被支配欲

 ただ生きているだけでよかった。生きてさえいれば、特に何もいらなかった。

 だから巣の手入れを怠ることはなかったし、餌になる虫を捕まえることにも何の疑問を抱かなかった。欲しいものもないし、夢も希望もない。強いて言うならば、天敵に見つからなければそれでいい。同じ大半の生き物もそうやって生きていると思っていた。

 大抵の餌は捕食する前に命乞いをしてきた。巣を揺らし、もがき、「助けてくれ」と懇願した。生き延びたいと思うのが生きているものの摂理だと思うが、これを仕留めるのもまた摂理だった。同じ作業を繰り返し、そうやってただ生きていた。

 

 ある日、一匹の蝶が巣にかかった。いつも通り、巣の破壊を最小限に抑えるため手早く獲物の動きを止めようとした。しかしその蝶は他の獲物と違い、逃げようともがく様子はなかった。それどころか、じっとこちらを見つめてこう言った。

「あたしを、支配してくださいませ」

 あまりのことに呆気にとられていると、蝶は続けた。

「あたしは、今まで自由すぎたのです。どうかあたしを蹂躙してください」

 理解の度を越えていた。支配とは? 支配をするとはどういうことなのか? 命乞いの意味ならわかったが、蝶が真に求める行為が何であるのかはわからなかった。

「どうかお願いです。今すぐ私を縛って、命を奪ってください」

 ただ理解できたのは、この蝶にすぐとどめを刺すのは癪だということだけだった。

「それほどまでに支配されたいなら、しばらくそこでそうしていろ」
「どうして、すぐ縛ってくれないのですか!?」
「それをお前が望んでいないから」

 蝶は微動だにせず、こちらを見ている。巣をいたずらに壊される恐れはなさそうだ。

それから一度、暗くなって明るくなった。


「お願いです、私を支配してください」

 蝶の懇願はずっと続いていた。動いて巣を壊すことはなかったが、うるさいことこの上ない。

「そんなに支配されたいのであれば、仕方がない」

 蝶を黙らせるために、蝶へ近づき羽根に手をかけた。

「ああ、ついに縛ってくださるのですね」
「その前に、その羽根が邪魔だ」

 一息に羽根を引きちぎった。蝶は暴れ、巣が少し壊れた。暴れる蝶を押さえつけ、今度こそしっかりと縛り上げた、

「あぁ……あぁ……ありがとうございます。さぁ命を」
「それはしない。それを望んでいないから」
「なぜ望んでいないとわかるのですか」
「お前が支配されたがっているから」

 不要になった両羽と縛られた蝶をそのままに、また暗くなって明るくなった。


「あれから三夜が過ぎました。なぜあなたは私の命を取らないのですか」

 縛られたまま、蝶は弱っていたがまだしっかりとした口をきいた。

「お前が望んでいることだから」
「だから何故ですか?」
「支配とは、そのようなものだろう。思い通りにいかないこと、それが不自由で支配だ」

 できれば蝶が観念するのを待ちたいところであった。命乞いをしないものの命をとることは、生きものの摂理に反している気がしたからだ。この不自然な蝶をいつまでもこのままにしておくわけにはいかないが、それ以上に今この蝶の命を取ることは面白くないことだった。


 それから三夜の間、蝶は自分がどのように素晴らしい生き方をしてきたかを語った。生まれてすぐ食べた葉の味、天敵から逃げおおせた話、さなぎになっている間憧れた外の世界と実際に飛び回った世界。甘い花の蜜を吸い、美しいオスと出会い、卵を産んだ話など、その羽根をもがれた醜悪な塊からは想像もできないようなことをたくさん語った。

「それで、それは素晴らしいことではなかったのか?」
「ええ、すべてが美しかったわ。でも、それは本当の美しさじゃなかった」
「本当の美しさとは?」
「あたしの思うままでない、そんなあたしがいればそれが本当のあたしになるの」

 くだらない、と思う反面哀れに思えた。そしてそんな愚かしい行為に付き合っていること自体も哀れだった。


 さらに二夜が経過した。蝶がかかっているせいで、ほかの獲物がかからない。次第に飢えへの限界が襲ってきた。

「さぁ早く、あたしを食べてください」

 弱々しく蝶がつぶやいた。

「しかし、お前は支配されたがっている」
「支配してくださるあなたがいなければ、あたしは……」

 その頃、なぜ生き物は獲物をすぐ仕留めるのかを理解していた。情というものが生まれるからだ。この飢えは生きものの摂理に背いた罰だ。

「ならば、食う」

 ふらつく思考を携えて、蝶へ近づく。

「これで、あたしは誠に自由になれるんですね……」

 渇望した死への喜びが蝶を満たしていた。

「これで支配されるとやらが達成されるならな」

縛られた蝶の胸へ顎を突き立てようとした刹那、蝶が激しく動いた。

「いやっ」
「どうした、死にたかったのではないか?」
「やっぱり、死は……恐ろしい」
「今頃命乞いか」
「お願いです、あたしを……どうか……」

 蝶の言葉を最後まで聞かず、構わず頭を押さえつけ、胸へ顎を突き立てた。

「お願いですから、どうか!」

 その悲鳴は、蝶の羽よりも美しかった。

「何故、今更おれに支配されることを拒む!?」

 蝶の抗いはしばらく続いた。弱った虫などうまくもなんともなかったが、悲鳴の中に甘美な味を感じていた。

「これが、お前の言う『美しい』か!? 支配されるとは、それほどまでに美しかったか!?」

 もう動かなくなった蝶を地面へ捨てた。羽根も捨てた。壊れた巣を直して、元通りの日々が始まるはずだった。


 しばらくして、一匹のミツバチが巣にかかった。巣から逃れようと必死でもがいたせいで、巣の半分が壊れてしまった。

「ああ、どうか命だけは」

 ミツバチをとらえると、生きものらしくミツバチは命乞いをした。

「お前も生きたいと思うのか?」
「当たり前ですよ、まだ死にたくないんです!」
「そうか」

 一思いに殺さず、わざと急所をそらす。ミツバチは激しくもがいた。

「支配されたい、とはどういう気持ちなんだ?」
「知らない! お願いだから、許して……」

 やがてしばらくもがいていたミツバチは動かなくなった。

「あの感情は、一体どうすれば起こるものなんだ?」



 蜘蛛は支配されたいという気持ちに完全に支配されてしまった。あの蝶を支配していたのはおれではない。おれがあの蝶に今後一生を支配されてしまったのだ。



<この作品は過去に自身のHPで公開していたものです>

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