[菊池洋勝×小松随三]俳散二重奏
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[菊池洋勝×小松随三]俳散二重奏

著者

菊池洋勝 俳人、屍派。主著『聖樹』を上梓。noteにて『横臥漫録』を連載する。
小松随三 散人



  Ⅰ

 

  アメリカの空域にある雲雀かな


                 菊池洋勝


  ダークエイジ・スタディーズ


                小松随三


 マンハッタンの栄華は永遠《とわ》に続け。
 メトロポリス美術館のデモンストレイション、コロンビア大学のやわらかな青い芝生、トランプ・タワーの回廊を廻ってぼくらは近代の達成を思い知る。
 そのなかでも一等高く雲を衝く建築があった。鏡の函のように逆光する、厖大な建築だった。
 そこにボーイング767が突っ込んだ。
 粗い画のなかで崩壊する建築は、理性というやつを内側からシェイクする迫力をたたえていたけれど、同時にはげしい暴力に対する無力とか、あきらめを滲ませるようでもあった。
 風景は無音で、リアリティに欠けている。そこからなにも発展しない、もはや思考も通用しないという虚脱感。
 休憩をはさむ映画が終わったような疲れを、身体の内奥が認め始める。これは絶望かもしれない。でもすこしだけ気持ちのいい感じもした。


 九月十一日。十五歳になったぼくは、すでに周囲の誰よりも賢かった。
 親類や教師の説教なんて、ぼくの知性のきらめきには遠く及ばなかったのだ。大人たちは閉口したと言うよりぼくに怯えていた。
 いたく手を焼いて、ぼくに留学を勧めたのだけれど、欽定訳聖書、シェイクスピアから、ピンチョンまでを原文ですらすら読めるこのぼくに、太平洋を渡ってまで学ぶべきことがあるだろうか?
 英語の授業のとき、氷河の上を滑っていくようなぼくの発話に恐れ入って、教師はぼくに質問を投げ掛けることがない。そこいらの生徒にだって判るのだ。ぼくの英語が教師のそれより奇麗だってことを。
 クラスにはそこそこ語学の出来るやつらがいて(進学校なんてうそぶいても、全部ぼくよりずっと愚かだったけれども)放課後になるとそいつらと図書室に集まり、教師が和訳したリーダーの例文、そのお粗末さにみんなで大笑いした。
 そいつらのうちの一人にニュートンの『自然科学の数学的原理《プリンキピア》』を八回通読した堅物がいて、笑い疲れてみんなが話柄を切らした一瞬を狙って、めずらしく私語した。大体こういう話だった──近ごろ同じクラスのある女生徒に英語を教えている。作文などさせてみてもそれほど洗練された文章は出てこないが、なかなか見所のある教養の持ち主で、名前は門野苗子と言う、と。
 当初その女生徒の動向をぼくは気にしなかったのだけれど、講義中すらすら質問に答えるその子の後ろ姿を眺めて、なんだか不本意な好奇心が芽生えるのを感じた。
 そんな訳で休み時間になって廊下を渡っていく女生徒を追った。みじかい髪を垂れる後ろ姿の行き先は、図書室だった。
 書架を見上げる彼女を蔵書のすき間から目撃した。門野苗子が手にしていたのは、アリストテレス全集の一冊。ませた女の子がいたもんだと考えた。
 世界史Aの講義が始まり、語り口のにぶい教師がぼくを指名した。合衆国への本土爆撃を指示した男はウサーマ・ビン=ラーディンだが、ラーディンが首魁を務める組織はなんぞや? ぼくの答えはこうだ──「アリストテレス」。みんなケラケラ笑った。門野苗子の背中は、動じなかった。無反応はなんだか気に食わなかった。
 夕暮れの校門の前、帰途の門野苗子を待ち伏せ、「そこの君」と指を指して呼び止めた。
「アルカイダとアリストテレスの区別がつかないのか」
「——知らない。世界史も、中東情勢も、まったく興味ないから」
 門野苗子は、無知を滲ませるようなあたふたな身ぶりを見せなかった。表情にはごく自然な空疎が浮いている。
 アリストテレスの形而上学がイスラーム哲学におおきな影響を与えたことなんて当然知ってるけど、だからなんなのよ、うるさいわね、あたしはこれからサーティワンアイスクリームを食んですたすたおうちに帰るのよ、なにが不足なのかしら、という感じ。
 つまり俗に浸からず風雅を愉しむこともない。そのような相対から脱して、自由意志に遊んでいる。万巻の書物に応えを求めては、解決した謎に増して不可思議な謎を抱えるあなた、書や学の副作用にうなされ続けるしかないのかしら。そりゃあお気の毒ね——それからぼくは反駁の余地を失った。
 décadentという語を想っていると、「また明日ね」とお愛想らしいほほえみを見せて、門野苗子はぼくの前を通過した。


 あの女、白痴なんじゃないかと内心罵倒したが、数日のあいだ、ぼくの自尊心は傷物にされたような気がしていた。
 また因縁を付けてやる、今度は年ごろの女子が嫌がるような歴史上のジェノサイドをくどくど語ってやろうと決心して、すたすたと校舎を歩く門野苗子のお尻を追うと、彼女は廊下で男子と出会い、なにかを談笑し始めた。
 男子がなにか冗談を口にしたのか、門野苗子はへらへらした。サッカー部の男子に媚びている。僕は胸が悪かった。こういう感情を辞書は「嫉妬」と定義するが、ぼくは「殺意」と名づけたい——。
 ゆれる黒髪を赤らめ、路地を行く門野苗子を追って、ぼくは女の子がもっとも嫌がるようなことばを浴びせた。知性のかけらもない、無残なことばだった。
 苗子は冷笑して通りすがろうとしたのだけれど、罵倒は終わらなかった。遠のいていく背中にいきどおって、腕ずくで振り向かせると、黄昏の効果なしに苗子の目もとは紅潮して濡れていた。苗子はローファーでアスファルトをかつかつ鳴らして走り去った。
 ぼくはぞくぞくした。あんなに奇麗な色彩を見たことはなかったから。
 それからというもの、ぼくはずっと苗子の色彩のなごりばかりを想っていた。女の子に執着するような連中と付き合いはなかったので、秘密の花園を胸に抱えて暮らしたのである。ぼくの罵倒を苗子が忘れてしまうことなどは考えられない。むしろそういう優位を残したまま彼女と係わりたかったけれど、あの黄昏時はもう再現されないような気もした。
 明るい窓辺の苗子はつねに辺りを払うように生活していて、その面差しは青白いくらいに澄んでいた。
 過ぎた夏の気配もそろそろ消えてしまって、教室の窓辺は日を追うごとにやさしい赤と黄のグラデイションに色づいた。門野苗子の頬は果実みたいにうっすらと輝いた。
 あざやかな落葉に彩られた中庭で、門野苗子はひとりでに弁当を食っていた。ぼくがたずねると、苗子はこっちを一瞥し、膝に掛かる落葉に目を落として、咀嚼を終えてから、「あなたもすわったら」と言ってベンチの端にうつった。ぼくらはすこしの距離をおいて、おんなじ地平からあざやかな木々を眺めていた。
「ひとりでご飯、食べてるのか?」
「同級生と食べると味がしないの」
「みんなのことを馬鹿にしてるんだろう」
「どうだろう。あなたは」
「生徒も教師も馬鹿ばっかりだ」
「じゃあ学校生活は退屈?」
「そうだな」
「だからあたしに因縁をつけて悦んでるんでしょう」
「うん」
「あなた、留学するの? アメリカに?」
「決まってない。あんまり気は進まないけど」
「〈啓蒙し尽くされた土地〉なのに」
「ずいぶん難しいことばを知ってるんだな。女のくせに。女に科学なんてわかりっこないけど」
「女は迷信深いってこと?」
「そりゃそうだ。女はみんな中世に生きてる」
「そっか。そうかもしれない——あたしって、処女に見える?」
 苗子の眼差しはぼくの回答を心待ちしているようだった。イノセントで奥行きのない瞳だった。微笑みをつつむ黒髪には、紅葉が散りばんでいる。この女はやっぱり白痴なんだろうと思案しながら、彼女の表情をずっと眺めていた。


