深夜に流れたことばで、私たちは愛を思い出す (#読書の秋2020)

6月1日に書かれたコピー。
そこには、崩れかけていた私たちを、夫婦にしてくれたことばがあった。



薄暗い部屋に、ぼんやりとテレビの光が浮かんでいた。
ソファに座る夫の後ろ頭を見ながらアラビカ種の「ゲイシャ」と名のついたコーヒー豆を挽いた。
銀色のポットから、ツウ、と一本の線を垂らす。
ジジジ、とお湯が吸い込まれ、粉の色を変える。
ジュワジュワ、と小さな音とともに膨らみ始め、甘い匂いが漂う。

全体にお湯を行き渡らせ蒸らす。
手を止めて、円錐型のコーヒーフィルターと、その先の彼を見つめる。
彼は、一向にこちらを見る気配がない。

ぽた。

ぽた。

コーヒーフィルターの先から、茶色い雫がゆっくりと、垂れる。



同じ部屋に暮らしはじめて1年。
共働きで、お互い仕事は忙しい。

買うと言って買われていない日用品。
洗うと言って流し台に置いたままの、ソースがこびりついた食器。
リビングに積み重ねられた未開封の手紙。
部屋の隅に溜まったほこり。
半年後にある結婚式の準備。

大きな事件があったわけではなかった。
ただ、小さな塵が積もり積もって、大きな山となり、ダムが決壊したのだ。
どこにでもある、何の変哲もない、ただの、人と人のすれ違い。



たくさんの話をしながら過ごすはずの時間。
ただ、黙ってコーヒーを飲むだけになって、数日が経った。

それでも、このコーヒーの時間をなくしたくなかった。


きっかり3分。
ふたり分のコーヒーを淹れる。

2人掛けのソファにこぶしひとつ分の隙間を作って座る。

テレビの正面に座ると、チカチカと光が刺さる。
少し離れたキッチンから斜めに見たときは朧げだったのに。
矢のように飛び込んできた光は、私の目の奥をズキズキと揺らす。

左耳に、ズ、と音が聞こえた。

湯気を見て熱そうだなあ、だけど一口飲んでみようと思って、マグカップに口をつけるとやっぱり熱くて、でも飲みたくて、お行儀が悪いと思いつつも、ちょっとだけ、吸い込むように、飲んだ。


そうでしょう?

数日前であれば、笑いながらそう伝えていた。

そして、バツが悪そうにはにかみ、「ばれた?」という彼の顔を、愛おしいなと思いながら見るはずだった。

奮発して買った豆を初めて開けた、少し熱めのコーヒー。
横に添えた、夫が好きなチョコレート。
いつもならピッタリと寄り添っているはずのソファ。

どれも、シンと静まったこの部屋を崩してはくれなかった。
少しだけ、会話の糸口になることを期待していた。

期待なんてするものじゃない。



穏やかなこのひとと共に過ごしたい。
出会って初日にそう思った。
20歳で知り合って、23歳の時に付き合い始めた。

24歳になって、私から、ふたりでともに歩くビジョンを切り出した。

27歳頃、仕事が落ち着く。
その頃、あなたと結婚したい。
だから、あと3年で、考えて欲しい。

あなたは、そもそも結婚をしたいのか。
その相手は私でいいのか。
苗字はどうしたいのか。
結婚式をしたいのか。
その後、子どもを授かりたいのか。
授かりたいのなら、ひとり、ふたり、それ以上か。
もし、授かれないとわかったとき、ふたりで過ごせるか。

お互いの理想をたくさん話し合おう。

そう言うと彼は、圧倒された顔をして頷いた。

あの時の勢いは、どこに行ってしまったのだろう。



熱くて口をつけることができないマグカップを手に、テレビを見る。
音楽も、バラエティの笑い声も、耳に入ってこない。
ただ、映像を流すだけ。

ずん、とした空気の中、軽やかな音楽と、ナレーションが流れる。

上空からどこかの街を映す映像。
風船を持って空を舞う、タキシード姿の男性と、ウエディングドレスの女性。

あ、やだな。

反射的に思った。
何のCMかすぐにわかった。

ああ、いま、見たくなかったなあ。

ナレーションが、軽やかな音楽が、耳に痛い。

左側の肩が、びりっとした気がした。
グレーのマグカップをぎゅっと握る。


結婚しなくても幸せになれるこの時代に、私は、あなたと結婚したいのです


驚いて、顔を上げると、もう白い画面におなじみの社名が浮いていた。


ことばが、勝手に耳に入ってきた。

大きな手で、心臓を掴まれた。

どきどきして、動けなくなった。


走馬灯って、今だっけ。
そう思うくらい、めまぐるしく、彼とふたりでいた記憶が頭を駆け抜ける。
最後に、あの、「3年で考えて欲しい」と伝えた時の顔が、ぽん、と浮かんだ。


横を見ると、彼と目が合う。

彼は、あの時と同じ顔をしていた。



人生は選択でできている。
結婚が、人生の”ひとつの選択肢”でしかない今。
「あえて」結婚という選択をする。

ネットを開くと、街中で飲んでいると、既婚者と話をすると、いつも耳にする。
「結婚すると大変ですよ」
「イライラすることばかりだよ」
「一人の方が気楽だよ」
「同じ部屋に他人がいるのって、気を遣いますよ」

知ってる。
知ってるよ、そんなこと。
現に今だって、そうなっていますよ。


それでも、

旅行で海を見て、
「おじいさんとおばあさんになったら、またここに来たいね」
と、笑う。

一緒に住む家の間取りを見て、
「ベット入れるとぎりぎりじゃん」
と、笑う。

ちょっと良いごはんを食べながら、
「結婚10年ですね」
と遠い未来、ふたりで笑う。

その選択をしたいと思った。

ともに歩いて、たくさん一緒に笑いたいと思ってしまったのだ。

今の時代、ひとりで生きる方法はいくらでもある。

だから、結婚したい理由なんて、「好きだから」としか言いようがない。



なにか言わないと。
何から言おう。
たくさん、伝えないといけないことがある。

迷っているうちに、彼は、私の気持ちを読み取ったかのように笑う。


「このコーヒー、美味しいね」




ライツ社さんの「毎日読みたい365日の広告コピー」読書感想文です。
6月1日のページで、時が止まりました。思い出してちょっと泣いて、そこからずーっとページが進みませんでした。
素敵なコピーを思い出させていただいて、ありがとうございました!



すごくすごく喜びます!うれしいです!