見出し画像

「無心のビジネス」への道 「無我」という問い 無責任だから信じられる

ビジネスパーソンやアスリートたちとセッションをしているとき、基本的にはクライアントに任せるようにしています。
私から何か答えを出そうとはしません。

その根底には、「いろいろあるだろうけど、必ずなんとかなる。どんな困難も乗り越える力がある。」ことを信じられる気持ちがあるのです。

むしろ私が介入することで、クライアントがさまざまな体験をする機会を奪う方が、長い目でみると、成長の伸びしろを狭めてしまうのです。

相手を信じているといえば聞こえはいいですが、それは綺麗な表現すぎます。
誤解を恐れずにもっと真実に近い言葉で申し上げれば、すべて人ごとなのです。
無責任にすべて人ごとだと思っているのです。

「自分事」という心の持ち方を離れることが、「信じられる」ためには大事なのです。

コーチになりたての頃は、解決策を提案できないのは無能なコーチだと思っていました。選手の悩みを私がなんとかしないといけないという焦りが常にありました。すべて自分事だったのです。

信じようとするほど問題ばかりに焦点がいく。
大きな失敗をしないために未然に気づいてもらいたくなる。

クライアントのテーマに責任を感じるほど、信じられる気持ちは湧いてきません。

自分事のように相手の問題に責任を感じるほど信じられなくなる。
クライアントの問題はあくまでその人の問題。
人ごとで無責任だから信じられる。

この一見矛盾するロジックが、実は「信じられる」状態にはあります。
親子関係でもビジネスでも、自分のことのように感じる親や上司ほど、子供や部下のことが心配で手をかけすぎてしまうのです。

これは自分事になりすぎていて、相手が信じられなくなっている状態といえます。

ただ、これが悪いわけではありません。
医療関係などで病気の患者さんに寄り添う必要がある場合は、自分のことのように感じる方がよいかもしれません。

ちなみに看護師さんは学校で「母のように、姉のように関わりなさい。」と教わるそうです。

妻は看護師をしているのですが、病気のときはなぜか優しいのです。

普段は、甘えようとすると結構な勢いで突き放されるのですが、病んでいるときは別のスイッチが入るようです。
これは素晴らしいバランス感覚だと感心しています。

ただ、重い症状の患者さんと接しているときの妻は、少し苦しそうです。
もう少し自分を許してあげてもいいのではと思ったりもします。

私自身、ずっと「人ごと」「無責任」というのは、人間として冷たい。利己的で悪いことだと思っていました。
だから、どこかで隠していたと思います。

コーチとしては、人ごとで無責任だからクライアントのお役に立てるということに気づき、こうして言葉に出せるようになったのはつい最近のことです。
相手のことを自分事のように捉えることだけが思いやりではないのです。

相手の問題をあくまでその人の問題だと割り切るのは、冷たいわけではないのです。

先日、クライアントの経営者に、「人ごと」と「無責任」についてお伝えする機会がありました。

この経営者は「それでいいと思います。」と答えられました。
内心までは正直分かりませんが、こうしたことを言える関係性であることが「信じられている」状態であり、さらに深い本質的なテーマへと導いてくれるのです。

そして「人ごと」「無責任」は、自分のことにも言えます。
禅の教えに「無我」があります。
一言で言えば、無我とは「自分はない」ということでしょうか。

自分のことなのに自分はないとはどういうことだろう???と思われた方も多いと思います。
あるいは、なんとなくは分かるけど・・・という感じかもしれませんね。

私たちは自分のことにこだわりすぎているのです。
自分事に捉えすぎているのです。

「無我」への方向性として自分を手放していくためには、もっと自分に無責任に他人事になれるか。

メンタルトレーニングでは、無我へのアプローチの一つとして、「成り行きに任せる」ということをやっていきます。

ただ、どのスポーツでも成り行き任せということには強い抵抗を覚えるようです。


選手達が口を揃えて言うのは、成り行きに任せられるのは、技術がある選手だからだそうです。
自分にはまだその腕がない。
技術が足りない。
という答えがかえってきます。

