対人処世

オリンピック選手、プロスポーツ選手、芸能人、その他SNS上で最近この手のニュースを良く耳にする。

 指先で命を奪う行為に繋がる行為であるにも関わらず、安全な場所から当事者でも関係者でも無いのに、誹謗中傷する行為はなんと貧しい行為かと常に思う。 

加害者側、その関係者は誹謗中傷行為を止めるように声明文を出すこともある。

 この手のニュースを見るたびにいつも思うことがある。

 それは加害行為をする方々への考え方だ。 

当たり前だが当事者でも関係者でも直接の利害関係者でも無い他人に、誹謗中傷行為をする人は、人生を幸せに過ごせてないか、何らかのコンプレックスを刺激されている。

 つまり言葉は申し訳ないが可哀想な人なのだ。

 今充実して幸せな人や、健全な家庭で愛情を十分に与えられる育った人、その他時間の使い方の大切さなど理解している人がそんなことをする意味が無い。 

自分自身と周りの人を幸せにすることに時間を使えば良いのだから。 (自分を幸せにする勇気を持てることも、また力の1つ。)

そんな中、誹謗中傷された方は色々な考え方が持てると思う。 

自分は高い発射台(実家の太さ、遺伝的才能、挑める環境、健康、容姿、何らかの支えてくれた人に恵まれたなど。)から今のポジション、成果を得た。これは運でしか無い。

 誹謗中傷している人は、たまたまそれが無かった。(生まれや環境が逆だったら、自分が誹謗中傷する側になっていたかもしれない。)

 高い発射台からたどり着いた今だから、それに感謝し、誹謗中傷する人に対しては、たまたまそれが無かった人として、腹を立てる必要も自分が傷つく必要も無い。(幸せ税金のようなもの。)

 可哀想な人たちである、という処理も切り捨てるようで上から目線なので、誰もが自分のように恵まれたわけでない、という処理をすれば、他人に意味のない誹謗中傷を受けても、心の処理は出来る。(もちろん、物理的な危害を受けたら別であるが。) 

そしてうまく行っている側の方は、何らかの高い発射台から今があることは忘れず、発言はしたほうが良いように思う。(そうでなくても、不幸な人からはコンプレックスを持たれてしまうのだから。)

 その発射台の高さを忘れて、努力や考え方を語っていたりするケースもあるが、明らかに背景が違いすぎていることが忘却されていることも多い。(そして本人はそのたまたまの環境要因よりも自己努力だと認識してしまっている。)

 誹謗中傷が増えたように感じるのはメディアやマスコミも悪いね。幸せなニュースよりも盛り上がるからって。

 幸せな人は、くだらない誹謗中傷などスルーして、どんどん幸せになってるよ。 

富裕層が密かにどんどん増えているように。(経済的に貧しい人もどんどん増えていて、まさに物心両面に2極化が進んでいる。)

 1年だけ実験的に、世界中の幸せなニュース、助け合い、フェアプレー、愛情や優しさに溢れた出来事を中心にメディアが取り上げたらどうなるだろう。 

今みたいに更に不幸に同化していってしまう人が減るのか、逆に現誹謗中傷している人のストレス発散場所が無くなり、別の犯罪行為が増えるのか。 

自分の機嫌は自分で取る 

これができる人は大きいね。

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