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サッカーは「出し物」であるという話

繰り返される「戦術クラスタ」あれこれ

どうも、ゼロファジです。

先日こんなツイートを見かけました。どうやらこのツイートを起点にしてtwitter上では「戦術クラスタ」をめぐって再びあれやこれやと意見が飛び交っていたようで、その流れにちょいと乗り遅れた自分は興味深く眺めていました。で、この「戦術クラスタ」という言葉。これっていわゆるネットスラングみたいなもので明確な定義とかはないんですね。

「クラスタ」というのは集団・群れという意味ですから、「戦術クラスタ」というと「戦術や分析的なことに関心を持っている人たち」くらいのイメージでとらえるといいのかもしれません。

このツイート主の山田さんはそうした「”戦術クラスタ”の人たちが言っていることっていうのは机上の空論に過ぎないんだ」とかなりいら立っているわけなんですが、これについて結構反感を持つ人が多かったようです。

「日本人は~」とか「男は~」とか、主語が大きすぎるとそれぞれの違いを無視して一方的に決めつけてしまうという問題が起きます。この手の「主語大きい問題」はいろんなところで起きまくっていて、この場合「戦術クラスタ」とひとくくりにしても当てはまる人もいれば当てはまらない人もかなりいます。ですから、くくりとしてはかなり大雑把な印象はぬぐえませんでした。

先ほど再び意見が飛び交っていたといいましたけども、

まーーーくり返し話題になっては燃え上がること燃え上がること。それくらい主語大きい問題は繰り返されやすく、無用な摩擦を生みやすいんですよね。こんなん防ぐの無理っすよ絶対に。おそらく今後も同じようなことがくり返し起きてその都度話題にあがることでしょう。

変えられないことは変えようとしないことが吉。

自分はその「主語大きい問題」の話とは別に、語りたいことがあります。

それは、サッカーは出し物であるということです。

サッカーは出し物である

おおよそ人の目に触れるものは他人から評価されたり、批判されたり、批評されたりすることを避けられません。たとえば、容姿とかどうでしょう?

「あの人美人だよね」

「あの人見た目パッとしないね」

とか。

自分たちが普段楽しんでいるいろんな作品だってそうです。小説。映画。マンガ。TV番組。YouTube。ブログなどなど。

「あの作品はおもしろい」

「あの作品は〇〇だからいまいちだよね~」とか。

自分が書いている文章だって、

「ゼロファジいいこというやん」という人もいれば、

「ゼロファジの頭の中はこの程度なのか」という人もいるでしょう。

他人の目に触れるものは誰かから好き勝手に言われる運命にあるといっても過言じゃないでしょう。面と向かってじゃなければ心理的なハードルが下がって人間好き勝手なことを言えちゃうもんです。もし人前でなにかをやろうというのであれば、こうしたことからは決して避けては通れないと言ってよいでしょう。なにかやるというならなにか言われる覚悟が必要なのです。それがないなら黙っておくしかない。

これって、サッカーの試合も同じですよね。

監督や選手がどう考えて、どう準備して、どう行動してるのか?とか。中の人なみに理解することは外野のファン・サポーターには不可能ですよ。だから、作り手(中の人)が思ってもいないようなことを受け手(ファン・サポーター)考えたり言ったりします。それこそ「机上の空論」が飛び交わないはずがないんですよね。素人なんだから。

声高に「表現の自由」だのなんだの言うつもりはないですが、自分の目に映ったものについてあれやこれやと発言すること自体がけっこう重要な楽しみ方だと自分は思っています。というか、それなくなったら何が楽しいの?ってなっちゃう。そう思いません?

ファン・サポーターの振る舞いにも限度はあります。行き過ぎた言動はよくありませんが、ちゃんとその辺わきまえたうえで存分に「机上の空論」を楽しもうではないか!と強く思う
。そういう遊びバカにできないと思いますよ。きっとそんな遊びも大河の一滴になってこの国のサッカー文化の大きな流れに注がれていくんじゃないかなぁと。

どんな仕事も理解されないストレスからは逃れられない

この山田さんのイラ立ちを目にした時に一番に浮かんだのはこういうことでした。

自分も今の会社に勤めて13年になります。その間数えきれないほどのお客様と対面してきたわけですが、正直「この人、お客さんなのにこっち(中の人)のことスゲーーわかってくれてる!あなたが神か」みたいなことなんてほとんどないっすよ。たまにそういう感触のお客さんがいるとだいたい同業者だったり、元同業者だったり、ようは中の人の世界観・バックグラウンドが見える人だったりするんですよね。

つまり、ほとんどすべてのお客さんはこっちのことなんてさっぱりわかってなくて見当違いなことを平気で言うんです。できもしないことを「どうしてできないの?」と言われたり。受け付けてないことを「やってよ」って言われたり。でも、「いや、無理なんだって!どうしてそれがわかんないの?あんたいっぺんやってみろよ!」とはなんないじゃないですか。だって、それが仕事なんだもん。そういうもんでしょう?

ですから、山田さんは普段どういう人に向けて試合を見せてる人なのだろう?と。もしかしたら仕事にされている方じゃないのかもしれませんが、まあ、ちょっと、他人は好き勝手にいうもんなんだなあと諦めてスタンスを変えてみてほしいなあと思いました。

SNSが生む不幸なマッチング

最後に余談をひとつ。

今回の山田さんの発言とそれに対するリアクションって、おそらくネットなければ、もっと言えば拡散性の高いSNSがなければきっとひっそりつぶやかれてほとんど他人の目に触れることなく過ぎ去っていくようなことだっただろうなあと思うんですよ。

何が言いたいのか?というと、SNSは出会わなくていい集団と集団を結びつける「不幸なマッチング」がしばしば起きるところだということです。

山田さんーーー山田さんをイラつかせた集団。

そして、

山田さんーーー山田さんの発言を見てイラだった集団。

登場人物は3つに分かれるわけですが、もしSNSがなければこの3者が一つのトピックで結び付けられることはたぶんなかったんじゃないかなと思うのです。

そうすると山田さんがイラつくこともなかった。

山田さんが「主語大きい問題」を引き起こすこともなかった。

山田さんにイラつく人も出てこなかった。

SNSの不幸なマッチングが一連の流れを引き起こしたんじゃね?というのはちょっと注意しておく必要があるなと思います。

ファン・サポーター。監督・コーチ。選手。JFAの人。報道の人。サッカーにはいろんな立場の人がいますけども、それぞれがそれぞれのムラの中の人にとどまっていて、ムラとムラを横断するようなタイプの人がとても少ないなと感じています。

ですから、知らない世界のことは全然知らない。監督・コーチにサポーターの気持ちはわからない。逆にサポーターは現場のことをさっぱりしらないとかね。

ですから知識とかバックグラウンドの違うものがサッカーとSNSの魔力によって結び付けられているんだと認識しておくのが今の時代すごく大事。

なのかもしれませんね。

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