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祈りと思いやり

食堂もオープンから4週間が経ちました。まだまだ慣れませんね。ひとつひとつ対応するだけで、精一杯の日々を過ごしています。

ちょっとしたことで辛い気持ちになります。

最近、一番心に動揺を与えたのは、食堂について書かれたネガティブな評価です。

大した批判ではないのですが、こんなにも自分の心を動揺させることに驚きました。繊細で、傷つきやすく、動揺が止まらない自分。日々心震わせながら生きています。

ただ、この感覚ははじめてではありません。子供の頃、いじめられたときの感覚を思い出します。また、社会人になって、まったく仕事ができなくなったときの感覚でもあります。

コーチになってから15年は、このようなことがありませんでした。久しぶりに、すごく心が揺さぶられています。トラウマになっていたことを再度体験している感覚です。

ただ、子供のときは、ひとりぼっちでした。助けてくれる人が誰もいませんでした。いや、それを受け入れることが出来なかったかもしれません。
しかし、今回は違います。仲間がいます。辛いですが、孤独ではありません。

人は、何度も同じテーマに出会うようになっているのかもしれません。課題に吸い寄せられるのでしょうか。何度か同じような課題に向き合っていると、そのときの自分によって、まったく違う体験になります。

何もいりません。ただ、日々が無事に終わることを祈っています。周りの健康を祈っています。祈ることしかできません。やはり、最後は祈りになるのですね。 そう考えると、今はとても健全なのかもしれません。




今書きながら、一つ自慢できることを見つけました。

怒らなくなったことです。

会社員だったころは、思い通りにいかないと、すぐに怒っていました。怒りを抑えきれなかったのです。

最近、怒らなくなったらといっても、怒らないように耐えているという感じでもないのです。

いろいろな問題が起こったときに、もちろんイラッとはします。ただそれ以上に感情が膨れ上がることがありません。

「まあ、なるようになるか」という感じです。



今は私のことよりも、スタッフの皆さんのことが気になります。体調は大丈夫か。幸せに働いてくれているか。人のことを考えている時間が圧倒的に増えました。

思いやりが少し深くなったのかもしれません。

もともと思いやりはあったみたいです。コーチの後輩や周りの仲間たちからは、「赤野さんは思いやりがありますね」と言われることがありました。しかし、そのときはよく分かりませんでした。

誰しも余裕があるときは、人に優しくすることはできるでしょう。調子がよいときには、笑顔になれます。私もそうです。

ただ、苦しくなると、すぐに自分のことしか見えなくなります。そんなとき、思いやりのメッキが剥がれ落ちたと思っていました。都合のよいときだけ思いやるようなフリをする。そんな私の思いやりは表面的な偽善だと。

今も自分中心になることはよくあります。しかし、それはメッキが剥がれたのではなく、その奥にある真の思いやりに出会う試練なのだと気づきました。


思いやりは、どこか尊い清い場所にあるのではなく、七転八倒し苦しみを味わう中で、自分の深いところから顕れてくるものではないでしょうか。
私にとって、思いやりとは深さなのです。


そう考えると、偽善だと思っている自分は、実は本当の自分につながっています。偽善も磨けば光ります。偽善が深まっていけば、思いやりに出会えるのです。

もし、少しでも思いやりが深くなったのだとすれば嬉しいですし、人生に与えられた宿題を生ききっているのだと思います。


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