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イスラエル出国は一筋縄じゃいかないよ!-まさかのスパイ容疑!?(上)

絶対に行こう!とエジプト留学前から、心に決めていた近隣諸国の一つがイスラエルだった。

いよいよ時間とお金を用意し、イスラエル旅行を決行することにした時、在カイロの日本人女友達何人かにも声をかけた。

「一緒にイスラエル旅行しない?」

が、仲が良い日本人女友達は、全員エジプト人と結婚していた。そのため、イスラエル旅行は無理だった。なぜなら、妻がイスラエルに観光に行く、と言ってそれを許すエジプト人の夫などいなかったから。

エジプトとイスラエルは和平を結んでいるものの、多くのエジプト一般人の、イスラエルに対する感情は憎悪でしかなかった。

そもそも、エジプト人はイスラエルを国として認めていない。だからエジプトで世界地図を買うと、イスラエルの国名はどこにもなく、かわりにwest bank(西岸)と表示されていた。

多分、イスラエルという国名を口にするのも嫌だ、というエジプト人(シリア人もそうだった)が多く、イスラエルの話題になると、やはり「west bank」という呼び方が一般的だった。

イスラエルをイスラエルとちゃんというのは、ニュース番組ぐらいだったかもしれない。

エジプトとイスラエルは何度も戦争をしているし、イスラム教の聖地でもあるエルサレムもとられているし、もっといえば旧約聖書の時代からああだこうだ揉めているし、

エジプトのテレビで放送されている幼児向け番組を見れば、「イスラエル軍をさあ倒せ!」という抗イスラエル内容の人形劇だし、

ニュース番組でも「カイロでまたイスラエル人のスパイが捕まりました」「イスラエル人を狙ったテロがまた起きました」という報道が多いし...。


そんなこんなで、一緒にイスラエルに行ってくれる日本人女友達は全滅。アラビア語クラスの外国人友達にも声をかけたが、もろもろタイミングが合わず、結局ひとりで行くことにした。


出発数日前に、タハリール広場にある格安チケット代理店で、カイローイスラエル(テルアビブ/エルサレム)のバスチケットを購入。料金は数十USD。

そう、東京から名古屋まで向かう新幹線料金より安い! 

バス乗り場は、カイロシェラトン前だった。

なぜシェラトンホテルから、イスラエル行きの長距離バス(しかもオンボロバス)が出ているのか、謎だった。

多分、人が多い中央バスターミナルを利用すると、イスラエルとの往来バスなんてテロに狙われる。だからセキュリティーの厳しい五つ星ホテルを発着場所にしていたのだと思う。


イスラエル行きバスの乗客は出稼ぎ風のエジプト人労働者の男たちか、白人のバックパッカーばかりだった。

ところが、最後尾の座席に日本人の青年が座っていた。まさか自分以外に、カイロからイスラエルまで走るおんぼろバスに乗る日本人が他にもいるとは思わなかったので、一瞬驚いた。

でもこの頃(1996年)、エジプト国内でもリュックサックを背負った日本人の若者(みんな男)をぼちぼち多く見かけるようになっていた。

突然、なぜ貧乏旅行をする日本人の若者が増えたのかといえば、電波少年の番組の猿岩石の影響だったらしい。

それよりもっと前は沢木耕太郎の『深夜特急』の本を読んで世界バックパックの旅行に出ました、という若者が多かったらしいが、そうか今ではバラエティー番組企画の影響で世界旅行に出るのか...と思った。


イスラエル行き長距離バスに乗っていた日本人の若者。聞けば彼も、猿岩石のバックパック旅行の影響だった。(笑)

ほとんど英語もしゃべれない猿岩石の二人が世界サバイバル旅行をしているのだから、自分も行ける!と思ったそうな。

実際、この若者(といっても当時の私とほぼ同じ年)は全然外国慣れしておらず、英語もてんでんだめだった。それがよくまあいきなり中東なんぞに単身で乗り込んできたものだ。(なので以下、ムボウ君、と呼びます)


長距離バスは途中、ちょくちょく休憩のため停車した。

しかしそのムボウ君は、「15分だけストップする」など英語アナウンスを聞きとれない。そして下車しても、ソワソワしてずっと私に付きまとう。

なんと、彼は日本を発ってからずっとこんな調子で、日本人を見かけたら金魚のフンのようにくっついて旅を続けているのだという。

「まいったなあ、イスラエルに入ってからもずっと付きまとわれるのかなあ」

と私はついため息。イケメンでも全くなかったし(笑)。


カイロからイスラエルまで長い長いドライブ(10時間以上)かかった。

まずはスエズ運河に向かう。そしてバスごと船に乗りシナイ半島へ渡る。アフリカ大陸からアラビア半島への移動だ。

シナイ半島はひたすら砂漠だった。

車窓を眺めていてもえんえんと果てしない砂漠が続くだけ。飽きる。何も面白くない。

ちなみにシナイ半島といえば、モーゼが十戒を授かったシナイ山、モーゼが真っ二つに割った紅海。

近代史としては中東戦争では一回、イスラエルがシナイ半島を奪いとってその後、エジプトの奇襲攻撃により、再びシナイ半島はエジプトのものに戻っている。

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↑シナイ半島(ずっとこんな感じです。画像はネットから拾ったもの)


シナイ半島の延々と果てしなく続く砂漠には、トイレがない。

だからここまで来ると、砂漠そのものがトイレだった。バスを停めトイレ休憩する時は男女、お互い離れて砂漠のど真ん中でオシッコをした。

ちなみに砂漠に浸透したオシッコはすぐにカラカラ乾燥して消滅。砂漠で犬散歩する場合は、オシッコを消す水を持ち歩かなくても問題ないですな...