 想像よりも太平洋はずっと広大だったと言えればよかったけれど、苗子を知ってからアメリカ行きはずっと困難になってしまった。
 摩天楼へのあこがれよりも、苗子の立ち姿を強く想った。頬骨から口もとにかけての鋭利や、腰のしまりが丘をこえて大地にすとんと落下する、あの身体にぼくは執着した。
 身内が不在のときに自宅に苗子を招いて、ついに彼女とセックスした。ぼくが想像していた官能はもっと繊細で社交的だったし、苗子は処女のはずだった。あろうことか苗子はすでに熟達しているようで、行為のまえに「ブチ犯す」と宣言して、ぼくは棍棒でタコ殴りにされた気分だった。ごおん、ごおんと耳鳴りが響いた。脳裏の建築は悲鳴といっしょに崩れた。
 それからは週に二日だけ苗子を家に誘ってきっちり一回だけセックスした。それ以上はやらせてくれなかったし、ぼくは覚えたてだったからその一回を中止にすることもなかった。
 苗子は裸で乳白色のティーカップを傾けてセイロン茶を嗜んだ。透き通った声で『ムーン・リバー』を唄っている。ぼくは避妊具とかちり紙を片づけながら、『ティファニーで朝食を』のオードリー・ヘプバーンより、トルーマン・カポーティーのスマートな文章を追憶した。
 悪癖はどんどんエスカレートしてしまって、ぼくは成績を大幅に落とした。宿題をこなしているとラインに苗子のおっぱいの画像が送られてくる
「部屋は片づいてる? マスターベーションは我慢してる? 避妊具の準備は? もう宿題は終わった?」
 『チャタレイ夫人』でどきどきした時代ははるかに遠ざかり、それだけが誇りだった学を忘れて、周囲への優越感も息をひそめた。苗子は裸体を横たえて「あんた、まるで野蛮人になったみたいねえ」とにたにたしている。
「あたしが堕落させてやったんだ」冗談みたいに華奢な指がぼくのペニスを突いている。「トリヴィアであたしを威圧していた少年はどこに行ったんだろうね」
「まだ勉強することはたくさんある。たくさんね……」
「万巻の書物よりもあたしの手つきのほうが多くを教えるのに」
「こんなのちょっとした運動じゃないか」
「まだ粋がってるんだ。何度でも敗北させてやる」
 あたたかい感触に包まれてすぐに絶頂してしまうと、苗子はけらけらと高笑いした。
 たしかに苗子は悪趣味なのだけれど、彼女の息づかいはうつくして、ぼくのモラルはそれなり歪められて、命じられれば犬のようなこともした。
 命令ははげしい性癖の域をこえて、原始宗教の儀礼のように不可解なものになった。
 四つん這いになったぼくの背中に苗子が腰掛ける。ぼくは椅子になったんだなと一応の納得はしたが、苗子は粗悪な椅子だと悪態をついて身体を揺らしたり、椅子の脚をこぶしで殴ったりする。
 またある時は昼寝にぼくを誘ってお前は湯たんぽだと言う。湯たんぽならば主人の身体を温めるのが本務なのだから、主人に欲情するのはもちろんのこと、息を抑えて、一切身動きしてはいけないと言いつけた。苗子の足もとのぼくは言いつけを忠実に守ったのに、足先でぼくをこつこつと蹴る。ほんのすこし身じろぎして避けようとすると、足の動きはもっとはげしくなる。かかとがぼくの顎をとらえた。ぼくは踏まれてワインにされる葡萄のようだった。
 こういう体験談はみんなぼくの自宅でされたことだ。苗子に荒らされてたしかにぼくの部屋は野蛮人の巣窟みたいになった。
 読解されない書物が散乱して、濡れたベッドシーツの波打ちのうえに苗子がお尻を晒して寝ている。苗子は一見するとちんちくりんのようだが、はだぬぎになるとアンバランスなくらいにおっぱいもお尻もぽってりしている。真っ白につやめいてまるまるとして、身体の器官というより、それ自体が自律した生きもののように見える。
 ぼくはうつぶせの丘を睨みながら苗子の足をていねいに指圧していた。今日は不機嫌でおっぱいすら触らせてくれなかった。

 快楽が身体をつらぬく速さで日が経っていった。
 教師はぼくを不良呼ばわりした。苗子の目配せや律法のようなことばでぼくの理性は淀んでしまった。
 おとなたちは少年時代の進歩を語るが、堕落はそれ以上に高速だった。
 たまに中に出すのを、許してくれた。五秒の快楽の代償に苗子の月経をずっと気にすることになった。勉強なんて身に入るはずもない。
 ニュートンの力学やアリストテレスの道徳はなんの意味も持たなくなった。ああ、書物に宿る死者の魂と僕との連続性は断ち切れて、肉と骨の凝集だけがぼくの眼前に控えている。夏の終わりまで感じ取れた死者の息づかい! いまでは苗子の機嫌をうかがう目配せしかない。
 密室でセックスするばかりではアクセントがないと言われて、ぼくらは浜辺にデートしにいった。恋人らしい会話なんてない。不用意なことばを述べるには彼女はあまりに気難しかったから。
 雲行きがあやしくて陽は絶えていたのに、ぼくは日傘を差し出して苗子を保護した。太平洋は木枯らしに荒れ、みなもは黒々としていた。そのうえを米軍基地から立った輸送機が滑っていく。苗子の指がぼくのてのひらを撫でた——メーデー、メーデー。
「あたしのとなりでどんなことをかんがえてるの」浜辺にはぼくらだけだった。海鳴りと日傘のはためきだけが鳴っている。「あたしを想ってる?」
「いや。アメリカのことを考えてた」
「あたしさ、もうすぐ誕生日なの。真冬が訪れるまえに誕生したの」
「そっか」
「お祝いしてくれる?」
「うん」
「ありがとう。贈り物、用意してくれる?」苗子はめずらしく年相応の恥じらいを浮かべていた。「リクエストしてもいいのかな」
「なにが欲しいの」
 おしとやかにうつむき、そっと目を上げて、ぼくの耳もとに手を添えて、苗子はもっとも欲するものをぼくにささやいた。
 その願いに応じるだけの器量はいまのぼくにはない。堕落が加速していけば彼女の願いは叶うだろうか。
 暗がりが強まって水平線も群青色に染まった。風景は曖昧になった。そろそろ時刻だった。ぼくらは浜辺を去り、街のほうへ歩いた。寄せてくる海鳴りは衰えた。これから、苗子とホテルを探しにいく。
 街を歩いているといっしょに読書会を開いていた旧友とすれ違った。成績でしか注目されないやつだった。苗子はまっすぐ夜の先だけを見つめて看過した。旧友は不本意な表情でぼくを眺め、足早に遠のいていった。
 ぼくは太平洋の果てから押し寄せる海鳴りを反芻していた。




