仏教と否認の心理学

 「否認」で検索すると「事実として認めないこと。承認しないこと。」と出てきた。仏教の救いとは「事実を事実として認めること」だと思う。

 瞑想を始めようと思っている友人に「自分には老いに対する恐怖があるが、その恐怖がなくなるのが怖い」と言われた。よく分からなかった。老いとは事実なのだから、「受け入れる」か「否認」するしかない。

 仏教の四聖諦の一つ目は「苦」だが、この「苦」という真理は「苦しみなさい」ということではなく「苦しみを知り尽くしなさい」という意味だ。苦しみを知ることによって、苦しみに対処する方法も分かる。

 「自分には問題がない」と言いながら苦しみ続けているメンヘラの友人がたくさんいる。セックス依存症の友人の例で言うと「自分はセックスが好きだからやっているだけ。何股しても人の勝手。精神科に行って何が変わるのか分からない。死にたいのは絶対に治らない」とか言われる。母親との間の確執が精神を破壊しているのは傍から見て明らかなんだけれど、絶対に認めない。こういうのはタイミングだろうからもう何も言わないけれど、人間は問題から逃避することがあると思う。

 お釈迦様が「否認」として挙げた例は「生老病死」「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五蘊盛苦」だが、これらは見事にみんな否認していると思う。自分は老いないと思っているし、ずっと健康だと思っているし、死なないと思っているし、家族や恋人とずっと一緒だと思っている。
 
 僕は「結局死ぬのだから生きていても仕方がない」というテーマで勉強をしていたのだが、母親からは「そんなこと考えても仕方がない」と言われた。母親は癌になって「〇〇みたいにたくさん勉強しておけばよかった」と言っていた。死って容赦なかった。

 僕は「結局死ぬのにそれを無視して生きるのは現実逃避だ」とずっと思っていたけれど、17歳の頃に読んだ本に、昔の偉い人が全く同じことを書いていて凄く嬉しかった。

ここに幾人かの人が鎖につながれているのを想像しよう。みな死刑を宣告されている。そのなかの何人かが毎日他の人たちの目の前で殺されていく。残った者は、自分たちの運命もその仲間たちと同じであることを悟り、悲しみと絶望とのうちに互いに顔を見合わせながら、自分の番がくるのを待っている。 これが人間の状態を描いた図なのである。

パンセ

 他の人の場合は分からないが、僕は瞑想をしていると、トラウマ的な記憶や、強く執着している見解が頭の中を吹き荒れることがある。昨日は「結局みんな死ぬのだから何もかも虚しい」という僕がずっと考えていた見解の「根っこ」が無意識から出てきたみたいだった。思考というのは観察していれば基本的に消えるが、この思考は「釈迦も結局死ぬと言ってるじゃないか、これは真理だ」としつこかった。嫌な感情と共に反復される思考を見ていると「こんなことを考える必要があるのか」と気づき、その瞬間に手放せた。考えるだけ「鬱陶しい」だけだった。

 お釈迦様が「苦」を第一の真理に持ってきたのは「否認をやめなさい」と言いたかったのだと思う。「現実をちゃんと見なさい」と。
 瞑想をしている時に、保育園時代のことや病院時代のことを思い出したが、抑圧していたと思う。意識にのぼらないようにしていた。心の傷や、現実の苦しみを認め、許すことで楽になると思う

けれどもとし子の死んだことならば
いまわたくしがそれを夢でないと考へて
あたらしくぎくつとしなければならないほどの
あんまりひどいげんじつなのだ
感ずることのあまり新鮮にすぎるとき
それをがいねん化することは
きちがひにならないための
生物体の一つの自衛作用だけれども
いつでもまもつてばかりゐてはいけない

春と修羅
宮沢賢治

 


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