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「人脈をつくりたい」と思っている社会的にイキりたがるキミへ

結論:「もらうより人」から「あたえる人」になりましょう

ゼロ高という尖ったコミュニティを運営していると、面白い若者に出会うことができて、とてもありがたいです。そんな中、私が最近感じる「あやうい若者」について、小話を少し。

まず若い人たちが置かれている社会の背景について。

昭和の余白だらけの時代から、令和の余白なき時代へ

昭和という時代は、若い人たちのありあまるチカラを、破壊的行為や、わかりやすい非行で解消する余白が社会には残されていました。
TVや雑誌などのメディアも、合法なのか違法なのかがわからないものが少なくありませんでした。

経済成長を第一優先として、人としての豊かさや、家族の時間を置いてきてしまった我が国においては、若い人たちは非常に生きづらい環境にあります。

わたしたち大人は、若い人たちの居場所、未就学から高校生までの居場所をことごとく奪ってきました。特に都会では、公園でのボール遊び禁止からはじまり、共働きで家族が共にする時間は少なく、遊ぶことは経済消費が必須になり「なにか遊ぶためにはお金を払わなければならない」状況が生まれました。
社会的にも清廉潔白であろうとしすぎて社会的にも、家族にも、心にも余白がなくなっていき、今なお、若い人たちから社会的豊かさを学ぶ機会をことごとく奪っています。その代わりとして、ちょっと前までのYouTubeに危なっかしさ、昭和的ノリを感じるのは、若い人たちの余白を求めていった結果だとわたしは理解しています。

そうして若い人たちのパワーの一部は、社会へと向かっていきました。

昭和っぽい「非行的イキがり」から令和っぽい「社会的イキがり」への変化

学生でありながら、イベントを運営している、起業をしている、お金を稼いでいる、色んな若い人たちと出会います。

家庭の経済状況を上手く使う育ちの良い若い人たち、自分の置かれた環境から這い上がっていく若い人たち、色々な面白い方若い人たちがいる一方、少し残念な感じになってしまっている若い人ともたまに会います。

わかりやすい例で言うと、昭和の時代は「地元の誰それ先輩を知ってる」がイキがりが社会的に「誰それ社長を知っている」とアピールしてくる人です。聞いていないのにアピールしてくる人にろくな人はいません。いままでもこれからもいないでしょう。

なぜか?だって他の人の話をするためにあなたと話しているんじゃあないんですよ。あなたが何をしているのか?何をしたいのかを聞きたいんですから。いつもそういうツッコミをしています。気付いてほしいので。

それと同じように、「このイベントに参加すると人脈づくりが」「人脈をつくりたくてゼロ高に」という話もたまに聞きますが、「人脈」という単語を使う人にろくな人はいません。いままでも、これからもいないでしょう。

総じてわたしは「知ってますアピールマン」や「人脈マン」を「社会的イキり」と評していますが、簡単に何が悪いかを最後にまとめます。

不誠実さが漏れちゃってます

言語化が難しいのですが、そういう人は総じてダサい。なにがダサいのか細かくはわからないけどなんかダサい。

そしてこれが1番致命的なのですが、ヒトをモノとしてカウントしちゃっています感が出てしまっているので、「私はヒトをモノやカズとしてカウントしちゃう不誠実な人間です」とわざわざアピールするようなものです。

年長者に対してはいつも「二度と近づかないでおこう。南無阿弥陀仏」と一瞬でも早くその人から退散しますが、若い人は、もしかしたら聞く耳持ってくれるかもしれないからと、きちんと伝えることをしています。

人脈をつくりたいと思っている君へ

君が与える人になれれば、仲間は自ずと増えていくよ。
まずは自分が誰かに何ができるだろうということを考えよう。

わたしもそんな偉そうなことを書いているけど、全然できてはいないよ。一緒に少しでもできるようになれればいいよね。

ほんの少しだけ、誰かのために。



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