  Ⅱ


  人の肉大きく見える大暑かな


                菊池洋勝

  田園


     小松随三


 度重なる女性関係に疲れて、私は疑心暗鬼を起こし分裂病と診断された。数年来の治療は効果がなかったが、診断書ほしさにしぶしぶ精神科にかかっていた。精神科医は傲慢だった。そろそろ忍耐の限界が見えた。
 暗がりに浸かった診察室、精神科医は「いい休息になると思います」などと云っているけれど、あのくすんだ白壁の病棟が憩いの場となる可能性などあるかと考えて、寸前で私を殺し損じる憂鬱を引き受けた。
 無論、精神病院は伊豆の旅館ではない。裏山で採った山菜も出ないし三十路の女将もない。ナースコールの機会を奪われ脱走を試みるこの私、寝間着を纏って放浪して、警察に保護されて病室に強制送還されるだろう。
 この精神科医は、私を合法的に軟禁しようとしている。確信の芽生えた後、帰宅して効き目のない錠剤をみな捨てた。
 薬漬けの精神から一転、離脱症状に苦しむこと抜きに、私の心は澄んで来たのだが、あの夥しい錠剤が強いた禁欲のなかから、本来の承認欲求があふれ出てしまった。
 古い知り合いの前で息継ぎのへたな落語を披露してみたり、目つきの死んだ女性に怒られてはへらへらする。俺は、口調だけでなく人間性もぺらぺらしていると、おどけて自己言及しては笑いを誘い、帰り路に就くと落胆した。
 承認欲求と根の暗い気分はおかしな塩梅で同居する。のそのそと昼過ぎに起きて、アマデウスのヴァイオリンコンチェルトを聴きつつ、親類と口も利かずに一時間ばかり掛けて飯を食い、装いを整えて出掛ける。カフェーで寛ぎ、ぼんやりと本を読む。なんだか物を書く気分が高まらない。仕事に精を出すのでもない。職場に顔を出す日はずっとうつむいているだけだった。
 そういう生活は、私の表情を濁らせた。授業をサボタージュし、公立の図書館で谷崎潤一郎の筆致にもじもじしていた、あの美しい少年はどこに消えたのか。時制が移って、やさぐれたプー太郎が生き延びているばかりである。
 あれこれと思案する間に、街の風景は季節に応じて、整列する並木の葉とか、その足元の草花や、果ては大気の印象までもが、パステルカラーになったり極彩色になったり、ちかちか点滅するようだ。夜の黒々としたアスファルトに、信号機の赤が滲む時、なんの関連もないのに、嫌悪という言葉を想った。

 ちんたら小説など書いていられないと思い、俳句を詠むようになって、だらしない句会に参加するようになった。夢の島みたいに汚い部屋に坐り込み、その場でこしらえた俳句を順に発表していく。どいつもこいつも飲酒しながらの創作である。仕舞いには、正体をなくして舌が痺れ、脇で雑魚寝を始める始末である。殴り合いに発展した時などは、部屋が狭いのでみんなで止めるしかない。
 行儀の悪い連中の成すモザイクのなか、素性は不明だが、正坐を組んで大真面目に句作に励む女がいた。仮にその女を凜子と呼ぶ。
 凜子はあんまり笑わないし、時折見せる笑顔は止むを得ない社交性のあらわれのようだった。俳人にセクハラを仕掛けられると、あしらう口振りは朗らかで明晰なのだけれど、どこかメタリックな感じを受ける。服装も言葉遣いも酒の飲み方も、この句会にまします派手な女とは違った。
 その日、凜子は花柄の刺繍が細かく散りばんだ、萌黄いろの長いスカートに、ゆったりした仕立ての白いシャツを合わせていた。俳人どもが組んだ円陣、私は凜子の隣に坐っていた。順番が回って来ると、普段凜子は落ち着いた声色で詠むのだが、この時ばかりはどこかせかせかしている。いつもちびちび飲んでいる焼酎の缶を、句会が始まってすぐに干してしまっている。赤らんだ面差しの口もとは緩んで、部屋を過る御使いをお一人お二人と勘定しているのか知れない。
 そろそろ俳人は酔い潰れて来る。凜子の呂律が回っていないことに俳人どもは気づいて、めずらしく悪酔いしているこの美人を誰が送るか議論になった。女の俳人は、不真面目な男ばかりで任せられやしないが、他に比べればこの子がいいかしらと云って、私を指名した。仕方ないですね、二つ返事で貸しビルの階段を凜子と降りた。
 光が弾けたように燦然とする夜の街は、私の育った田舎とは距離感がある。平坦で、血の通った、有機質なあの街から出掛けて、夜遅くに凜子のような女と新宿を歩くのは楽しかった。凜子の長い黒髪に、赤いネオンの灯りが遷って綺麗だった。私のそういう目配りに、凜子は振り向いて、
「ごめんなさい。具合、悪くって」
「そんな気がしてました」
「周期的に具合が悪くなるって判ってるのに。今日は休めばよかった」
「……」
「あたしの家、ちょっと遠いんです」
「どこですか」
「吉祥寺」
「まだ近いじゃないですか」
「あなたは」
「八王子です。田舎者で恥ずかしい」
「そんなに田舎じゃないような」
 凜子は笑った。笑うと瞳が三日月の形になった。いつも澄ました顔ばかり見ているせいか、少し不安な気持ちもする。
「あたし、ちょっと疲れちゃいました」
「あの馬鹿騒ぎの中じゃ、仕方ないです」
 口ぶりからして、どこか手近な宿を取って欲しいとも解釈出来るが、句会の女と無軌道に寝て、いざこざの末に果物ナイフで脇腹を切られた輩を知っている。駅まで送って、この人は吉祥寺、私は八王子で降りればそういう厄介を負うこともない。ホテル街を通りながら、良寛という坊さんの句は素晴らしいなどと語ると、凜子はこくこく相槌を打った。
 中央線に乗って、閑散とした車輌の中、今まで聞き手に回っていた凜子がこんな話をした──、
「なにかペットとか、飼ってますか」
「いえ」
「あたし、イヌが好き」
「イヌですか」
「うちのイヌ、それはもう綺麗で。あたし、いとまがあればずっと愛でて、たまに話し掛けたりして」
「返事はしますか」
「する」
「なんて」
「それは秘密。イヌだって、恥ずかしいと思うし」
「そうかあ」
「その、よかったら、見に来て」
「もう遅いからなあ」
「そうですよね、あたしたち、そんなに仲良くないし」
 こういう時に私の行動が三歩ほど遅れるのは、雅びな女に対する怖れと表現すべきような、プリミティブな感情の働きのせいだった。凜子は明瞭なもの言いで私を家に誘っている。体調を崩して、心細いのかも知れないけれど、平生からあんまり愛嬌を振りまかない女が何を急いでいるのかと訝しんだ。そういう疑念は、凜子の目つきとか、言葉遣いとか、些末な材料をあげつらうようだが、点検の速度は快速の中央線より遅い。もう吉祥寺だった。結局、私は凜子といっしょに電車を降りた。
 駅から家は遠いと云われて、タクシーに乗り込み、凜子は行き先を運転手に告げた──「田奥へ」と静かに告げた。聞いたことのない地名だが、そもそもここらには不案内である。駅から離れて少しして、辺りは暗がりに包まれて、私はぼんやりと後方に流れて行く灯りを眺めていた。運転席の無線機から、何かの連絡が聞こえたが不明瞭だった。
「ア」
 言葉にならないような声だった。凜子に目を向けると、その面差しは紅潮して、深く緩慢に呼吸をしている。その肩が私に触れ、やがて半身の重みを感じるようになった。芳しくないのは聞かなくて判るが、なんだか妙な色気が立ち上って、自然な風にもたれ掛かって来てもしょうがねぇなという気持ちになった。
 この人の、のんびりとした呼吸を勘定している間に、タクシーは山路に進入していた。
「田奥っていうのは……」
「地名じゃないです」
「建物の名前ですか」
「いえ」
「じゃあ──」
 丁度、タクシーは停車した。ハイビームの向こうに、鉄柵に囲まれた屋敷が見える。私の方で代金を出そうとしたが、凜子はさっと支払ってしまった。一万円札を何枚か出した。私はそんなに走っただろうかと考えた。お釣りの小銭を受け取って、凜子は私の腕を引いて、門の方へと歩いて行く。
 観音開きにされた鉄格子の門を抜けると、鳶色の木板の屋敷が控えている。黒々とした屋根瓦の整列も、縁側の硝子を嵌め込んだ障子も、みな一様に表面の暗にぼんやり光沢を浮かべている。建築の足元はうっすらと苔が萌えて、緑の上を通って玄関に入った。凜子は足の裏を後ろに返すようにして、靴を脱いで、恐縮する私に視線を投げ掛け、すたすた奥へ進んで行く。廊下は木目の色調の中に襖が埋められているばかりでなんの装飾もない。却って上品な感じもした。無言のうちに奥へ奥へと歩けば、初めは奇妙に感じた床板の軋む音も風雅である。
 ようやく襖を開けると寝床だった。脇に布団が敷いてある。私を置いて、凜子は部屋を出て、熱燗にしてある酒と肴を持って来た。膳には何か赤い塊が乗っている。薄暗い部屋だから、夜目を働かせてじっと見ると、炙った明太子だった。二人で食った。酒も肴もちょっと不思議な味がするけれど、口に入らない程ではない。外人が経営するレストランで食事を取るような感じがする。凜子は更に酔って、俗な話柄を持ち出した。本来、唖然とするようなことだが、凜子の口ぶりは澄んでいて愉快に談笑した。どんな口実でここにやって来たのか、もうどうでも良くなった。

