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ふと泣きたくなる話

 木漏れ日が娘の頬に落ちたとき、ふと泣きたくなった。
 じいじいと鳴く声をたよりに枝という枝を見つめてセミを探す。伸びた羽に流れる翅脈は木の幹と同化し、生暖かい風に揺られる葉の影がそれを一層見えにくくする。頭上でけたたましく鳴いているのに目を凝らしても見つけられず、10メートルほど離れた場所にいる娘に目をやる。
 昨年買った麦わら帽子を深くかぶり、先ほどの私よりも長く、まっすぐに枝を見上げている。じりじりと焦がされそうな日差しを初夏の葉が遮り、娘のぽうっと赤く色づいた頬や腕に影を落とす。波のように、ああ、懐かしい、昨年も見た光景だ、という気持ちが溢れる。けれどすぐに違う、とも思う。
 昨夏履いていたサンダルはサイズが合わなくなって新調した。1年前はセミの抜け殻集めで下を向いてばかりだったのに、今はセミを捕まえようと上ばかり見ている。昨年買ったけれど扱いきれなかった虫取り網を、今日は軽々振り回している。
「セミ、いた?」
 と聞く私を見上げる瞳がくるりと光を流し、葉の隙間から風に乗る木漏れ日がすうと頬を撫で、輪郭を淡く光らせた。

 ゆらゆらと揺れる4つの炎が娘の瞳に映る。
 ろうそくの火をぶーっと吹き消すのを見て、夫と私でお祝いを伝える。
 明かりをつけると、ネームプレートに書いてある文字をひとつひとつ音にした。ときおり「これなんていうの?」と聞かれながら途切れ途切れに紡がれる声を、目を閉じて聞いた。
 ホールから切り取ったケーキを娘のお皿に置く。私と夫のお皿には、それよりもすこし小さなものにした。
 赤いいちごを頬張ったあと「かかは今、何歳なの?」とたずねる娘に、いつの間にかながったらしくなった数字を伝える。「ととは?」と聞いて、娘は二つの数をゆっくり繰り返す。
「それって、娘ちゃんよりおおきいの?」 
 そうだよと言うと、負けず嫌いな娘は、
「じゃあ娘ちゃんはね、さんじゅうはちじゅう…ななさい!」
 と、ちぐはぐな数を言って得意げな顔をする。「それ、大きすぎて100歳超えてそう」という夫と笑いながら、娘の顎についた白いクリームを手で拭う。気を良くした娘は、椅子のステップに立ち上がる。食べてるときは立ち上がったらだめだよ、という言葉は聞き流され、がたりと椅子が揺れる。
「娘ちゃん、みんなで100さいになっても、ずーっと、とととかかと暮らすんだー」
 大きく手を広げた弾みで、耳にかけていた髪がはらりと落ちる。その髪に触れながら、そっと生えぎわの産毛をなでる。
 4年前、産まれたての娘を胸に抱くと、控えめに逆立った髪の毛が鼻先をくすぐったのを思い出した。今よりも細く、もっと柔らかだったその感覚と、ほのかに甘い香りが目の前にある気がした。
 あの日から娘は、何もかもが違って、何もかもが同じだ。
 もう触れられない過去が、今のあなたからやさしい波になって寄せてくる。波が引いて今のあなたを見たときに、これから先のあなたを、より愛おしく思う。
 ゆるやかに波打ってやさしく頬に落ちている髪を、ちいさな耳にかけた。薄い指の影が頬にうつり、私はまた、泣きたくなるのだ。



Happy 4th birthday.


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