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ビブリオクラストの愉悦

 空中に放り出された一冊の小口が開き、蝶のように夜空を羽ばたいた。滑空した図書は花に留まり蜜を吸うように、自然な仕草で華奢な左手に収まった。
 「いつも通り、本は私を愛してる」
 彼女は駆け始めるのと同時に左手の書冊を捲り上げ、足よりも速く手と目線を動かした。口がほころび、時々何かを小声で呟く。たまに鼻を鳴らす。
 拳が、警棒が、銃が、人垣が、トラップが彼女の行く手を遮ろうとするが、彼女は追跡には一瞥もくれず、ただ文字だけを追っている。
 最後のページがまくられて僅か一瞬後、足と目が同時に止まった。
 彼女はこの著作を閉じた。そして、そのまま冊子の天と地を手の中でぐるぐると回転させ弄ぶ。つまらなそうに。

 稀覯書の持ち主の壮年の男が追いつく。彼も凄まじい体力の持ち主であった。
「頼む、その御本を返してくれ!それはもうこの世界に一つしか存在しないんだ。私だけの物じゃない、全人類の宝なんだ!君も読書家なら分かるだろう、人間の積み重ねてきた叡智と経験の結晶、それが書物なんだ!Book is human...」
「私はクレプト(泥棒)じゃない」
 鋏のような声。裁断機の歯。
「私はビブリオクラスト。書籍破壊者。本は私を愛してる。私は本を愛さない」
 次の瞬間、まるでフラッシュペーパーのように、あっさりと紙全体に火が走り、大著は瞬時に灰と化して崩れ去った。
「『男は自分の女の最初の男になりたがり、女は自分の男の最後の女になりたがる』だっけ?私が読んだ本は、もう誰も読まなくていい。いや読ませない」

 ある男は、蔵書票を集めるために書巻を切り裂いた。
 ある男は、自分の蔵書の価値を高めるため、同著を買占め一篇を残し全て焼き払った。
 ある男は、乱丁落丁が許せずエラー本を破壊し続けた。
 たかが紙の塊に狂おしいほどの愛憎を抱く書籍破壊者は、それでも紛れもなく愛書家であった。彼女を除き。
 この話は、彼女が世界最後の一巻を読み、それを破壊して終わる話だ。

【続く】

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