 明るくなった寝床で目が覚めて、まず時刻を確かめようとした。枕元の鞄をまさぐって携帯電話を起動しようとしたが、充電が尽きているのか動作しない。部屋には時を指す物がない。どれだけ杯を重ねたのか、凜子と同衾したのかすらも覚えていない。肌を脱いで布団に入っているのだから、想像は簡単だが肝心の凜子が見当たらない。
 部屋を仕切る障子は、ほんのりと緑の薄明かりを宿している。透過した明かりに充てられて、白壁や沈んだ色の木柱までもが苔を生やしたように見える。まあ、建築の良し悪しなど知ったことではないが、服が見当たらないのは困る。もう肌寒い時期だし、女の家を裸でぶらぶらするのは遠慮したい。薄い掛け布団を袈裟のように巻いて、入って来た方の襖を開けた。凜子さああああんと叫びながら、廊下を巡っても、同じような光景が続くばかりで心細くなった頃、
「こっち、こっち」
 と凜子の声がした。声の方へ歩んでも回廊の先は果てず、折々見掛ける襖の奥に凜子の気配はない。もう一度、凜子さああああんと素っ頓狂に叫んだ。後ろで床の軋む音がした。凜子が控えていて、私は驚いて飛び上がった。けらけら嗤われた。昨晩の飲酒のせいで、危うく失禁するところだったのは秘密である。
「その格好はなんなの」
 いやに凜子は馴れ馴れしい。へらへらしている。仲良くなれて嬉しいけれども。
「わしは出家じゃ」
 凜子はつまらなそうな顔をした。滑ったなあと思っていると、突然笑った。
「ご飯食べてって」
「うん。あの、服はどこに」
「お洗濯してます」
「この格好じゃ困るな」
 凜子は一面に草花の模様があしらわれた白いワンピースを着ている。散らばった紫陽花の花冠の間を、細かく蔦が覆って編み目を作って、赤いしたごろもと肌が透けて見える。出家と天女の出会いである。
「男の人が着る服、あるけど」
「前に暮らしてた人の服?」
「野暮なこと聞くもんじゃないよ」
「現在進行形で暮らしてると困るから」
「あはははは。もう遅いんじゃないの」
 飯を食う前にトイレに案内して貰った。「せっちん、せっちん」と呟く凜子に附いて行く。裾を引きずってちょこちょこ歩く凜子は床を滑っているようだ。
 屋敷の外れだろうか、廊下は解放されて外の光で眩しかった。くねくねした石畳の路の向こうに、せっちんが見える。せっちんに続く路の頭上は、ほとんど枝葉に覆われて青みがかった敷石にまだらの影を投げ掛けている。こんな時期なのに、まだ緑は艶めきを失っていない。屋敷の中に入り込む不思議な色の明かりはこれが原因だった。用を足した。凜子がいない。しばらくして、服を胸に抱えて帰って来た。拡げると和服だった。坊さんが些事の際に纏うような。結局のところ出家である。
 凜子とまた回廊を廻った。なんだか屋内を歩いている気持ちがしない。カフカの『城』を体験しているのかと思った。
 呑気に一夜を明かした部屋だろうか、凜子は朝食を持って来ると云って、また消えた。身をくるんだ布団を剥がして、渡された服に着替えた。
 対面して一枚ステーキを食った。ちょっと脂の切れが悪いが、美味いステーキだった。おそらく牛肉だろう。間が幾つあるのか知れないような屋敷で、朝からステーキなんて優雅な暮らしだなあと思って、仕事の時刻は大丈夫かいと聞いた。
「イヌを見てないといけないの」
「イヌはどこにいるの」
「どこかに出掛けてる」
「脱走しちゃったのか」
「まあ、あたしが恋しくなって、そのうち帰って来るだろうねぇ。そういう風にあたしが育てたから」
「賢いイヌだなあ」
「ううん。イヌっていうのは馬鹿な生きもので。ちゃんと躾を与えないと偉ぶっちゃう。イヌは家族の一員だとか、飼い主と助け合って暮らすだとか、みんな綺麗事だと思う。それに、可愛らしいイヌほど管理されなきゃ生きていけないの」
「ブリーダーみたいだ」
「あたしはもっとイヌを慈しんでる。みんなあたしを観音様みたいに思ってくれる」
「自分の前にましますのは観音様だったのか。一応と拝んで置きます。昨晩はどうもありがとう」
「あたしも愉しかった。ゆっくりしていって。好きなだけ」
「本当は何をしている人なんですか」
「だから、あたしは観音様だって」

