くらげ

コンプレックスが笑えた日 笑える一年にしましょう

私は色々なコンプレックスがあります。

元旦からいきなり「コンプレックス」。
もう少し年初らしいテーマはいくらでもあるでしょうに。

私らしいですかね。我ながら笑ってしまいます。

あなたは、どんなコンプレックスをお持ちですか。

私は禅を修行してもコンプレックスがあります。
坐禅で趺坐(ふざ)がしっかりと決まる人がうらやましい。

趺坐とは、あぐらを組んで、片方の足の上にもう一方の足をのせる独特の姿勢です。

私は趺坐が組めません。
正確には、以前無理に組んでいて、股関節を痛めてしまいました。

股関節が固くて開かないというのは、修行が足りないとされています。
だから、禅を学ぶ人間として恥ずかしいと、ずっと思っていました。

最初は、何とか開こうとして努力した。
その結果、無理にやりすぎて股関節を痛めてしまった。
→ひねるケース

形にこだわることが嫌になった。
それでしばらくの間、坐禅を組まなくなった。
→こじらせるケース

禅を学ぶ仲間に見られないように、坐禅会では後ろに座る。
坐るときも極力見られるようにしていた。
→隠すケース

自然に趺坐ができる人が妬ましくなる。
そういう人の欠点を探すようになる。
→ねたむケース

ひねって、こじらせて、隠す。
これは捻挫がひどくなって、癖になるようなもの。
そして、その痛みは恨みや妬みになっていく。

本当に願うことがコンプレックスになりやすい。
本当はこうだったらよかったのに。幸せだったのに。
そうやって、コンプレックスは育っていく。


本来コンプレックスを手放すはずの禅を学びながら、コンプレックスを育てていた。なんともせつない話ですね。



先日、藤田一照さんが主催されている仏教塾で、坐禅の前に股関節のストレッチをしました。

藤田一照さんの仏教塾について(塾仲間のひろさんが詳しくレポートをしてくださっています。ぜひご覧下さい。)
https://note.com/lifeshift_report/n/n018bd4d6974b?fbclid=IwAR0OZIzhVS4nCVQKwgJfVU5NwcSUntotIeGNPMuxt684Yy__n4LyL7XgDSQ

周りを見ると、さすが皆さんベターっと両膝がついています。心の中にいつもの動揺が走りました。少しでも曲げようと、ストレッチする手に力が入ってしまいます。

「赤野さんは、股関節が固いですね。」と一照さんがみんなの前でおっしゃいました。

いつもだったら、恐らく顔を伏せていたでしょう。
情けなくて、その場から逃げ出したくなっていたでしょう。

でも、なぜこのときは違いました。


笑っていました。

それも、最高の笑顔で。


自分の中の何が変わったかは、分かりません。

一生懸命、ストレッチしている自分。
もちろん姿形も格好も悪い。

「こんなので、すみません」と心の中で謝りながら、笑っていました。

一照さんにいいところを見せたい。
これまでは、どこかそんな修行でした。

股関節が柔らかくなったわけでも、コンプレックスがなくなったわけでもありません。

でも、それでいい。

それが私だから。

そんなことをFacebookに書いたところ、めったに反応してくれない一照さんが珍しくコメントをくれました。

「僕の指摘を柔らかく受けとっていた時、いい表情してましたよ」

股関節は固いままですが、心が開いたのかもしれません。



禅には「私が私になる」というテーマがあります。

私たちは、社会で生きる中で、適応しようとします。
一照さんは、「平板化」という言葉を使われていました。
今、学校で教えられているのは、自分を平板化していくスキルです。

平板化とは・・・
自分にないものを求めて、GETしようとする方向。
何者かになるために、未来にむけて生きていく方向。
私と他者が別れていく方向。
ジャッジし、正しい答えを探していく方向。

社会の中で生きていくには、平板化が必要です。
ただ、本来の自分からは遠ざかっていくのです。

平板化は出来上がった何かでではなく、生きている方向といえます。


一方で、私が私になるというのは・・・
ただ唯一の自分として、自分に戻っていく方向。

余計なエゴを手放していく方向。
今という瞬間を初心で生きていく方向。
そもそも「一つ」という方向。
ジャッジという枠から自由になっていく方向。

どちらが良い、悪いということではありません。

行って、そして戻る。
生きるのは、駅伝の往路と復路のようなものではないでしょうか。

往路でいろいろなコンプレックスが生まれる。

どこか遠くに行くときには、コンプレックスを捨てたくなる。
何かを得たいときには、コンプレックスは邪魔になる。

人生でいえば、往路を進む人には、コンプレックスはただの重荷。

でも、人生には復路がある。


復路とは、自分が自分に戻る旅。

戻る旅。


それは一見、無意味に見えるかもしれない。
でも、必要だから心に残っている。

喜びも苦しみも悲しみも。

そして復路を戻る中で、コンプレックスにもう一度出会う。

私が私になったときに、
ねじれて、こじらせていた心の痛みが笑顔になった。

私が私になっていくために出来ること。
遠くの何かではなく、今できることをしっかりとやりきること。

今年もやり続けていこう。

そして、もう一度坐禅をやり直してみようと思いました。




「私が私になる」という方向性に向かうには、
空白からはじめてみるのがオススメです。

私は、空白から言葉を拾っていくということが好きです。

テーマを言葉にするのではなく、言葉からはじめてみるのです。

朝、ただコーヒーを飲みながらノンビリします。
(ノートかパソコンを開いておきます)

そうしていると、何かふと意味のない断片が浮かんでくることがあります。
(もちろん、浮かばないときもあります)

その意味のない断片を、ただ書き出してみます。

すると、次の断片が浮かんできます。

ただこれをやっていくのです。

文章になる必要も、文章にする必要もありません。

これは「ジャーナリング」という瞑想のやり方の一つだそうです。
まったく知らずにやっていたのですが、空白という心は瞑想状態なのかもしれません。

朝の時間ではなく、
歩いている時にも浮かんでくることがあります。

その断片は一見意味がないように感じます。
でも、その一片があなたになっていく入り口かもしれません。

その一片が拾えると、また一片がやってくる。

意味はないものが、また意味がないものを繋いでくれる。

気がつくと、自然に言葉に生まれていく。
言葉を紡ぐ中で、だんだんテーマが現れてくる。

最近のメルマガは、そうやって生まれています。

意味がないとジャッジするのではなく、意味がないものを拾ってみましょう。
あとから考えると、あのときのことは、こんな意味があったのだと繋がる感じかもしれません。

ぜひ、空白を作ってみてくださいね。



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