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【紀行】亀居城跡(大竹市)

試乗車に乗って大竹まで遠出。
本来なら、ここは春先桜の時期に夜桜見物旁々、工場夜景撮影の場所。

自宅から一時間圏内、高速道路も込みで考えると「亀居城あたりがいちばん望ましい」と思い。訪れてみると…なんと、夏草ぼーぼー。

この夏は沢山雨が降ったのでそれもありなのね。

慶長五年(1600年)関ヶ原の合戦に敗れた西軍の盟主毛利輝元は、領国八カ国の内、防長二ヶ国を与えられ、その本城広島を去り、東軍に味方した豊臣恩顧の武将福島正則が芸備二ヶ国を与えられて、そのあとに入りました。

広島に入った正則は直ちに領国の経営に乗り出す一方、小方・三次・東城・三原・神辺・鞆に支城を置いて守りを固めました。

このとき小方の城将には甥の福島伯耆(一万石)を配備して、慶長八年(1603年)から築城をはじめました。

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築城遺構は大竹市教育委員会ならびに、地元大学研究者の提唱からはじめられ。石垣の復元と憩いの場所となるべく「亀居公園」として後々の利用用途も勘案されて進められたと聞きます。

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公園利用ということで、屋外用舞台(これは春先に神楽団とか来てイベントを行うための舞台と思われます)なんぞもあったり。

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で。公園造成とは別に…刻印された石垣の石組みを復元し、場内遺構(「丸」と呼ばれる城郭櫓跡)が比定されてゆきます。

海に面したこの城の規模は面積十町歩(992㌃)周囲十八町(1960㍍)。

山頂に本丸。これに二の丸・三の丸・有の丸・なしの丸・松の丸・名古屋丸・捨の丸・の八台が続き、本丸と有の丸の横に詰の丸、その下に鐘の丸・妙見丸があって、合計11台よりなります、

また海に面しない部分の周囲には新町川の流水や海水を導入した堀や、から堀が掘りめぐらされていたと言われています。この城が亀居城と称されたのは、城地が亀の伏した形に似ていたことに由来します。

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築城に際しては、水野次郎右衛門が総奉行、片尻飛騨が大工棟梁として指揮にあたりました。

五年の歳月を経た慶長十三年(1608年)にこの城は完成しましたが、不幸にして城将福島伯耆は完成の前年他界したので、これに代わって守将山田小右衛門、森佐助の両名が兵を率いて入城しました。

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山田小右衛門・森佐助ともネットで検索する限りはめぼしいものも見当たらず。福島正則配下ということで…森蘭丸はじめとする森家の名だたる血統か?と考えたりもしましたが。

美濃出自の森家傍流、というところでしょうか。いずれにせよ史料に出てくるのは「亀居城を任された正則配下の武将」としてのみです。

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綿毛を見ると吹いてみたくなるわけですが。今より更にこの子供達がボーボー生えてくるのもどうかと思い。そっとしておきました。

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本丸前にある展望台からは大竹市内の工場が見えます。これ。昼間はなんともさえない工場景色なんですけど…。

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夜ともなれば…この通り。工場の灯りがなんとも云えずフォトジェニックでございます。

かくして亀居城は広島本城の支城として、毛利氏に対する軍事的見地から脚光を浴びました。

しかし、この頃正則に対する幕府の圧力は非常にきびしく。完成後間もない慶長十六年(1611年)この城は取り壊される運命となりました。
《大竹市教育委員会・現地掲示板より》

強者どもが夢の跡…。
尤も、今では地元の方はじめ広島市内からもお花見時期には沢山の方がお越しになり。賑やかなお城跡の公園となっております。

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それ以外の時期は…ほんと、ヒトっ子一人おりません。(笑)