歌い手がCDを出す事はとても難しかった

今でこそ変わったが、初期当時の「ボカロP」というカテゴリに対するイメージというか雲の層は非常に厚く、特に「歌い手」と「奏者」にとってはその存在をとても手の届かない所におられる方々のような気持ちで見ていた。「0から1を作り出す」ことができるボカロPは崇高だったのだ。

まさに空気の読み合いを重ねている状態で、その間に奏者という多少ニュートラルなカテゴリが浮かんでいるような感じだった。どんなことにおいても「何が正解なのか」を知るすべがない状態。「ボカロ曲をライブで歌って良いのか?」「ボカロ曲を歌ってCDに入れていいのか?」これらは全くの「謎」だったし、聞いて良いのかもわからなかった。

この理由は後の歴史で徐々にわかっていくのだが、結局「ボカロ曲がJASRACに登録されていなかった」ことが大きな原因だったと思う。ある日、とあるボカロPが「自分たちの楽曲をJASRAC登録しよう」と言い出した。JASRACに楽曲を登録する際に「ライブで使って良いか悪いか」や「CDに収録して良いか悪いか」も一緒に提出するから、いちいちボカロPに煩雑なメールが届くこともなくなるのだ。しかしこの動きは賛否両論を呼んでいた。なぜなら「趣味で作ってるものでお金稼ごうとしてるの?」と主張する一派がまだ居たからだ(初めてライブを開催するときの悩みのタネはこれだった)。しかし、複数のボカロPの作品がついに「えいやっ」とJASRAC登録されたことで、少しずつ霧のようなものが晴れていったような感覚がした。(追記:もしかしたら「Twitter」のように、相互に連絡を取り合えるツールが当時まだなかったからこそこういう「連絡してよいのか悪いのかの雰囲気」があったのかと思った。)

そんな事が起きる前だからこそなおさら「歌ってみたのCD」を出すことはとても難しいことで、誰しもが怖がっていた。その昔、とある企業から「歌ってみたのCDを出してみたい」と打診が来たことがあり、僕はまだマンションの一室だったその会社に呼ばれ「君はこの界隈に明るいようだけど、歌ってみたの人たちを集めてCDを出すためにはどうすればいい?」と聞かれた。僕はその時「僕がそれを主導したら、確実にこの界隈から干されてしまいます…」と答えてお断りしたところ、いつのまにかその会社の方々から嫌われてしまった。企業が主導するならまだしも、一投稿主である自分が動いていたとバレたら、炎上してしまう時代だったのだ。結局その会社は歌ってみたのCDを企業で出版してとりあえずの成功を収めるのだが、その会社に所属している方のライブにお伺いして、関係者に挨拶をしても誰も目も合わせてくれなくなってしまったのがきつかった。その後、この会社から別の会社へと移動した仲の良い友人から聞いた所によると…まだ少し物議を醸すかもしれないのでここでは言及を避けておく。

安心していただきたいのは、その会社はその後色々と社内組織も社名も一新され、8年後、大きなビルになった状態で僕は別の仕事を頂くようになった。「御社のドアをもう一度くぐれるなんて嬉しいです」と担当さんに言ったが、不思議そうな顔をしていた。

そんな時代だったからこそ、初めて「歌ってみた」のCDが「同人で」出された時の界隈の驚きは大きかった。「これからこれが普通になるんだ」と、時代の移り変わりを感じる出来事だった。「歌ってみたの同人CDが出るんだって」というニュースを聞いて、当時の開催地だった大田区の産業プラザという所に足を運び(たしかその時はゴムさんのCDをもらった)、帰りに餃子を食べた思い出がある。

その後、どんどんと同人即売会に歌い手やボカロPが出てCDを頒布することが増えてきたし、ボカロPと歌い手の共同作業のようなものも行われるようになってきたのだが、あの辺りでほんとうに沢山の人と知り合ったと思う。

去年、酩酊状態で僕の自宅に現れたハチさん…つまり米津玄師さんに「あれ?最初に会ったのっていつでしたっけ」と聞かれ「むか〜しの即売会で!」と答えたのだが、その後朝まで眠ってしまったので多分もう覚えていないだろう。「飲もうよ」とwowakaさんに連絡すると一緒に米津さんが現れ、逆に米津さんを呼ぶとwowakaさんもついてくる。そのくらい仲の良い二人だった。

僕の去年の「泣きおさめ」は、米津さんが紅白に出たのを見た時。今年の「泣きぞめ」は、wowakaさんの急逝の知らせを受けた時だった。

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