<禅語:処処全真(しょしょぜんしん)>この世は鈍感になって生きるくらいがちょうどいい
いつもお読みいただき、ありがとうございます🙏✨
タカミチです。
「自分が許せない」と、思うことがありますか?
人は次のようなことで自分自身が嫌いになり、自暴自棄になってしまうことがあります。
対人関係が上手くいかない
勉強や運動が出来ない
ものごとが上手く進められない
容姿や自分の身体的特徴が嫌い
天邪鬼で、心がねじ曲がっていると感じる
欲しいモノが何も手に入らない
これらにより自分自身を追い詰め、傷つけてしまうようであれば、立ち止まって心を見つめ直す必要があるでしょう。
「”それ”は、本当に自分自身を嫌いになるような要素なのか?」
この問いかけで冷静さを取り戻せるなら良いですが、ほとんどの場合はこの問いかけで腑に落ちることは無いと思います。
自分に対する強い不快感を内観するだけで取り除くは、なかなか難しいことです。
内観だけで解決出来るようになるためには、多くの「自分のここが嫌い」という劣等感と向き合い、克服する経験が必要になると感じます。
では、どうすれば良いのでしょうか?
それは、「完璧主義を放棄する」ということだと感じます。
現代の唯物社会は優性思想が根底にありますので、人々に対して「完璧であること」を求め、一定の基準に満たない人を”負け組”とします。
だから、誰もが”負け組”になりたくないと焦燥感を感じ、社会の求める一定の基準を満たせない場合に自己嫌悪する構図があるわけです。
「そういう社会なんだからしょうがない」と諦めてしまわずに、この社会の構図を俯瞰の視点から眺めてみましょう。
自分の心の持ちようで、この滑稽な社会とうまく距離を取りながら付き合う事ができるようになります。
それは、普段から”意識するか、しないか”、の違いにより、心の在りようを徐々に変えて行くことが出来ます。
受験生や就活生などで、「完璧にやろうとするのを放棄するなんて出来ない!」という方も居るでしょう。
それは、ケースバイケースです。受かるために最大限努力をしようとする姿勢は大切ですが、「自分を追い詰めない方法を選択する」ことは重要になります。
「精一杯やるけど、受からなければそれはそれでしょうがない」とリラックスし、心を乱さずに落ち着いて、出来ることに集中する方がより効率的だと感じます。
ここまでは理想論で書いていますが、そうは簡単に行かないのが人の心の難しさですね😅
簡単に自分を認められない、好きになれないから、人生は苦しいことが多いのでしょう。
実際に、人のドロドロとした感情には、あらゆる複合的な負の要素が積み重なって、複雑に絡み合って形成されています。
これを何らかの方法で解きほぐしてあげないと、心はスッキリしないわけですね。
これは精神の成長のための試練でもありますので、個々人で地道に、前向きな気持ちで、人の話や本などから新たな気づきを得て解決していくしかありません。
その一方で、全ての悩みに共通する、参考になる考え方が禅語「処処全真(しょしょぜんしん)」にあります。その意味は、、、
「成功も、失敗も、体験する全てのことに真実があり、真理が隠れている」
もっと分かりやすく砕いて言えば
「体験する全てのことに意味があるのだから、そのひとつひとつを他人と比較して一喜一憂せず、ありがたい事としてゆっくりと過ごしていけばいい。人生に生き急ぐことも、何かをしないといけないという事もない。今のあなたの出来る範囲で、周りの人と心健やかに生きるのが人生の真理である」
ということになります。
現代社会では、「成功しなければ幸せではない」という間違ったメッセージが浸透していますので、上述のような幸せの本質に辿り着けずに、苦しんでいる人が多い社会です。
以前読んだ記事で、韓国では”N放世代”という言葉が社会問題になっていました。
「恋愛、結婚、出産」を諦める”三放世代”という言葉が2011年に登場して以降、”七放世代”まで登場していましたが、コロナ禍以降、ついに人生の生きること以外の全てのコトを諦める”N放世代”が登場した、ということです。
韓国の受験戦争、就活戦争が日本の比ではないのは周知のとおりですが、韓国では「勝ち組になることがすべて」という認識が異常なほど高いです。
そのため、全てに敗れ去り、全てをあきらめざるを得ない”N放世代”が登場したようですが、僕はこれを見て「こうした人はむしろ、意識の転換次第で一発逆転、幸せになるチャンスでは?」と思いました。
本人は、社会に敗れ去って地獄のような苦しみの最中に居るかも知れませんが、観方を変えれば「歪み切った、異常な資本主義社会から強制ドロップアウトできた」ということになります。
陰陽の両極は入れ替わることが常であり、宇宙の法則です。
今は何も持たない人が、持たないことが幸せである、ということに気づくことは、老子の説く「弱の強に勝ち、柔の剛に勝つは、天下知らざる莫きも、能く行なう莫し」そのままであり、弱(貧者)は観方によっては強(富者)に勝つ、ということです。
別に学歴なんてなくても、大企業に就職しなくても、結婚は出来ますし、幸せになれます。
極論すれば、彼女と一緒にフルタイムのアルバイトをすれば、30万円くらいにはなりますし、分不相応な贅沢をしなければ結婚して子供も育てられますし、贅沢をしている上流階級よりも幸せになることも普通に可能です。
僕の家庭がそうなので、間違いありません笑(お小遣いなんて存在しません🤣)
その意識をパートナーと共有しようと努力できるかどうか、その視点を持てるかどうか、というだけの問題なのです。
もちろん、恋愛や結婚が幸せの全てではありませんので、”おひとり様”での幸せの追求の仕方もさほど変わらないと感じます。
それを「出来ない!」、「諦めるしかない!」と絶望している理由は、物質社会に依存し過ぎていて、理想が高すぎるせいだと感じます。
社会から誤った理想、思想を押し付けられていることに、少しでも気づくことが出来れば、幸せの観方も大きく変わってくるだろうと思います。
こうした方向に進めば、「この物質社会で幸せになるためには、そうした社会に対して鈍感になった方が良い」と感じ始めることでしょう。
そして、物質に対して鈍感になる一方、精神性に対しては研ぎ澄まされ、敏感になって行くことを感じるかも知れません。
僕は、そこに真の自由があると感じています。
でも最近、そうした魔境から抜け出している人は増えているなぁ、と感じています。(さっきもそういうブロガー見つけました)
健全な心を取り戻す人々が増えていけば、それは誤った社会の在り方を変えていくことでしょう。
ひとつ念押ししておきたいのは、「物質的に富めることがいけない」、「清貧であれ」と言っているわけではありません。
ただ、一度「足るを知る」という清貧の何たるかを体験してから、経済的なゆとりを目指して努力をする人は、間違ったお金の使い方はしないでしょう。お金をうまく”他者の幸せ”に変えます。
少しでも、参考になりましたら嬉しいです😌
あなたの心に、常に太陽が在る事を祈りつつ。。。
明日も善い一日となりますように😊