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「手書き」の快楽

つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ(『徒然草』)

 手書きの文章と、キーボードで入力した文章とでは、筆の(あるいはキーの)運びが違ってくる。それはリズムであったり、呼吸の違いだったりする。人によっても違うだろうが、私の場合、キーボードで打つ方がペンで書くよりも圧倒的に速い。  

 思考の速度は、キーボードに適しているか、ペンに適しているか? これが問題である。

 いったいなにを基準にしたらよいだろうか。ペンの感触、キーボードの手触り。また、書き手の言語観によっても、適切な入力装置は変わってくるだろう。つまり、思考を写し取るのが言葉と考えるか、あるいは、言葉から思考がにじみ出てくるものと捉えるか。本体は、思考か、言葉か。

 思考を写し取るのが言葉だと考える人の場合、その写し取るスピードは速ければ速い方が良いということになるだろう。つきつめるとキーボードよりも、音声入力の方が向いているかもしれない。

 言葉が思考を生む(思考は言葉の副産物にすぎない)と考えるなら、それにはより適切なリズムが求められることになるだろう。言葉が言葉を呼ぶ、そのような感覚を、私も知っているような気がするが、いざ、書いてみると、言葉がさらに言葉を呼んでくるようには、なかなか書けないものだ。

 言葉が言葉を呼ぶ、と書いてみて思い出されるのは、茨木のり子さんの「訪問」という詩。「ひとつの言葉が 訪ねてきて 椅子に座る よォ!」「あっというまに彼らの仲間は一杯だ 芋づる式にというか 言葉が言葉を呼び込んで 手品のように溢れかえる」。
 慣れてくると、ペンのリズムと思考が一体となって、私が考えるのではなく、むしろペンが考えているという境地にいくのかもしれない。

 昔、自動筆記というのを試した。そこでは、思いつくままに、あらゆる制約を取っ払って、文章の意味も成り立たないような文章(それはもはや文章とも呼べないシロモノ)を書き連ねていく。でも、このような書き方をして出てくるのは、う○ことかし〇ことか、ち〇ことかおっ〇いとか、そんな言葉ばかりで、辟易した。

 ペンと思考が一体となる状態は、そのような自動筆記とは異なる。それは、意味のある文章を目指しているから。自由は制約の中にある。手という身、ペンという物、思考という精神、それらが一体となって、文章という一つの作品を形作っていく。キーボードでは精神だけが前面に出てくるようで、とても書く喜びを味わう「ひま」がない。味わいのある文章を書くためには、まず書き手が味わうように書いていることが必要だ。

 修正はパソコンの方がしやすい。効率的、という点にかけてはコンピューターの右に出るものはない。
 しかし、パソコンで文章を直すと、元の文章が消えてしまい、修正をした形跡も残らない。ノートにがしがしと線を引いたり、書き直したりするのもオツなものである。書けない漢字を調べる「楽しみ」もある。

 ちなみにこの文章は、一度手書きで書いたものを、noteに上げるために修正を加えてキーボードで文字に起こしている。

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