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ゆうめい「姿」雑感➀ 子の姿 編

 観劇を趣味にしてから、初めて行った劇場は吉祥寺シアターだった。そこで見た演劇は、個人的にはあまり面白くなかったけれど、Twitterでは絶賛されてた。次に行ったのは三鷹の星のホール。ここのは感動したので二回見に行った。Twitterはべつにどうでもいい。

 基本的に近いところにしか行きたくないんですよね。今回の記事はその星のホールで上演された、ゆうめいの「姿」です。見に行った理由は色々ありますが、一番は近いからなんですよね。三鷹市民なので…初めてこの作品を知ったのはチラシからでしたが、異様な無気味さと恐怖・・・もしくは狂気のようなものを感じました。ゆうめいって平仮名なのもそうですが、シンプルな題名で、ちょっとスタイリッシュ気取りかと思えばデザイン的にはどこか懐かしいようなわびた感じがあったりしてほんとうに見るまでどんな感じなのかあらすじを読んでも全くわからないというのが見るまでの印象でした。ちなみにあらすじはこんな感じ。チラシからの引用です。

出世したバリキャリの母。
慕ってきた定年後の父。
別れる。
女と男、妻と夫の今までとこれからのお話。
今のあたりまえ、から、次のあたりまえ。
実話を基に子が脚本を書いて演出し、実父も出演する三鷹でのお芝居。

 母親は役所の職員でオリンピック推進委員。定年退職した父親は舞台やアニメの脚本などの仕事を細々と続ける息子の伝手でyoutuberデビューをする。そのなかで、熟年離婚することが明かされ、物語ははじまる。自分がやりたかったことを我慢してきた半面、息子の希望はすべてかなえた母親は息子のうだつの上がらなさに彼の仕事を否定し、息子との関係は険悪といっていい。そんな母親は、この夫婦は、そしてこの家族はどう生きてきたのかが、子からみて祖父の代までさかのぼって語られる、離婚までとそれからの物語。

と、簡単に説明するとこんな感じ。

 へー、お父さん出演しちゃうのかって思いますよね。家族の物語だ。そんなことを思いながら冒頭でyoutuberお父さんがあんなことになっているとはね……

 まぁそんなことは置いておいて、そうなんです、この話は家族の話なんです。僕の苦手な話題です。僕は家族というのが嫌いです。僕にとって家族にいい思い出は一つもありませんし、そういう家族しか経験してこなかったので。もちろん両親は離婚しています。だからこの作品の子の気持ちにはすんなり感情移入できました。ただ、この歳になると嫌なのが、親の方にも感情移入できちゃうんですよね…ここで僕はこの作品の感想を書きますが、気を付けておいてもらいたいのは、これを書いている人間は、家族に否定的感情を持っているということです。そういう視点で語られるものだということだけは覚えておいてください。

 せっかくこんな境遇ですから、子の視点からこの作品の感想を始めることにしたいと思う、そんな第一回です。

鎹になれない子供たち

 落語の「子別れ」をご存知でしょうか。この「子別れ」は長い演目なので上下に分かれるのですが、その下に「子は鎹(かすがい)」という言葉が出てきます。現在でも慣用句として使われています。意味が分からない人は調べてください。もしくは子別れを聞いて下さい。

 そんな子は鎹を象徴するようなシーンがこの作品には描かれています。子が幼少期に経験した両親の心が離れていく所の描写です。この作品では、二つ分かれた舞台空間があり、それが移動することで実際の距離を表したり、はたまた心の距離を表したりする演出になっています(詳しくは写真がのっているので見るとわかりやすいです)。ちなみに演劇を見慣れていない私にはこの舞台演出はすごく新鮮でした。

