細部を間違え怒るオタク、そして私はナンセンスマン。

 何故オタクは、細部を間違えただけで怒るのか


 ……いや、そこを疑問に思うのならばオタクと関わるな、それが分からないのならば無闇に踏み込むな、他人の心を踏み荒らすなという話では有るのだけれども

 そんな事を言うのならば、「何故怒るのか?」と疑問に思ってる人だって人間な訳で、互いに互いの事を理解する為にも、或いは閉鎖的な関係を打破する為にも、不躾ながらこの疑問、或いは私の感性が踏み入る事を許してもらえませんか?…と。

自己紹介と自分に巣食うとてもやる気を殺すナンセンス。そして独り。


 自分にも死ぬほど好きな物や曲はある訳です。特に、とある曲に関してはほぼ毎日のように聞いては陶酔して、下手くそな歌をばらまいて近隣住民に迷惑をかけながら、それでもまだ恥と思わずその絶対的すぎる狂信的な世界を自分の物と同一視する…みたいなレベルの、そのくらい好きな物はあるんです。

 でも自分の場合、その作曲者の名前や曲の歌詞を間違えられても何も感じないし、「そりゃどのくらいの感覚や重さで曲を受け止めるのかはその人の自由だよな」と思うし、「もしかしたらその歌詞が違う物だったかも知れない」と思うので、その歌詞がその通りである事には特に絶対性を感じないんですよ。

 いや、失礼ではあるかも知れませんが、それが失礼かどうかは作った人が決めるべきでしょうと。
 
 「その人が作ったその曲そのままだからこそ、俺/私はここまで感動したんだ」って自分への誇りにも似た事が、細部への拘りを生ませるんでしょうか。私はそこまで自分に自信が持てません。

 例えば今の親友のポジションにいるa君が、別の並行世界でそこそこ違うb君にすり替わっていたとしても、私は多分それを親友と呼んだだろうな、という…自分への諦めというか、そんなもんだよな感というか。

 例えどれだけ手の込んだ料理も、どうせ自分はあるラインからは味の違いが分からなくなるんだろう、という届かない諦めの感覚。利きの能力を上げる事は出来るとしても、そりゃ20年シェフの舌には敵わない。

 そして私が死ぬほどの絶対的な感情を抱いたとしても、その感情の対象になった物は世界に唯一絶対の物じゃないだろうな、という感覚。
 
 それがどんな歌詞であれどんな曲であれ誰が作った物であれ、今の私が好きだから好きであって、もしかしたらその曲が別の歌詞で別のコード進行で出されていたかも知れない。
 そしてそのようにして出された物も、自分は好きだったかも知らない。

 そうして出された、ちょっと作った人の偶然や感覚が混じっている、然程絶対的では無いだろう物を「これしか無い!」って言うのって、

 なんだか、違わない?

 それが私とオタクとの感覚の違いなのかはわかりませんけど、兎も角、細かい事が気になる人はいる訳で、それが許せない人も居る。まるでそれが絶対であると信じているかのように。

 そしてそのような疑念が非常にナンセンスな事は知っていて、同時にその違いが、私をオタクにする事を阻んでいる
 私が私の事を下手にオタクと自称してオタクの輪に入ろうものなら、きっと私はそうやってオタクの地雷を踏むんだろうな、という。軽い自分への諦めと自分への軽蔑感…というか外から白んだ目で見ている感じ。

 このキャラの目の中には兎が描かれているはずなのに、無い事に怒りを感じる、みたいな物が私には無い。

 それが無ければそのキャラとは違う…みたいな事なんでしょうか。その人はテセウスの船をどう考えるのでしょうか。その当人が変わっていく事を許せるのでしょうか。当人が変わっていったらOKなのでしょうか。公式の物語が絶対なのでしょうか。

 「それを認めるなら、なんでもアリになるじゃん。竜の絵を描いて『これは兎田ぺ○らちゃんです』って言ってもアリじゃん」

 ……はい、そうです。おっしゃる通りです。ただ、それって怒るまでの事なのでしょうか。

 『どれだけ精密に描こうが、それはパイプでは無いんですよ。

 うわ。なんて残酷で根底から全てを崩すナンセンス。そりゃ怒りますよ。誰でも良いって言ってるような物では?

何かを信じて好きだと言えるオタクは、それだけで尊敬出来る方々だと思うんです。


 自分が単に愛が足りないという事かも知れません。製作者への信頼が足りないということかも知れません。(もしかしたら信心と言った方が正しいのかも知れません。揶揄して馬鹿にしてる訳ではなく、本気の大真面目な信仰として。)

 そういう人は圧倒的な知識量を持ってますし、それこそがオタクであり研究者であるという事なのかも知れません。

 残念ながら自分は固有名詞には意味が無いと考えるタチの人間です。その裏にある仕組みや組み上がっているシステムに単に人間が定義した記号をつけただけの物だと、そう解釈しているので…
 例えば「富士山」の名前は別に「幸中山」として決められても良かったかも知れないじゃないですか。

 ……まぁ、ネーミングセンスは無いかも知れませんが、それでもその当時名前を付けた人間が「富士山しか無い!これこそ最高の美しさ」って言って付けたのかと言えば、私はそこまで人間を神聖視出来ないので、まぁ何となくで決めたんだろうなという感じがある。
 例え天啓のような物を受けて決めたとしても、自分にはその天啓の感覚を知りようが無いですし。

 だから、固有名詞を覚える事に然程の価値を感じないんですよ、という完全に個人の意見です。
 そしてそれが「絶対的にこれしか無い!」と言ってモウシン的に作った人が組み立てた物を、音を立てて崩してしまう可能性がある事も知っているんです。っていうかそういう見方で物に触れて関わりを持つのならば、十中八九壊す、崩す。
 
 猛進的に?それとも、盲信的に?

 さぁて。なんてつまらない人間でしょう、と思うんですよ。

どっちが合ってる、と言い切る事はしません。どっちにもどっちの言い分があって、それはきっとどちらも正しい。


 真実にエンターテイメント性は本来含まれておらず、エンターテイメント性に真実は薄められますから。多分本来ならばその二つは全く相反する物なんだと思います。

 そして多分、自分がこの話題を出すのはこれっきりな…気がします。
 
 何故なら隣の青い芝を踏み荒らすのが単純に怖いから。
 怖がりなんです。

 そしてこの記事を書いていて「なんて馬鹿げたナンセンスなんだ!」と思ったから。

 ただ、こう思った、という事は残しておかなければならない。
 何故なら同じように思っている人が居ることは間違いないから。その人達の思考の助けになる…かも知れないから。後は自分の思考の轍として。

 だからこの一回だけは残しておこうと思うのです。文句を言われるから消すでも、同じ意見を持つ人が居るからというだけでナンセンスを何回も書くでもなく、たった一回だけ。

 たった一回で、自分の中の、或いはこれを読んだ人の何かが変わるのでしょうか。

 さぁ、どうなんでしょうね。

 ただ、ある程度まで変わる事を信じられるからこの文章を書いたのでしょうし、それ以上は変わる事を信じられないから、これ以上は書かないと自分は言っているのでしょうとは思います。

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