70〜80通くらい私宛の手紙が編集者を通じて届いたのだ。

その中から4,5人くらいを文通相手に選んだ。秋田の子、沖縄の子、熊本の子、そして瀬戸内海のR。

Rはプリクラを見てとても可愛かった。

そして何より、生年月日が全く一緒だったのだ。そこに私は運命を感じた。 

これが彼女との出会いだった。 

*

当時の私は北海道在住だった。小学2年生の頃に父の転勤により、大阪から北海道に転校しきたのだ。

県民性なのか学校の子は静かでお上品な子が多い。学校で仲良い友達はいるし、週末に互いの家で遊んだりもするが、本心や悩み事を話せるかと言えば違った。

そんな中、Rからの手紙をいつも首を長くして待っていた。

ポストを見るのが楽しみだった。学校から帰宅すると「お母さん、手紙届いてない?」これがお決まり。

手紙が来たら本当は今すぐに開封したいけど、あえてしないで楽しみをとっておくこともあった。

親がいない所で、夜寝る前にじっくりと布団の上で読みたいのだ。 

R とは、手紙で沢山のおしゃべりした。

自分の好きな趣味、友達のこと、ペットのこと、最近買った服、お父さんとお母さんの少しの悪口、それぞれの家庭の事情、クラスの好きな男の子。

小学三年生ながら感じる、学校の不満や将来の不安。時には写真も入れてやり取りをする。 

R の存在はとても不思議だった。会ったことがないから友達とも違う、クラスの好きな男の子とも違う、家族とも違う。 

むしろ家族よりも、誰よりも、本音を話せる心の友達のような存在だったのだ。

学校という存在自体が鬱陶しくても、親から理不尽なことで怒られても、机に向かって手紙を書く時間があれば当時の私は小学生なりにやり過ごせた。

*

お小遣いの範囲で便箋を買うのが楽しみだった。

Rはどんな便箋が好きだろう?こんなことを考えながら文房具屋で小学3年生なりにお買い物をする。

そして便箋は5種類くらい机の引き出しに綺麗に並べて、今日はどの便箋にしようかな。あ、前々回はこの便箋だったから今日はこれにしよう、こんな時もきっとRの事を考えて、手紙を書く。

本当は手紙が来たらすぐに書いて送りたいのだけど、手紙のやり取りは月に2回と決めていたので、相手の負担にならないようにあえて遅く投函したりした。

今思えば文通って素敵だなと思う。

今の時代は便利すぎるデジタルの世界だからこそ、あえて時間がかかって省略できる何かが貴重なように感じるのだ。

ラインがあればすぐに相手にメッセージを送れるけど、文通は手間と時間がかかる。 

手紙を待つ時間、便箋を選ぶ手間、相手のことを考えながら手紙を書く時間、投函する手間。だけど、私はこの全ての過程が好きで、小学生なりに愛おしい時間だった。

手間と時間がかかるからこそ、ポストを開けて手紙が届いた時の喜びは、言葉に表す事ができない。 

今はとにかく時短の世の中だけど、流行りのように一周して、むしろ時間がかかる尊い何かに、価値を感じるようになってきている気がする。

*

小学六年生になり札幌から仙台に転校になったが、文通は月に1回とコンスタントに続いていた。

そしてこのタイミングでRが手紙にて[そろそろ文通始めて3年になるし、今度電話しない?]と提案してきたのだ。

初めての電話は緊張したが、もうすでに互いのことを知っているのですぐに打ち解けれた。

中学生になる頃には文通と合わせて電話も2週間に1回するようになる。

電話をする度に会いたいねと話すようになり、「高校生になってバイトしてお金貯めたら仙台にいこうかな」「いや、私が瀬戸内海に行くよ!」そんな会話をよくしていた。今思えば純粋で可愛い会話だ。

そして中学2年生の頃、また父の転勤が決まったのだ。しかも、Rがいる県に。

ガッツポーズをした。

この話を両親から聞いて、その夜すぐにRに電話して、互いに喜び合った。

そして偶然中学の学区も隣の隣くらいで比較的近く自転車で20〜30分くらいで会える距離だったのだ。

瀬戸内海に引っ越して初めてRと会った時。

自分の秘密も含めた、全てを知ってる人に会うのは恥ずかしい気持ちと、小学3年から文通していた心の友と会うなんて不思議な気持ちが混じりあった。

Rは文章の印象通り、ほんわかしていて、可愛い子だった。

それからは、ほぼ毎週末Rと遊んでいた記憶がある。互いに同じ学区内の子ではなく、2人で遊んでいた。


中学は別々だったけど同じ高校に通いたいね。そんな話をしながら…

*

そして高校生。

2人とも無事に同じ高校に入学した。だけどRとは同じクラスではなく、棟も分かれていたのでそこまで会わなかった。

もちろん互いを発見したら立ち話したりしたり、時々一緒に帰ったり、月1くらいで遊んだり、たまにお泊まりはしたが、Rは野球部のマネージャーをしていたので、かなり忙しくしていた。

