見出し画像

これから求められるスキル。

レンマに関する本を読んだ。

『<あいだ>を開く レンマの地平』(木岡伸夫著)
『邂逅の論理 <縁>の結ぶ世界へ』(木岡伸夫著)
『レンマ学』(中沢新一著)


『<あいだ>を開く』は以前に一度買って、もう一度読み返した。
いや実は、買っていたことを確認せず、3冊一緒にポチッとしてしまった。届いて、2冊目の購入に気づいた。

返品をと頭によぎったが、
  関心のある人がいればプレゼントしようと、置いておくことに。


読み終えて、久々に、思索モードに入った。
これ以上思索そして探究を続けると深みにはまってまずいと思い、
  現実に世界に戻ってきた。
思索モード中に頭によぎったことを綴ろうと、
  一時現実の世界に戻ることにした。


人は宗教に安らぎを求め、そして宗教に怖れもする。
宗教的な思想を話すと、「宗教っぽい」と言って人は距離をとってしまう。
私もそうだった。

自然も同じで、自然に安らぎを求めるとともに、自然に怖れもする。
かつては、自然を畏怖し、自然との間にいい距離を保っていた。
しかしいつからか、自然に対する畏怖を忘れ、傲慢になり、
  距離を狭めて、自然破壊を当たり前のように始めた。
その結果、自然災害という、新しい怖れが私たちに襲ってきた。

不安だから、何かにすがりたくなり、何かを求める。
安心だから、その安心を壊すものに対して、怖れを抱く。


こういう話をすると、「宗教っぽい」「スピリチュアル」などと言われ、
  距離をとられ、煙たがれる。

ある種、今考えている新しいマネジメントの思想も、
  どちらかといえば(本当はどちらもでないのだけれど)、
    宗教っぽく、スピリチュアルで、理想論の話。

「現実を知らない」「見ていない」と言われる。
いや、現実も知っているし、見てもいる。


その前に、知っている、見ている現実がすべてだろうか。

この話をすると多くの人は、「全てではない」という。

では、その知らない見えてないものが何で、
  どうすれば知り見えるのかを考えたことはあるだろうか。

こういう話をすると、またまた「宗教くさい」(ぽいではなく)、
  「胡散臭い」と言われるのだろう。

堂々巡りの始まりに陥ってしまう。


不安なものを可視化するとは、実に難しく、興味深く、面白い。

「距離を取られずに、距離を狭め、あいだを行き来する。」

これが、いろいろな意味で、これから求められるスキルかもしれない。
このことが、レンマに書かれている。

ぜひ、気になる人は手に取ってほしい。
目次をみて何かを感じたら、読んでほしい。


ちなみに最近思うのは、中間にいることの大切さ。

極端に、右や左、理性や感性などの対立が起こっている。
対立が起こるほど、激しくなるほど、
  越えられない(正しくは、越えようとしない)境界が生まれる。

今までは、中間にいると「どっちつかず」「意見がない」と言われてきた。
こう書いている私も、かつてはそう言ってきた一人。

しかし今、間にいることで、中間の大切さがよくわかる。
実は、どっちつかずではなく、どちらの考えもわかっている。
だから、対立している場所に、中間な人がいることが大切になってくる。

よく、中間のいる人は何もできないと思い悩む。
でも、想う。

何ができるかではなく、その存在こそが大切であると。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?