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愛していると言えません

お恥ずかしい話ですが、21年連れ添っている妻に「愛している」と言ったことがありません。

いつもは忘れているのですが、思い出すたびに、どこか申し訳ないような、ばつの悪い気持ちになります。

素直に言えたら、どんなに楽だろう。なぜ言えないのだろうか。

先日、テレビを見ている妻の背中が疲れているように見えました。

肩をもんでみると、かなり凝っていました。

無言で手を動かしていると、静かなときが2人を包み込んでいきます。

彼女の温度が手のひらと交わると、私の中の冷たい塊も温かく溶けていくから不思議です。

これって、猿が互いに毛づくろいするようなものかもしれません。毛づくろいは単に“のみ”や“しらみ”をとっているのではないことが、研究で明らかになってきました。

毛づくろいをしているサル、毛づくろいされているサルの双方とも、不安が和らぎ、リラックスしているそうです。

毛づくろいは、親愛やつながりを表現する行動なのでしょう。




「かけがえのないひと」




こう言葉にできたら、どんなに楽だろうと思います。言葉にしようとするほど遠ざかっていくのが、もどかしいです。

本当の気持ちこそ、言葉にならないものではないでしょうか。

溢れる喜びは笑顔であり、悲しみは嗚咽だったりします。




若松英輔さんのエッセイは、本当の気持ちに迫っていく言葉のヒントを与えてくれます。著書『弱さのちから』の中で、鴨長明の『方丈記』を取り上げています。

「ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」という出だしの一節は、多くの人がどこかで聞いたことがあると思います。

『方丈記』が書かれたのは、飢饉で日々食べるものにも困窮し、さらに疫病が民衆を苦しめていた時代です。

鴨長明は人間の強欲さを描き出している一方で、『方丈記』は情愛の深みを描いた秀作でもあると、若松さんは評しています。そして、疫病が蔓延した街の光景を描いた、ある一節を紹介しています。

―――
さりがたき妻、夫持ちたるものは、その思ひまさりて、深きもの、必ず先だちて死ぬ。その故は、我が身は次にして、人をいたはしく思ふあいだに、まれまれ得たる食ひ物をも、かれに譲るによりてなり。
「愛すべき妻、あるいは、夫を持つ者は、その思いが勝る方が必ず先に逝くことになる。わが身を後にし、相手を強くおもうため、ごくごくまれに手にする食べ物も、相手に譲るからである」。
―――

若松さんは、もし、この人生で、本当に自分よりも大切に「おもう」人に出会うことができれば、それだけで、その人生は意義深いものになるだろうと締めくくっています。

自分よりも大切な人への思い。それは愛と言えるかもしれません。
この愛は「愛している」ではないように思います。




ちなみに、「慈愛」という禅語があります。「慈愛」は愛されたいがために愛するのではありません。見返りを求めず、大切な人を幸せにしようとするとき、救われるという愛もあるのです。

「愛している」と言える愛。親愛の情、見返りを求めない慈愛…。

妻は、私よりも早くあの世に旅立つと思います。そんな妻の慈愛に生かされているのが私なのです。




私たちは、自分が大切に思われていることに気づけているでしょうか。

愛を知るとは、愛されていることを知ることなのだと思います。

あるとき、些細なことで妻と喧嘩になりました。我が家の喧嘩は、言葉の応酬ではありません。妻の作戦は無視です。




当たり前になっていた“つながり”が切れたとき、心も身体も冷たくなっていくのが分かります。

ふと手のひらに、肩をもんだときのぬくもりを感じました。

「いっしょに生きてくれてありがとう」

あー。やっぱり言えないなあ。




大切であることを思い出させてくれるという意味で、喧嘩も悪くない。

今晩もまた肩を揉みたいと思います。長生きしてねと願いながら。




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