 構造が判らぬ屋敷ではあるがどこも質素で、それが却って来客に精神的な集中をうながすようだった。別格に色彩がゆたかな、読書専用の間でさえも落ち着いた気持ちで句作に励んだ。板張りの床に舶来品らしい赤い絨毯が敷いてあって、そこで凜子とごろごろした。絨毯の上にはおびただしい本が積んである。無地の装丁の厚い洋書ばかりだった。私には読めない。頭のなかで推敲を繰り返して、絞り出すように句を手帳に書き込む。凜子は悪戯のように足で私を突いたりして句作を妨害したが、「やめろよお、やめろよお」とおどけて対応した。段々過激になって、関節技を掛けられて本当に腕を折られるかと思われた。凜子が楽しいのなら、まあ仕方ない。
 打ち解けた相手には喋る人なのか、ラテン文学の講釈を始めたのだけれど、ことばの端々に学を感じて感心するしかない。ユーモアの持ち合わせもあるから、お勉強しただけでなく人間交際の経験もゆたかなのだろう。ローマ人の淑女の娯楽を語った時などはげらげら笑ってしまった。なかでも面白かったのが、ペトロニウスという文人のことだった。皇帝ネロの知恵袋であり、ラテン文化の体現者であるペトロニウスを、凜子は貴族の身分に堕した俗物であると言い切った。
「文化ってのはね、過去に属するものでね、死人の所有物なのさ。文化の体現者は死人の身ぶりと口ぶりを上手く引き受けなきゃならないでしょうう。なのにペトロニウスは現世での快楽にうつつを抜かしてた。ローマの宮殿で酒池肉林でも催して、わいわいがやがや暮らしてたに違いないんだよ。みっともないね。ローマ人はギリシア人に知力で劣ったって云うけど、そりゃそうだろうね。ギリシア人の愉しみなんて、男色くらいだしね。思想をやるのには丁度いいって訳。形而上学もデモクラシーも、ローマでなくギリシアで生まれた。でも、近代人ってのはもっと馬鹿だと思う。高層ビルなんてローマの宮殿より俗悪じゃないの。いつかぶっ倒れる。ドミノ倒しになって都会は滅びる。あたしは賢いから、田園で暮らすの。ここの暮らしは閑かだけど、文化に親しめるから」
「おお、なるほど」
「判ってないでしょ」
「まあまあ」
「別にいいよ。あたし達、もっと理解し合えると思う。知性に磨きを掛けるのもいいけど、田園はひっそりし過ぎるから、あなたみたいな人を招きたくなるの。ずっとここにいて欲しい」
「急にプロポーズされちゃった」
 ずっと凜子とお喋りしていた。せっちんに行くともう夜だった。食事はいつも何かしらの肉料理が出て、どこか音程の外れた感じの味にも慣れた。いきなりお膳が出て来る、料理人でも住まわせているのかと聞くと、「あたしが作ってるの。お肉だし、焼くだけでいいから簡単だし。お口に合わなかったら、ごめんなさい」と答えた。驕慢なひとのいじらしさにすこし和んだ。
 せっちんへの行き方も覚えた。風呂場に案内されて、湯に浸かった。シャワーがないから、木桶に湯を汲んでざぶざぶやった。せっちんも水洗式ではなかったし、むしろ自然である。電気が通っているのかも怪しい。脱衣所にも回廊にも、奥まった間にさえも電球一つない。もう陽は落ちている。なのに屋敷の中は明るかった。どうにか自然光を取り入れているのだろうか。
 凜子が禅室と呼ぶ、読書の間に坐り込んでそろそろお暇しようと考えていた。田園の暮らしも悪くないが、畳に坐ってばかりで脚が痛い。替わって、凜子は風呂に入っている。ほかほかの凜子、寝巻き姿でそのうち寝室に来て、読書では達成出来ぬ悦びを求めるだろうが、いやさか、かの人と結ばれて、ここで生涯を果たすのは御免こうむりたい。
 まあ、顔立ちからファッションまで凜子は優美で、古典的教養を備えて、独特な猥談も操れる人である。しかし、あたしは観音だの高層ビルなんてドミノ倒しになって崩れる云々、病んだ女の世迷言を通り越して、もはや黙示録ではないか。あの句会に参加しているくらいだから、やっぱり警戒するべきだった。どうにか嘘の理由を述べて、都会に帰ろう、そうしよう。ビッグマックが私を待っている。
 きこきこ床の軋む音がして、襖が開いて凜子が禅室に入った。私の目玉はその立ち姿の光明に痛むようだった。枯れたような色の背景に、群青の着物を纏って、だらりと提げた洋髪に何か発光する粒子をまぶしている。髪はふわふわしていた。同時に静止していた。目蓋を上品なアイシャドウで塗って、唇はぱっと赤い。肌の地は本来、真っ白なのだろうが俯き加減で影が差している。敷居の前に立っている。私などは姿勢を正した。凜子はするする歩いて、私の前まで来て、寛いだように腕をだらりとした。
「天衣無縫」
 凜子がそう囁いた。この屋敷の夜は余りにひっそりしているから、姦しいような感じがする。
「綺麗でしょう。そりゃあ、この世の着物じゃないからね。天女の衣には縫い目が無い。布地だって地上をいくら彷徨ったところで手に入らない物ですから」
 わざとらしく凜子は会釈するように屈んだ。着物の青みが鈍い反射を見せた。ビロードとか、何か光沢のある素材とも思われたが、その色合いは美醜の感じを超えて、神性《かむさが》としか形容出来ない光線を放っていた。
「でもね、こういう着物に先立ってあたしは美しいの。ほんとうの美を見せてやろうと思うけど、折角天衣を纏っているのだし、まずはお召し物のレクチャーから」
 これが羽織、あわせぎぬ、肌に触れるのは襦袢──、足元に天衣が積み重なった。青と白の入り混じった様は、残酷な景色としか云いようがない。
 肌脱ぎになって、凜子は得意だった。人物画のモデルのような堂々たる姿勢で。凜子の身体がどうだとか、私が何を感じたとか、説明したり注釈を付けるのは無意味だろう。何かを受けたのでは無い。感受性や思考は利かなくなった。
 朝になった。用事があると言われて一人で寝た。寝床を出て、せっちんを目指すと、途中で凜子と会った。昨日と同じ白いワンピースだった。
「いい声ねぇ」
「私の声? 私のいびきが?」
「違う違う。メジロが鳴いてる。聞こえないの」
「いや……」
 それから、輪を掛けて凜子は驕慢な態度を取るようになった。くいと顎を上げて、秀でた鼻梁越しに私を見下ろすようにして、口幅ったく文化を語っている。こちらから私見を述べると、「そんなこと、知識以前に常識じゃないの」だの、「いやいや。そんなことをほざくのは、リテラシー以前に耳が悪いからですね。あたしは医者じゃないから。ごめんなさいね」などと短いセンテンスで斬り捨てる。これでは聞き役に徹し続けるほかない。
 また屋敷に晩が廻って、私は凜子と食事しながら、明日の朝になったら帰ろうと考えた。
 夕食を終えて、風呂に浸かった後、凜子は天衣を着て現れた。私の前で天衣を脱いで、肌を晒して、そのまま部屋を出て、お色直しして戻って来る。それを何度も繰り返す。着付けに時間が掛かり、夜も深くなって、流石に間は灯りを弱めていく。内装の木材や土壁など、乏しい灯りにすがるように空虚だが、無造作に脱ぎ捨てられた何着もの天衣が波打って、騒ぐ水面の逆行のように煌めいている。ペルシア風の生地や気の遠くなる程きめ細かいレース。空間は不調和だった。本来、交わらない筈の明暗が対立して、己の属性はどちらの側なのかと思案して緊張した。また戻って来た凜子は、曼荼羅の柄の生地で仕立てた橙いろの着物に、西洋風の、黒い毛皮のコートを合わせていた。無表情を保って、コートをはらりと捨てる。からだを回転させながら、あわせぎぬの模様を解説し始める。胸と腹に坐る仏──日本の寺で拝めるような、物静かな仏ではない。腕と腰を曲げ、他の聖なるものと抱き合い、悦びに満ちた仏を中心にして、あまたの菩薩や明王や神々が幾何学的に配置され、その整列が凜子の骨格に沿っている。袖や裾の方に清らかではない生きものが集っている。夜叉や鬼女の類いが人間を害していた。