しかし実は100を切れないアマチュアも、シングルプレーヤーも、そしてプロゴルファーも同じ答えをするのです。

どれだけ技術を身につけても、残念ながら成り行きに任せられないのです。
選手によっては、高い技術を持つほど、自分への責任感が高くなるケースもあります。

自分への責任感が強いというのは、自分へのこだわり、つまり自我が強い状態と言えます。
技術はあるのに信じきれないという選手達に共通しているのは、自我が強すぎて自分から離れられないから。

無我になるには、まったく違う心の持ち方が必要だということです。

成り行きまかせだと努力しなくなるのではと危惧された指導者がいました。
努力はどんどんしていいのです。

ただ、こうしなければならないという身心に負荷をかけた努力は、結果が出ないと努力するのが嫌になっていきます。

むしろ、成り行きにまかせることで自分らしい精度の高い努力が出来るようになります。

禅の老師は、「これは私ではないと全否定するところから、全肯定がはじまる」とおっしゃっていました。

これは私の仕事だというのは自我の仕事です。
これは私の成果だというのは自我の仕事です。

無我の仕事とは、これは私の仕事ではないところから始まります。

無我の仕事とは、誰の仕事なのでしょうか?

無我の人生とは、誰の人生なのでしょうか?


「えー。あれなんだっけ?あれだよ。あれ。」と言うことが最近増えてきたと妻に言われました。
以前はそんなことなかったのに。

まだ50手前なのにちょっと早くないか。
ちょっとショックでした。

自分で言うのはなんですが、どこかで聡明さを自負していたのかもしれません。
確かに最近、聡明さは影を潜めてきました。

一週間前に書いた原稿でも、どんな内容を書いたのか詳細を覚えていません。

自分が書いたのかどうかも定かではないのです。以前はしっかりと覚えていたのに。

代わりに、書いたものを読み返すと、なかなかいいことを書いているなと感心したりします。

そして、読んでいるうちに新たなアイディアが湧いてきて、また次の原稿を書いています。
私にとって書くことは旅のようです。

忘れるから新鮮さがある。
お別れするから、また新しい出会いがある。

今思うと、自分が書いているというこだわりが少しずつ薄くなってきたのかもしれません。

ご縁という周りと自分との揺らぎの中で、自分を手放した言葉が生まれてきています。

「私はない」というのは、ご縁を生きて、ご縁に生かされている状態から生まれる境地かもしれません。
だから、いつも揺らいでいます。
自分ではないのですが、その中に確かに自分はいる。

自分を空け渡さないのにさらに求めるのは自我であり利己です。
自分を手放し、空っぽになったところに、何かが生まれてくるのです。

これは答えではなく、生きる方向です。

自我を空け渡さない方向で生きるのか?

自分を手放し、空け渡す方向へ生きるのか?

これは、目標や結果という目に見える尺度とは違うあなたにしか分からない尺度です。

無心のビジネスへの道は、結果が出るからやるかやらないかではありません。
その道を歩きたいかどうかです。

まだまだ私自身も探究中ですが、「無我」という問いを自分の中に持っておくことで、日常生活でのあり方が変わってきたように思います。

どう変わったか?

事象としてはとてもちっぽけなことです。

掃除が続けられていて、コロナ禍で自粛を余儀なくされている都会の友人たちに田舎の果物を送って、朝少し早く起きるようになりました。

ただそれだけです。でもとても大きなことです。

大事なことは、とっても小さい。
見つけようとすると物陰に隠れてしまいます。

そして、変化はとてもゆっくりとなだらかです。
大きく変化しようとすると、足元が見えなくなってしまいます。

坐って坐禅を組むだけが修行ではありません。
日常のさまざまな体験がすべて修行だと感じています。

今回はこのあたりにしておきたいと思います。

次回も無心のビジネスについて、お伝えしていきます。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?