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人は振り返りで救われる 自分でも気づいていない「真意」がある

相手に対して「なにを言うか」「どう言うか」に悩むことがあります。

しかし、「言っている言葉」は重要ではありません。

仕事や普段の生活では、もちろん言葉のチョイスは必要です。ここで申し上げたいのは、「心が通うかどうか」という視点での話です。



本当のあなたが理解されるためには、どういう言葉を使うかではなく、「どういう自分で発しているか」が大切なのです。

その鍵は、言葉に「気」が込められているか。

人は「気」を敏感に感じます。

「無言」がその人の心を鮮明に表現しているという経験は、誰もがあるのではないでしょうか。

一方で、遠慮していると、誤解されます。「私はそんなつもりではなかったのに」というのは、相手のせいではなく、あなたの気がこもっていない、つまり気迫が伝わっていないのです。

ただ遠慮しないというのは、ズカズカと人の心に土足で踏み込むことではありません。

また、気迫とは、力んだり頑張ることではありません。気がこもっているかです。

たとえば、「そうそう」という言葉にも、さまざまなバリエーションがあります。軽やかなそうそう、笑いながらのそうそう、悲しみのそうそう、静かなそうそう、同意のそうそう、話を進めるためのそうそう、もっと知りたいという「そうそう」・・・。心ここにあらずの「そうそう」もありますよね。どういう自分がそこにこもっているかがポイントです。



たくさんの言葉を覚えるよりも、ひとつの言葉を磨く方が、コミュニケーションにとっては大事です。ですが、人は言葉選びの方が好きなようです。それしか知らないからかもしれません。

ちなみに「遠慮」とは、あれこれ考えることが先立って、気がこもっていない状態ではないでしょうか。言葉に不純物が混じっているので、受け取る方も戸惑ってしまいます。心を通わせるためには、いかに不純物を取り除いていくかがポイントです。

不純物が入っていると、どんなに言葉を重ねても真意は伝わりません。
一方で、不純物が抜けてくると、何をいっても、真意は伝わります。あるいは、心が通うという意味では、真意さえも重要ではないのです。

自然体でいるとき、真意にこだわってはいません。真意とは、相手との対話の中で、自然に現れてくるものです。



苦しみは救われること(祝福)だと前回の記事で申し上げました。
前回の記事はこちら→人は救われるために生きている

しかし、苦しみに向き合うのは辛い。できれば避けて通りたいと思うのが人情です。

それは、苦しみが孤立しているからです。

苦しみが救われるために必要なもの。

それは「振り返り」です。

しっかりと振り返りができるかどうかが、救われるかどうかの鍵なのです。

あなたは、どのように振り返っているでしょうか。

自分を励まし、信じる言葉をかけられる人は、自分に対して安心感を持てています。だから、これから失敗するかもしれないことに対しても、飛び込んでいけるのです。

一方で、自分を責め、批判する人は、自分に対して安心感がありません。だから、失敗を恐れ、踏み出せないのです。

振り返りは、過去に負った傷も影響しています。傷が癒やされず、今に引きずっているとき、1人での振り返りはとても辛く、悲しいものになります。そして、自分でまた自分を苦しめるのです。

本当は、振り返りは2人以上でやってほしいです。



先日、私は強烈な体験をしました。参加していたある場で何かが爆発したのです。後から振り返ると、自分でも信じられない言葉を発していました。しばらくは何が起きたのかさえ分からない日々が続きました。

あまりにも苦しいので、ある方に振り返りをお願いしました。あのとき何が起こっていたのか。

振り返る中で、あのとき本当に言いたかったのは、「助けて」と言う言葉だったのだと気づいたのです。そのとき、あのときの体験は救われました。



私のセッションでは、体験する前にあれこれ考えることは、あまりしません。まずは、なんでもやってみたらいい。言ってみたらいい、というのが基本的なスタンスです。

セッションは体験したことの振り返りがほとんどです。

体験の中で、言葉になっていないことがあるのです。自分でもよく分かっていない「なにか」があるのです。体験を誤解していることも多いです。

何が起こっていたのか言葉になっていないというのは、結構苦しいです。

体験は、言葉にしてくれるのを待っているのです。

それは考えて出す答えとは違います。考えるのは、1人の振り返りです。しっかり考えることで、原因や理由は分かるかもしれません。ただ、救われる振り返りにはなりにくいです。

しっかりとした振り返りとは、なにをあなたが体験したのかを知ることです。そして、あなたが体験したことがとても大事であることを理解することです。

体験には、失敗や成功はありません。しかし、頭では分かっていても、どうしても成功・失敗のジャッジから抜け出せません。

その理由の1つには、学校教育で振り返りを習っていないということがあるでしょう。評価や否定、褒めることは出来ても、その体験の真の意味に迫っていけないのです。

上司と部下との関係でも、会議でも、組織においても、相手を責めたり、ジャッジされることはあります。それによって体験は救われませんから、次の体験に飛び込む勇気は湧いてきません。



振り返りの肝は何でしょうか?

それは、「知ろうとすること」です。その人が、どうしてそのような行動をしようと思ったのか。その深くにある思いや葛藤を知ることです。

自分でも気づいていない「真意」があるのです。振り返りをすると、言葉になっていない「真意」には、悲しくせつない思いがあったりします。「真意」を知ったとき、あなたは体験に飛び込んだ自分を思いきり抱きしめたくなります。やってみたことは無駄ではなかったことに気づきます。

そこには、必ず「やってみておめでとう!!」があります。

「やってみておめでとう」というところに辿り着けたとき、すべての体験は「祝福」になり、体験は救われます。そこではじめて、成功、失敗という呪縛から解き放たれるのです。

振り返りをしっかりするほど、「何を言ってもいい」、あるいは「言わなくてもいい」と思えるようになります。言葉は関係なくなっていきます。言葉に囚われなくなっていくといってもいいかもしれません。

そして、体験に飛び込んでいけるようになるのです。



「まずは、体験してみようという」という言葉はよく聞きます。しかし、体験に飛び込むのは、そんなに簡単ではありません。それは順番が違うからです。

体験からはじまるのではなく、振り返りからはじまっているのです。

人は振り返りで祝福されることで、味わった体験が解放されます。

苦しみが苦しみでなくなるのです。また、失敗してもそれは失敗ではなくなるのです。

しっかりとした振り返りとは、セーフティネットのようなもの。どんなに辛い体験だとしても、それは振り返りで救われるからです。

救われる振り返りがあるから、体験に裸で飛び込めるのです。

逆にいえば、しっかりとした振り返りが出来れば、あとは放っておいていいのです。体験するには、なんでもやってみたらいいのだから。

しっかりとした振り返りを積み重ねる中で、過去の傷は癒やされていきます。そして、少しずつ「素」で言えるようになっていきます。余計なことを考えず、素で発せられたとき、自然にその言葉には気がこもっています。

2人以上で振り返るのが難しい場合は、まず1人での振り返りから始めてみるのもオススメです。

一日の最後、もしくは翌日の朝、リラックスできる場所に行く。温かい飲み物でホッと一息つく。そして、ノートを広げる。その日、もしくは前日に起きた出来事を振り返ってみましょう。思っていることをただ書き出してみるのです。そのとき、思考だけではなくて、そのとき、身体に起こっていたことも思い出してみましょう。

5分程度で大丈夫です。静かに振り返る時間をとってみてくださいね。




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