「あんたさ、泊まり込むのはいいけど、ちょっとは気を遣ったらどうなの。あたしがあんたの立場だったら、あたしなりに考えて、あたしが出来る範囲で家事を手伝おうとすると思うけど、あたしはあなたじゃないから、あなたがあなたの頭で、あたしに言われるまでもなく配慮しなきゃ」
「何かするよ」
「じゃあ回廊、雑巾掛けして」
「わかった」
 床の木板を磨く途中、屋敷の中を徘徊しているような気持ちになった。実際に現在地も判らない。果てがない回廊と云うより、同じ地点を何度も通っているのかしらと考えた。バケツの水を床に撒いた。周回してもこれなら自覚出来るだろう。
 しかしその思惑は無意味だった。道が枝分かれしているのでもないのに、水浸しの床に戻らない。襖に入っても余分に迷うだけだろう。第一、許可なしで踏み込む訳にもいかない。怖ろしくなってしまい、凜子さああああああああんと叫んだ。背後で襖の開く音がした。振り返ると凜子が現れた。
「うるさいわッ。何事かと思うでしょうが」
「迷ったんだ」
「迷うもなにもどこに行こうとしてるの、あんたは」
「回廊を一周したいだけだが……」
「なにが難しいんだか。天竺を目指して巡礼する訳でもないのに。それと床に水をぶち撒けたでしょ。拭いといてください。あたしにはやることがあるので、邪魔しないで貰いたい」
 凜子は出て来た間に帰った。襖がピシャーンと閉まった。回廊は続く。雑巾掛けに戻ったが遅くに起きたから、朝食を取っていない。何時か知らないものの、そろそろ空腹を感じた。空腹感だけではなく喉も渇いた。バケツの水はちょっと嫌だなあ、と葛藤していると凜子が曲がり角から顔を出した。
「ご飯にしようか?」
「ぜひとも」
「厨房に案内するから、あんたが作りなさい」
 火吹き竹を用い、かまどの火を起こし、飯を炊き、凜子が用意した肉を煮て、野菜を切った。ばたばた厨房の中を動き回っているのに、一向に昼食は完成しない。凜子が様子を見に来た。
「冗談でしょう。ステーキを作るんだよね。ステーキのわきのとうもろこしすら出来てないって」
「ごめんなさい」
「火が弱いなあ。もっと強く吹かないと。さあ、はやくしないと」
 息を大きく吸い込み、火吹き竹を通してかまどに空気を送った。苦しくなって息を吸うと煙が口から肺に流れ、激しく咳き込んだ。
「苦しい……」
「あんたにはいい毒なんじゃないの。あたし、お腹が空いて不機嫌だから、やさしくしないから。責任持ってやってください」

 山を降りたい反面、天衣を纏った凜子から離れたくはなかった。雑巾を掛けて、飯を作って、風呂を掃除して、凜子の説教に耳を澄ますのは楽ではないが、あの姿を拝めるのなら、不当ではない代償かとも思う。どれくらい泊まっているのか、勘定出来なくなった。
 私は生活にいくらか適応した。けれど凜子は日を追うにつれて手厳しくなる。古典ギリシア語を教えるなどと言い出して、口伝えで音論から仕込まれた。音論はまだ易しい。曲用は頭が沸騰しそうで、活用になると右も左も判らず、過去を表す時制のアオリストとか、能動態と受動態以外に中動態があって云々、発狂寸前に追い込まれた。あんたは不勉強だと言われて、些事に追われながら変化を延々と唱えた。それでも覚えられなかった。怒鳴りつつも凜子は、全て慈悲の働きだと云った。
「あたしの云うことが腑に落ちないんでしょう。あなたが愚鈍だからだよ。智慧や安らぎを索めるなら、修練を積まなきゃいけない。あたしの言葉によって、あなたは永遠の生を受ける。あたしは仏で、ここは浄土。ここを出たら、瞬く間のような時間を、穢れた場所で生きるしかない」
 叱られてしまい、ため息をついて、せっちんへ続く石畳を渡る。緊張を覚えないのはせっちんに居る時だけだった。すぐに夕食を用意しなければならなかった。せっちんを出ると何か冷たいものを頬に感じた。見上げる樹冠の隙間からぱらぱら落下して、苔に覆われた庭をゆっくり濡らしていく。お浄土にも雪が降るんだなと思った。私の気分は落ち着いた。

 修練の完成は遠いものだ。ただ、その距離は見かたによって解消出来る。夜な夜な凜子の、特別な間に呼ばれて、高次の修行法を教えられた。過酷だった。初めは心身が受け付けなかった。今では生活に疑念や打算は要らないと識り、発狂も突然死も致し方ないと受け入れた。
 凜子は居丈高だろうが真理をくどくど語れば、そういう文体が選択される。生活の愉しみか、来世での幸福か。いずれも世迷い言でしかない。ここには音楽も、電灯も、温和な女も無いが、自然の風光が拡がっている。ただそれだけである。
 昔日、都会の雑踏に埋もれて、享楽を追い掛け回していた己は、無知と云うより、視力に恵まれていなかった。やっと視力を得て、ほんとうの雪はなんと白いのかと驚く。それに引き換えアスファルトに積もった雪は俗悪だ。


   Ⅲ


  仮装する必要のない体かな


               菊池洋勝

  サロメの客死


         小松随三


 サロメがインディアで客死したという報せを受けた時、彼は元越で娘たちの指圧にうめいていた。
 流浪のラマ僧が寄越したサンスクリットの文《ふみ》には、サロメはヴァラナシーのガンジス河に沐浴して病を得て、ついに倒れて荼毘に付されたとあった。
 それ以上の詳細は記されていない。彼は途方に暮れたのだが、サロメの最期を調べなければ彼女との恋愛をみんな無に帰すような気がして、その翌日にはインディア行きの商いにまぎれた。
 ヴァラナシーの混沌とした風景のなかにあって、苦行で身体を歪ませたブラフマナや乳房を出した婦人、ペルシア絨毯を担いだ行商人にサロメの晩年を尋ねてまわったのだけれど、インディアのひとは不器用なほほえみを返すばかりだった。
 おそらくサロメは死んだのだろう。あの嗜虐の限りを尽くした女にとって生死とはどんなものだったろうか。巡礼の道中で、経典を持ち帰る三蔵法師を殺した。いやサロメは彼に殺害を命じたのだったけれども。またある時は息を呑むくらいにうつくしいスリランカの姫君と会った。サロメはその甘いささやきで、姫君の皮を剥いでほしいと願った。サロメはとび色の肌を椅子に張った。まだつややかな肌を撫でながら「だれかがわたしを無残に殺してくれるのかしらね」とつぶやいた。
 サロメの命令は、彼のなかでまだ活きていた。スメールの山で体得した術を振るい、インディアの酒池肉林を襲ってまわった。
 金銀財宝を強奪しては頭上に放り、その輝きを星々の灯りに返した。女たちを連れ去っては、阿片を吸わせ、床にみんな寝かせて、呼吸する絨毯にして、そのうえで志那人から習った舞を踊った。いつかサロメが戻ってくれば、この風景に魅入られて彼女との愛が再現されると信じて。
 彼の宮殿は悪臭を放っていた。仕える女はみんな美しかったけれど、やがて肉体は朽ち果ててその周りに暗雲がうずまいた。豪奢な宮殿の柱は骨で、寝台や玉座や女たちの衣装はひとの肌で出来ていた。彼はスメールの山を不思議な力でひとまたぎで乗り越え、インディアじゅうのうつくしい娘をさらい、ブラフマナの絹の袈裟を奪った。
 人を喰らって数百年が過ぎ、やがて悪徳にもあきた。弱まった彼はついにブラフマナの老僧の神通力に破れた。ブラフマナを冒涜した罪は重い。彼の頭は八つに裂けると思われたが、老いたブラフマナは条件を課して命乞いにおうじた。「スメールの山のどこかに枝葉に神々が憩う樹がそびえている。探しておくれ。死ではなく、お前に永遠の生を与えてやろう」
 彼は宮殿をたたき壊し、ブラフマナに命じられた通りに術を封じてスメールの山に入った。あられが吹くスメールの山を登り始めると、最初に鬼女に会った。うつくしい髪を提げた裸の女——高い木のように長躯で、山を下りては人を喰らうもののけだった。
「お前はなぜ登っていく?」
 轟くような声で鬼女が聞いた。
「私には生がわからない。たくさんの女や僧侶を殺めたが、彼らの鼓動が止まることを死とは認められない。その肌がうるおいを失い、やがて腐敗しようとも、彼らは雄弁に語っている」
 鬼女が笑うと雪崩が起きた。彼の目の前は真っ白になった。吹雪がやむと鬼女は消えていた。

