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作品に想定する「誰か」

作品として世に提示する写真は、必ず誰かに観て貰わなければならない。が、制作者が想定するその「誰か」は、果たして誰なのか。

商業写真であれば、少なくともその「誰か」は自分が生きている間に自分に対して支払いをしてくれる人、「いま、自分が接触可能で(お金を払ってくれる)実在の誰か」を気にしなければならない。いや私はそんな下卑た思想とは無縁である、自分の視点はそんな下らない地点よりももっと先にある、という場合も当然にあるだろう。しかしその場合であれ、「その自分の先見の明や視点の遠さに対して今現在投資をしてくれる人」の存在を念頭に置いた写真制作が必要なことは確かであろう。直接的にであれ間接的にであれ、広い意味でのクライアントの存在は避けて通れない。

では、制作において想定する「誰か」とは、いま実在する人間を念頭に置かなければならないのか。

…というと、それは違う、必ずしもそうではない、と私は思う。制作された作品を、提示者と鑑賞者による対話や戦いであると捉えるなら、鑑賞者の想定は「自身が考え得る最高度の技量や注意力や集中力を有した理想的な存在」を念頭に置くのが自身の制作と向き合ってくれる鑑賞者に対しての礼儀というものだろう。

自身が持つ程度の観察力は鑑賞者も当然に有しているし、自身が持つ程度の考察力もまた、鑑賞者は当然に有している。自身がこの程度で良いだろうと力を抜いたところは、その力を抜いた瞬間の緩みまでをも含めて鑑賞者に全て見通されている。それだけの絶対的な力が、制作時に想定すべき鑑賞者には備わっているのだ、制作側としては当然にかつ理想的にそう想定して備える必要がある。そうした場合、実在か非実在を考慮することはもはやあまり意味のある行為ではなくなってくる。

そうした仮想的に理想的な鑑賞者である彼ら彼女らは、必然的に我々が出す制作物に対して「他でもないお前がこの作品を世に立てる意味は何なのだ」と問いかけてくることになる。

世に沢山の写真があり、世に沢山の創作があり、制作物は世に溢れている。その中でお前が立てた問いは何だ、お前は鑑賞者たる我々にどのような、新たな発見の種をもたらすのか。理想的な彼ら彼女たちが、自身の制作を通じて想起するものが、これまでに既に存在している「アリものの感想」を再度浮かび上がらせて終わり…となってしまうのであれば、それは制作者たる我々の負けである。そうならないよう、制作者側はなんとかして理想的な鑑賞者に打ち克つ、自身の作品の価値を自身の作品のうちに埋め込まなければならない。

少数の古き佳きパトロンのような場合を除き、実在する誰か、いま現在に生きる誰か、お金を払ってくれる誰か、を「誰か」として想定すると、この理想的な想定を必然的に崩さなければならないケースが出てくる。

「写真や視覚芸術は今という時代から逃れられない」というのはひとつの真理だろうが、それは、それに掛かるコストを同時代に実在の人間たちから回収しなければならないからである。したがって、理論的には理想的な制作は非営利なものからこそ生まれ得ると私は考えている。

たくさんの作品を観ることになる人達に分かりやすく噛み砕きやすいモノを、より容易で、より受け取りやすく、より抵抗なく飲み込めるように綺麗に手入れしてお出しするのが善い行いですよ…というのは、実のところ誠実さという点において、最も理想から遠い位置にある行いである。鑑賞者の対峙による鑑賞体験を無効にする、一種相手を小莫迦にした行為とも言って良いかも知れない。

「目の前の人々を敢えて相手にしない勇気」「誰からの反応を得られないことをも覚悟する勇気」「誰も理解しないものをただ自分だけが認めて独りよがりと言われ続ける恐怖に耐える勇気」もまた、必要な覚悟なのだろうと思う。

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