【断想】『ファニーゲーム』 という実験 : 映画に暴力を振るわれるという奇異について
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【断想】『ファニーゲーム』 という実験 : 映画に暴力を振るわれるという奇異について

『ファニーゲーム(Funny Games)』(1997年)の感想を一言で述べるならば、Not funny だ(笑)

『ピアニスト(La Pianiste)』(2001年)や『愛、アムール(Amour)』(2012年)などで知られるミヒャエル・ハネケ監督の一作。
カンヌで上映された際には、席を立つ人が相次いだとの逸話を持つ。
僕も何度「リモコンはどこだ?」と思ったことか!

であるから、この映画を薦めることなど僕にはとてもじゃないができはしない。
しかし、試みとしては興味深いと思うのも事実である。

基本的には観る必要はないと思いますが、それでも観るという物好きがおられれば、最後まで耐えてみてください(笑)
また、誰かに何かを伝えることをする人なら一見の価値ありかもと僕は思っています。←「かも」ですからね(笑)


こうコメントした上で、僕の雑感を記していこう。
(以下、ネタバレを含むので読まれる方は注意されたい)


映画評論や映画解説にみられるように、映画を「思考」で楽しむということは少なくない。事実、いま僕もこうやって映画に思考を巡らせ遊んでいる。
だが忘れてはならないのは、多くの人にとって〈映画という体験の中心は「感情」である〉ということだ。

このシーンはあの作品へのオマージュで、ここでは〇〇という技法が使われていて、といった話は殆どの人には関係ない。
映画において問題のとなるのは、「この映画はどこがどう良いのか?」という問いをたてる前に、まず「ああ、面白かった」「いい映画だったなあ」という感覚が残るかである。

だから、前思考的な反応である「情動」(Affect )をどれだけ引き起こせるかが映画の鍵となる。

無論、一概に「情動」や「感情」といっても様々な種類がある。
しかし、それらが刺激によって促されるということを考えれば、「強い刺激とは?」という問いが生まれるのは自然であろう。
そして、みなさんの経験からも、ここに強い刺激としての「暴力」が立ち上がる。

そして映画の世界は、この暴力を不快ではなく 「快」を生む「道具」として手に入れた。

映画において、暴力は言うなればfunny なものとなったのである。

しかし、本当の暴力はそういうものではない。
暴力は苦を生むのであって、行き着く先は死である。
暴力はnot funny だ。

その当たり前の事実を突きつける作品。それが『ファニーゲーム』ではないだろうか。

そして、面白いのはこれを not funny な暴力を〈みせる〉という単純な仕方で行わなかった点だ。
ミヒャエル・ハネケはnot funny な暴力を〈振るう〉という仕方で、私たちに訴えかけようとしたのだ。

もちろん、映画によって物理的なダメージを観客に与えることなど不可能である。
だが、精神面であれば話は違う。

映画の中で、一家はゲームを強制されることによって精神的暴力を振るわれる。そのゲームを観客にも課すことで、暴力の傍観者として消費を許さず、家族と同じ立場、すなわち暴力の被害者へと観客を追い込もうとしたのがこの映画の構造ではないだろうか。

そしてこのように捉えるならば、この映画〈忌み嫌う人の数こそこの映画の成功を意味する〉はとも言える。

なかなかにスリリングだ(笑)

しかし、結果的にはこの挑戦がうまく機能したわけではないと僕は思っている。

問題点を大きく2つあげるならば、


1 映画への嫌悪=暴力への嫌悪という等式が成り立たなかった点
2 観客がゲームを投げ出す、すなわち席を立つ、視聴をやめる、という選択肢を持っていた点

だろう。

だが、これらを乗り越えるのはそれほど難しいわけではないように思われる。

もし、そうだとすれば『ファニーゲーム』という実験は、かなりの迫力をもった先行研究として扱えるのかもしれない。

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ざわけん

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境界・線引きを問い直す/【断想】シリーズで、わからないことをよくわからないまま文章にしています/写真も撮ります