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何もしない休日

 日曜日は、映画館や劇場に行くには最高の日だったらしい。

 占いはインチキだけど、見ているのは楽しい。実際外に出ようと思ったが、よくよく考えてみるとこのところ占いが当たったことなどなかった。もし当たっていたとすれば、即死級の出来事がこの数年間かずっと起こり続けていたということだし、むしろ、書いてあることと逆のことをした方が幸運に恵まれるのではないか。そう考えて、日曜は一日中家に籠って何もしなかった。

 朝パスタ、昼カレー、おやつに蕎麦、夜にハンバーガーをしこたま食べるという食欲の権化のようなことしていた。まぁお休みの時くらい食べたいもの食べたって良いと思う。

 外に出ると自然と人々の表情と出会う。幸福そうな表情を見るのは苦痛だ。不幸そうな表情はもっと苦痛だ。人に執着してしまったり、依存してしまう性格なので、人に執着するのを何とかやめたい。バランスを保って人と接していたい。

 加藤周一の『文学とは何か』を読むと、彼は孤独を二つに分けて考えていた。相対的な孤独と絶対的な孤独、つまり対社会からの孤独と非社会の孤独だ。こういうふうに孤独を分けて考えたことはなかった。対社会の孤独はわかるが、非社会の孤独は読んだ当初は抽象的過ぎて理解できなかった。

 ただ、こう考えてみたら理解できた。対社会の孤独は寂しさや悲しさ、怒りや憎しみなどの痛みをもたらし、非社会の孤独は安らぎと平穏をもたらすのではないかと、もっと感じたままにいえば、快と不快の違いを僕は感じた。

 僕の周りの人間は多かれ少なかれ恋人なり家族なり、大切な人間がそばにいる。でも僕はそれがない。得ようとしなかったからだ。こう考えると今自分は対社会的孤独をあらゆる方面から感じており、そのために非社会的孤独を感じられずにいるのかもしれない。

 自分が思ったように、考えたようにふるまうと結局自分一人だけになるのは当たり前だし、実際今そうなっているからそれは仕方ないが、本当にそうなのだろうか。自分というものを形作るためにやっていることが、人を傷つけ、自分を孤立させるものだとしたら、この世は地獄そのものだと思う。

 無意識にせよ、そうでないにせよ、生きている以上誰かを傷つけながら人間は生きている。それに自覚的になるということは、絶えず自分を責めるということであり、僕はその攻撃から嫌でも身を守らないといけない。

疲れるなぁ。早く死ねたらいいのにな。


チョコ棒を買うのに使わせてもらいます('ω')