 鬼女が消えてからしばらく人畜とは会わなかったので、彼はサロメの身体を考えていた。サロメはほんとうに死んだのだろうか、あんなにみずみずしい身体が灰に変わるだろうかとずっと考えた。
 サロメと交わった日々はすばらしかった。サロメはずっと幼かった。少女のように舌足らずだったけれど、身体はいくらか女のようだった。いろとりどりの刺繍に裸で寝そべり、ゆたかなぶどう酒を愉しんでいるのに、退屈だ、退屈だ、と口ぐせのように言う。
 サロメのために術を習得して、吟遊や舞踏にも励んだ。世界中の説話をそらんじてみせた。しかしサロメの退屈はいやされなかった。それで嗜虐をためした。サロメはすこしだけよろこんだが、やがて彼のもとを去った。インディアに行くのよ、とだけ言い捨てて。
 思い返せば彼の生活、いや人生はみんなサロメに捧げてしまったのだった。サロメの顔色は風や雨雲のうなりよりも気がかりだったし、その舌は山火事よりも赤々としていた。二人で快楽に身体を燃やしたのに、もはやそういう日々は過ぎ、彼はスメールの山で永遠の生を探している。
 サロメの身体を記憶して、そのぬくもりだけでずっとスメールの山をさまよった。時折に牛をみつけて、そいつを喰らったりしているうちに、彼は四肢で歩くようになり、その先にはにぶくかがやく爪が生え、喉もとからは獣らしいうめきがもれた。ブラフマナとの約束を忘れて、また数百年を獣になって過ごした。
 サロメとの快楽はずっとうずいている。もはや彼女のむごいことばはみんな失われた。それでもなにか切ない気持ちが獣のこころをとらえて離さなかった。獣は身をまるめて雪原で眠り、山の肌や澄んだ大気を染め上げる朝焼けがおとずれると、その毛皮のうえには野鳥の声がしみこんだ。
 それからまた数百年が過ぎても雪の景色はうつろわなかったが、ふもとに拡がる王朝はいくつも滅んだ。獣は忘れるということすら忘れて雪原やきびしい崖のうえで遊んだ。伝承の住人となってスメールの山に迷った旅人を時折喰らった。いつもひどい飢えに苛まれ、ある日の夜にうさぎを追って、足を踏み外し、奈落の底へ転落した。
 スジャータという娼婦が雪に埋もれた獣を見つけた。毛皮は血にまみれて肉が裂けている。それでもゆっくりと呼吸している。娼婦は獣をいやしてやった。毛皮をそっと撫でて、肉をまぜた粥を食わせて、ときおりその額に接吻もした。
 真っ黒い瞳からスジャータの姿を眺めて、獣はサロメのことを思い出した。スジャータと獣の会うところは一本の樹のしただった。老いたブラフマナとの契約が頭をよぎった。
 一葉いちようを通り抜ける陽の光のなかから、誰かが明るい宴に誘っている。
 スジャータが雪のほんのり積もった草原の路を歩いてくる。きっと獣にやさしい目配せを、たべものとことばを与えてくれる。
 樹のしたにうやうやしく座ったスジャータに愛の挨拶をした。スジャータはうつむき加減で目礼した。
 二人を覆う木陰は赤らんだ。枝葉はさんぜんと燃え始めた。

 その娘の髪は獣のようにゆたかで黒々として、瞳は満月を当てたように輝いていた。
 知ることのない父からはうつろな気分を、母親からは影のような慎ましさを、顔のない隣人からはさげすみを横顔で流すすべをならった。
 とおくの太陽が一方の極に沈むと、世界は恐ろしい暗がりに包まれた。娘は夜目がはたらいた。田畑を走り回って昆虫やとかげを食べた。また登る陽は野山の木々やそして河の表面に陰影を与えるけれど、彼女の肌は一日のあいだ静脈が浮くくらいに透き通っていた。
 毛並みがもっとつややかになって、彼女は恥じらいを知った。男の子の陽にさらされた肌がすこしだけ、眩しかった。後ろ指をさされて、いたずらされるのはなんとなく気持ち悪かった。こういう気持ちをなんと名づければいいのか彼女にはわからなかった。ことばは「あ」と「うん」だけしか知らなかった。
 母にいいつけられて森の奥に入っていくと、森はふだんよりも静まって、木々の梢に憩いはなく、草花はうなだれたように頭を垂れている。裸足で踏む苔のしたを地虫も歩かなければ、岩のしたの影には猿も行者も休まない。
 緑のいちばん深いところに川が流れていた。彼女はなんだか熱っぽい体をしずめようと、川に浸かった。水を汲むのを忘れ、流れに体をひたした瞬間になにかがはじけるような感じがした。彼女の足もとから、川はほんのり赤くなった。流れていく赤みに応じて森は騒ぎ出した。黒い髪のうえには樹冠に割れた陽光が掛かった。
 それからは、昼と夜とが互いにせめぎ合い、二つの極の間を太陽や星屑が飛び回った。「あ」と「うん」の隙間にたくさんのことばがすべりこんだ。たくさんのことばを覚えると、そのことばに感情が引きずられてくる。いちばんきれいな感情を探した。泥だけで出来た町で、やっとみつけたいちばんの感情とことば——それは「恋」だった。
 上目づかいと嘘をつくことを覚えて、固い毛並みに手ぐしを入れ、打ち捨てられた夫人のあざやかな衣服を奪うと、彼女はもう母のような立派な娼婦だった。
 泥の町では、水夫の子は水に遊び、僧侶は彼らだけのマントラをささやき、屠殺人は汚れを負った。いろいろな男と交わった。彼女はようやく運命ということばを知った。
 ずっと遠くの土地から、彼女の体につよい波動が流れ込んでいた。その波動にしたがえば、男を堕落させるのはとても簡単だった。
 彼女とおんなじいろの肌をもつ少年とあった。彼はギリシア人と名乗った。風を切り裂く槍の捌きや、目に見えないなにかを思考する術とを身につけている。しかし女の肌の感触は知らなかった。
 インディアの半獣はギリシアの冒険家の少年と交わった。
 半獣はこどもを生んだ。ギリシアの隊列はうつくしい馬に騎乗し、轟くようなかけ声だけを残して子どもを西のほうへと連れ去った。

 いくつもの都市が砂埃の遺跡ばかりを残してほろんだ。
 そうして人が死んだ。紙切れのように千切れて、赤々と燃えて死んだ。
 やさしい会釈を身につけた男から、みんな死んでいった。
 死んだ男たちは恋にほだされたけれど、愛というものを知らなかった。
 残された女たちは子どもの髪をきれいに梳かして、労働でゆがんだ指先でパンと水よりも得がたいものを手探りした。
 炙られた金剛石のような太陽が沈む荒野で女が砂を掘っている。
 爪はみんなどこかになくしてしまった。指先は砂の体温で黒々としてしまって、骨張った手には血潮が通っていないようにさえ見える。
 そろそろ夜に青ざめる砂は無限で形状がなく、いくら掘り続けても深みには達しない。女は時間というものを知らなかった。二本の脚に杖が加わってもこの習慣を廃さなかった。
 女の一生を吸い取った穴の最奥は、なにか白くて丸いものの一端をのぞかせた。まだ砂に埋もれて全容は知れない。女は穴を訪ねる道の途中、ジャッカルに喰われてしまった。
 女の子どもは三人、兄弟で白くて丸いものの全体を明らかにしようとした。
 長男は熱病で倒れた。次男は女にうつつをぬかしてどこかに消えた。三男だけが白くて丸いものの砂をみんな払った。
 その球はどこまでも透き通って表面に歴史を映している。
 情炎に身を焼かれ、考え得る限りの方法の殺戮を試みて、時におしとやかな言葉を話した遠い親類がそろって愛したもの。
 彼はその冷たい球にそっと頬を寄せた。箱の底に埋もれていた手紙をふと見つけたような、懐かしい感じにとらわれた。
 その言語は理解しがたかった。しかし彼には時間が理解できた。時間のうねりが包み込んだ森のさんざめきや、人々の絶叫を聞くことができた。音声に耳を澄ます。遠い約束の声が聞こえたような気がして彼は思案した。そうして思い直した——約束はとうに果たされていた。