週末も練習試合で中学生の頃みたいには遊べなかったのだ。

授業の移動でRのクラスを通り過ぎたら、彼女は4人くらいのグループで楽しそうにおしゃべりしている。

同じクラスだったら、彼女の隣に私が居れたかもしれないのに。

せっかく同じ高校に行ったのに…。

放課後は、一緒に寄り道して、ペチャクチャしゃべりながらクレープを食べる高校生活を想像したのに。

少し寂しさを感じた。

だけど、この時のRは以前のように私と常に一緒ではなく、少し距離を置いて、彼女は彼女の人間関係や世界を築き上げたいだと察する。

そしてそこはなるべく私が関与しない世界。 


それは寂しさはあるけど、少女から大人への成長過程でとても理解できたし、私もRに依存していたのもまた事実だった。


私もクラスの女子と仲良くなり、自分なりの人間関係の構築を目指し、彼氏もできた。

好きなバンドが全く一緒だった彼とは、ほぼ毎日に一緒に下校しては、マックでポテトを食べながら、片方づつイヤホンで音楽を聞きなが、「この歌詞にはどんな意図があるのかな?」そんな互いの思想を共有しては、おしゃべりした。

結果、彼とは4年間も付き合い濃厚な高校生活だったけど、Rとの関係は想像していたのとは違い少ほろ苦いものだった。

*

高校卒業後の進路は互いに違ったが、中学の頃のように、時間がある時は再びよく遊ぶようになった。

その関係は就職後も変わらずで、Rは自身の女友達をよく私に紹介してくれて、皆でよく女子会をしていた楽しい記憶がある。 


そして高校生から付き合っていた彼氏に振られてしまい、私が抜け殻のような状態になっていた期間があった。

それを見かねたRが合コンをセッティングしてくれ、3回目の合コンでたまたま前にいた人と7年も付き合う事になる(笑)

このように振り返えるとR は私の人生に沢山のきっかけを与えてくれてるのだ。

この彼とは別れて上京するのだが、その時もRは私の家族と共に、引っ越しの準備を手伝ってくれて、旅立つ日は新幹線のホームまで来てくれた。


*

Rへの後悔。


彼女は23で結婚して25歳で出産した。現在は2児の母である。

友人が母になるとライフステージが変わってしまった事実と寂しさを感じる瞬間が、誰にでも経験あると思う。

例えば昔みたいにおしゃべりしてる最中に、相手の母親の瞬間が垣間見えた時。それはとても眩しくて、少し衝撃な瞬間で、まるで神聖に触れてしまったような感覚。

それは相手は母だから当たり前ではあるが、「あ、自分と違う世界にいるんだ」と全てを物語ってしまい、自分の話を躊躇してしまう、あの瞬間。

振り返れば私はRにそれを感じたことがなかった。

Rはあれ?結婚してたっけ?子供いたっけ?と勘違いするくらいにいつも私と同じカテゴリーの話をしてくれていた。

もしろん、Rの子供の話を聞きたい、母の悩みを聞きたいのだ。

でも子供の話を聞いても「ぼちぼち♪」「それなりよ。それより、はるっちの彼氏さぁ〜」とかになる。

 
そして私も「あ、Rの旦那この間の話どうなった?」みたいな感じで子供以外のトークが中心で、こんなに長くいるのに育児の話とかはした覚えがなかった。

Rの子供も、もちろん大好きで一緒に3人でよく遊んだ、でも子供の前でもRは私の話を一生懸命聞いてくれた。


Rからなんともいえない、ライフステージが違う疎外感を感じる事はなかった。

そして、私はRより10年遅く34歳で母になった。母になってやっと分かった。

臨月がこんなにしんどいなんて、命の誕生が心の底から素晴らしくて、新生児育児がこんなに大変だなんて…

結局全ては自分が経験しないと分からないのだ。想像力では無理なのだ。

臨月のRに会った時、もっとお腹の体動を一緒に喜びたかった。

まだまだ若い24歳。不安であろうこれからする出産に相手の気持ちを汲み取り、少しでも気の利いた事を言いたかった。

眠れない新生児育児の時、ご飯の作り置きを持って行ったり具体的に協力したかった。

あのランチの時もっと育児の悩みをただひたすら聞いたり、子供の成長を一緒に喜びたかった。もっと写真を見せて貰いたかった。

たげど、あの時の、私の足りない頭では、想像しても及ばなかった。分からなかった。シンプルに自分が経験してなかったから…

自分が母になり、これらのことをRにフランクに謝罪したことある。

Rは「子供のことは逆に話したくなかったのよ。はるっちと話してると独身に戻った気分になれて、それが気分転換になってたの」

本当彼女は優しいのだ。


ちなみに現在は、もうお互い良い歳だからか、そんなに頻繁に連絡は取らない。

お互いの誕生日と、瀬戸内海に帰省した時くらいだろうか。最後に彼女に会ったのは1年くらい前。

互いに違う場所に住んでると、昔のようにはいかず、話の多少のズレや合わないことも出てくるだろう。

日々に忙殺されて連絡を取らない日が続く期間もあるだろう。

ただ、3年、5年、10年と会わない日が続いたとしても、いつだって会った時は「はるっちさぁ〜」「ねー、聞いてる?R」

こんな会話ができるんだ。

だって、私たちは元々は親友じゃない。友達でもない。

違う場所に住んでて、本当は出会う予定じゃなかった。

たまたま雑誌の企画がきっかけで巡りあった偶然の産物。

それから偶然に生年月日が一緒で。

それから偶然に彼女が住んでる土地に引っ越した。

それはもう逆に運命かもしれない。

そう、私たちは小学3年生から文通してたソウルメイトなんだ。 

だからいつだって元に戻れる。

*

余談だが、彼女は手紙を保管していたみたいで、私の結婚式のサプライズにて彼女が文通を一部読み上げた。

あまりの内容の痛さに会場は大爆笑でした。

小学3年生恐るべし。

ちなみに私は彼女との手紙は破棄してしまったが、Rは実家にあるらしく、また写真を送ってくれるとの事。
もし送ってくれたら、痛い手紙の一部を追加でアップしたい。

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