 この二つの舞台空間に両親がそれぞれ立ち、心の距離が離れていくにつれてどんどんこの二つの舞台の隙間が開いていきます。部隊の端と端を握って懸命につなぎとめようとするのは、幼少期の子です。腕がちぎれそうになるほど頑張るのですが、ついには離れてしまう。現在の子も(これは祈念としてのイメージであると思いますが)手伝って両親の鎹たろうとする姿は何とも言えませんでした。

 御多分に漏れず僕もその鎹になれなかった子供ですからこのときの気まずい感じは痛いほどわかります。父親と寝ていると、母親が帰ってきて、「挨拶をしろ!」と怒鳴り散らすので寝たふりをするシーンの気まずさなど、あの時の息を殺して喉の奥が焼けるように乾くあの感覚がよみがえってくるようでした。母親と父親の間に寝て、ベッドの隙間に入りたくなる気持ちもわかります。

 あの時お前はそう思ったかもしれないけど、実はね…みたいなことを後から親に聞かされて「ホントかよそれよぉ!」と言ってしまう気持ちもわかります。でも実際ほんとか嘘かなんでどうでもいいんですけどね。子にとっては、母親がいら立った気持ちで布団の中、自分をつねったという事実さえあればよいのです。それが父親と間違ってやったことであったとかはどうでもよいことなのです。少なくとも、その時はね。

 父親は寝たふりをして誰にも助けてもらえない。どっちかにつくとどっちかが怒る。「お前は蝙蝠か!」と怒鳴られたことを思い出しました。ちなみにその時は、いや、俺は蝙蝠じゃないけど…と意味は分かりませんでした。

 今や子供は鎹どころか離婚の理由にされる始末です。子供のために別かれるって言うのですから、あなたは何を言っているのですか?という感じです。うちは僕が大学にいったら別れるといっていましたが、我慢が出来なかったので三年早い高校一年生のときに離婚しました。家をでて母方の実家に行くその日のことは日時まで未だにはっきりと覚えている。その時はもう家の中はひっちゃかめっちゃかでしたから、僕も離婚したほうがいいと思っていました。ここは熟年離婚という作品とはちがうところですね。

 話を戻しましょう。鎹になれなかった子供たちが望むのは家族の平穏なのですが、そんなものが訪れないことにはすぐに気が付きますし、すぐに諦めます。でも心の底では絶えず願っている。どんな犠牲を払ってもよいからと願っている。だがそれは叶うことがないのです。作中で離婚届に判を押して母親が家を出ていくときに子が言う「待って!」というのはその心情の端的な発露と言えるでしょう。

 離婚する家族の中での子供の立ち位置は、つねに被害者です。被害者なのに親を一方的に責めることはできません。なぜなら、この家庭が崩壊した原因の一端が鎹になれなかった自分であることに後に気が付くからです。あまりに理不尽かと思いますが、親が子供を引き合いに出す時点で原因という以外に他はない。

 また、これも象徴的な一場面ですが、子の友人が大学に入学してから間もなく自殺をしたときもその親は「どうしてこうなったのかわからない」と言っていました。この作品の中では、いわゆるディスコミュニケーションが多く描かれていきます。それが親から見た子の「姿」として、子から見た親の「姿」として、そして、私からみた家族の「姿」としてです。なにがどうなっても分かってもらえない。子もわからなければ、親もわからない。何もわからない中で何かが動いたために、この家族も離婚という道をたどったのです。

 さて、それはいったい何なのでしょうか、「自分が嫌だったことをなんで自分の息子にするの!?」という子の叫びと「やりたくてやったんじゃないわよ」という母親のなかに、さらにその中にいた父親のなかにずっと動いていたものは何だったのでしょうか。それが「優しさ」や「思いやり」であると聞いて、皆さんはどう思いますか?今度は親からの視点を見てみればその本質が分かりそうです。なので次回は鎹を打てない親としての作品について書いてみたいと思います。


余談
前に書いた感想を劇団の主宰の方が読んでくださったみたいでちょっとうれしかった最近でした。

チョコ棒を買うのに使わせてもらいます('ω')