 サロメにほだされた獣は荒野の砂粒ほどの子どもたちを世界中にちりばめた。
 ヨーガ行者が体術をあやつり身体を灼熱に燃やしている。ペルシアの女は一生を捧げて絨毯を織りつづける。志那をまわる奇術師は指先から火炎を散らす。ギリシアの英傑は父祖の栄光を想って書を紐解く——永遠の生は大地の方々で結晶していた。


  あとがき


 不案内のせいかしら、新宿駅東口を抜けると、いつも鼻孔の痺れる感じする。街そのものが舶来品の缶詰めのように匂っている。ネオンを渡っていく。街はもっと色めくけれど、裏路地の暗がりが僕を誘った。その奥に雑居に埋もれた城がある。
 「砂の城」と名付けられた通り、フラジャイルで混沌とした空間。屍句会はそういう風景のなかで催されている。
 屍派の俳人たちから、僕は散人として言葉の切れや、省略の方法を盗みに通った。老人の趣味としてのつどいとは懸隔がある句会なのだから、不実としか云いようがないけれども。
 屍句会のご縁で本作は紡がれることになったが、実のところ、菊池洋勝さんと会ったことはない。彼は電子の網を辿って城を眺めているので城門に入ることはないが、そういう「距離感」こそが洋勝さんの真骨頂である。洋勝さんはnoteで『横臥漫録』というウェブログを連載している。正岡子規の『仰臥漫録』 のオマージュだ。ただ洋勝さんと子規の姿勢はかなり異なる。

 彼ハ癇癪持ナリ強情ナリ気ガ利カヌナリ人ニ物問フコトガ嫌ヒナリ指サキノ仕事ハ極メテ不器用ナリ一度キマツタ事ヲ改良スルコトガ出来ヌナリ彼ノ欠点ハ枚挙ニ遑《いとま》アラズ余ハ時トシテ彼ヲ殺サント思フ程ニ腹立ツコトアリサレド其実彼ガ精神的不具者デアルダケ一層彼ヲ可愛ク思フ情ニ堪ヘズ(『仰臥漫録』正岡子規)

 端的に言えば、子規の姿勢は傲慢でしかない。ここでの「彼」とは子規の妹の、律のことで、病床の自分の世話を焼く妹をこき下ろした挙句、時折殺意を覚えることをもあけすけに記す。妹は精神不具者であるから、可愛いなどと歪んだ愛も告白して。
 確かに子規は写生という理念の提唱者であり、そのスタイルを徹底すればおのずと身も蓋もない現実がつむがれる、と解説はできるけれど、まあ僕などはそばにいて欲しい人ではないなという感想が先立ってしまう。
 一方の洋勝さんは、子規の系譜に立ちながらも、なんだかいじらしい感じがする。

 子規兄。僕は親不孝者だから後期高齢者の親のコロナワクチン接種の予約も手伝はない。母が自ら予約センタアに電話し通院歴のある診療所を接種場所に選んで夫婦分の予約を取り付けた。息子がね何度も電話してくれて云云、孫がスマホでネツトに繋いでくれた、何てゆう街の声にテレビを消した。(『横臥漫録』菊池洋勝 六月二日)

 洋勝さんは自身の状況を見つめると、哀愁を通してそれを客体化しているのではないか。だから洋勝さんの告白には傲慢さというのではなくて、友人から悩みを相談されているような親しみを覚える。
 もうすこし洋勝さんの親しみから援用したい。

 子規兄。お見舞ひに貰つた冷菓が入つてゐた硝子の器を長い間グラス代はりに使つてゐた。脱水や熱中症に気を付けるやうに口酸つぱく言はれても、がぶがぶ飮める胃袋でないから麦茶や炭酸水に氷を浮かべ溶かして飮むのに丁度良かつた。それが割れて差し入れてくれた彼とも人の縁が切れてゐた。(同上 五月二十六日)

 子規兄。夜の布団を夏物に取り替へた。大学病院は一日の院内の温度が管理されてゐるので毛布一枚でも十分に過ごせる。これにも大小があり僕は小児科に入院してゐたのが長かつたから子供用の布団が小さい体にも塩梅が良かつた。神経内科に転科した今でも入院すると小児科から持つて来て貰ふ。(同上 五月二十八日)

 やはりここにも傲慢さはない。硝子の器に結晶した悲しみや、布団にうつった体温はあるけれども。

 子規兄。こんな思ひをしないやうに筋ジストロフイヰで早死にする体を貰つたのに呼吸器なんか着けて命拾ひするから見なくていい現実を見る。生き地獄を味はふ。物心ついた時医者から聞かされてゐた死ぬ日から逆算する癖が付いてゐるので死ぬ前に遣り残してゐるイベントがまだあるといふこと。(同上 五月二十三日)

 洋勝さんは写生を全うした子規と同じように「見なくていい現実を見」ている。が、子規のようなうっとうしいタフネスは匂いもしない。むしろ無常のはかなさを滲ませている。極めつけの自虐はこうだ——、

 子規兄。筋ジストロフイヰには色色な型があり頭では差別してゐる。知的障害のある福山型じやなくて良かつた、表情の変化に乏しい顔面肩甲上腕型はキモい、進行が遅くその障害が普段の生活には困らなく見えるベツカア型の患者なんかは疎ましくも思ふ。僕は他人と比べて立つてゐる醜い人間だ。(同上 六月十一日)

 洋勝さんからはじめて貰ったDMにも、こういう感覚があったのだった。もちろん彼は紳士で言葉を丁寧にえらんでくれた。文章の端々からして、きめ細かいこころの持ち主なんだろうなとも思った。執筆する上での調整はたくさんあったものの、僕は二つ返事で、ぜひ共著を作りましょうと返事をした。それで、洋勝さんの句集『聖樹』を読んだ。
 この連作に挙げた句はみんな『聖樹』から援用した。俳句に関して不勉強な僕も『聖樹』のいじらしさや悲しみには、洋勝さんとの精神的な公約数を感じた。僕らはある種の「アウトサイダー」として共通しているかもしれない。それがうれしかった。
 もっとも、この連作は、俳人・菊池洋勝と散人・小松随三の拮抗の跡でもある。 俳人は韜晦してコラボレーションを持ち掛けたが、僕の希望でそういう構図にした。洋勝さんはすでに句集を上梓している上に、新聞に書評も出ている。文字通りの散人、つまりアマチュアに依頼してくれたのは、挑戦的なことでもあったろうから。
 最期に謝辞を述べたい。いつも身ぶりと口ぶりとで刺戟をくれる屍派のみなさん、作者どうしを繋げてくれた世話役の木内龍さん、俳句のご指導をいただいている家元の北大路翼さんに深く感謝します。
 なにより共作を持ち掛けてくれた洋勝さんには、感謝のことばもありません。陰気な時代はまだ続きそうですが、いつかあなたとお会い出来る日を愉しみにしています。


                         散人 小松随三

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