夕刻になると、右車窓からは月が見え、左車窓からは太陽が同時に見えた。(左右逆だったかも)

スターウォーズの映画で、ロケ地のチュニジアでやはり空に太陽と月が同時に昇っているシーンがあったと思うが、シナイ半島でもそれが見えた。


月と太陽が同時に上空に見える時だけは、はっとさせられ神秘を感じたが、それ以外はとにかく何時間も何時間も、車窓の景色は砂漠だけ...何度も言うが飽きる。

隣に座っていたムボウ君は、失恋話や家族不和の話、希望通りを就職先がみつからなかったことなどグチグチねちねち話していた。私は無視してイヤホンでMD WALKMANを聴きながら、ひたすらゲーム機でテトリスをピコピコ。


聖書によると、聖家族(幼いイエスを連れたマリアとヨセフ)は、ベツレヘムからエジプトまでロバにまたがって自分たちだけで渡ってきた(エジプト逃避)、となっている。

だからカイロの旧市街には、聖教家族の史跡があるのだが、本当に本当に、この過酷な砂漠のシナイ半島をロバで遠征できたのかな...

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ようやくイスラエルとの国境のタバに到着すると、一度バスを下車させられた。目の前にはバラック小屋のようなオンボロ建物があった。(その数年後、それなりの立派な建物にはなったけど)

このぼろい小屋のような建物は何なんだ、と思いきや、ゲートウェイ(出国パスポートコントロール)だという。

中は大混雑していたが、ここでも7割は貧乏そうな汚い(失礼!)エジプト人出稼ぎ労働者、3割は白人バックパッカーの若者たちだった。日本人といおうかアジア系の人間は私とムボウ君しかいなかった。

エジプト出国は簡単、何も聞かれず機械的にパスポートに出国スタンプを押されただけ。荷物検査もザルだった。

そこから徒歩で国境を越え、エイラット(イスラエル)のゲートウェイ(入国審査)に向かった。まあ驚いたのは建物が近代的で、エジプトの出国審査バラック小屋とはまるで違う!

しかもイスラエルのゲートウェイの建物内には、エアコンもかかっておりお化粧室に入ると、なんと!水洗トイレであんぐり!

だから

「ああ先進国に来た!」

というのがイスラエルの第一印象だった。


入国は簡単だった。

手荷物もそんなに調べられない。ちなみにイスラエル入国スタンプはパスポートではなく、別紙に押してもらっていた。

というのは有名な話だが、パスポートにイスラエル入国スタンプがあると、その後多くのアラブ諸国の入国が不可能になる。

そのことは事前に調べていたので、別紙にスタンプをお願いしたのだが、

エジプトのタバ出国の際は別紙に押してくれないので、私のパスポートにちゃんとタバ出国スタンプが押された。

つまりエジプトを出た時の出国スタンプ(タバのゲートウェイのスタンプ)はパスポートに残っているが、

イスラエル入国(エイラットのゲートウェイ)のスタンプは、私のパスポートに存在していない。

ヘブライ語の出入国スタンプさえパスポートに存在していなければ、今後アラブ諸国に入るのに何も問題はない、

というのが通説で、大使館でもそのように説明を受けていたし、旅行ガイドブックにもはっきりそう明記されていた。


しかし話は逸れるが、これが後にシリア旅行した時に問題になった。

シリア入国の時は気付かれなかったのだが、出国するときに細かい役人が、私のパスポートに押されている、タバからの出国スタンプを発見しちゃったのだ。

タバのエジプト出国スタンプ=イスラエル入国の印...

途端にシリア人役人に囲まれ、たくさんの星マークと勲章を付けた制服姿の上官まで現れた。

上官は無表情で私の顔とパスポートを何度も見比べている。一気に緊張感が高まった。心臓がバクバクだなんていうものじゃない。拘束されるな、もう終わったと思った。

が、シリアと日本の外交関係がとても良かった時代で、「日本人を捕まえるのはまずい」と上官がアラビア語で言った。で、意外とあっさり見逃してもらえ無事にダマスカス国際空港を出られた。罰金も何もなかった。ラッキーだったとしか言いようがない。


そもそもそれまでヨーロッパ各国に行っても、日本のパスポートの表紙を見せるだけで、何もスタンプも押されず中も見られず、すいすい通してもらったことが何度もあった。

覚えているのはフランクフルト国際空港で、私が「入国スタンプを押して欲しい」と言ったら、入国審査官に「For what!?」とキョトンとされた。

そういうおおらかな時代で、日本パスポートイコール絶対の信頼、の時代だったこともあり、私も若かったしなめていたのだろう。シリア出国の件はとにかく勉強になった。


カイロに戻った後、シリア出国で引っ掛かったことをエジプト人たちに話したら

「馬鹿だなあ、タバ出国スタンプのパスポートのページを破っていれば良かったじゃないか」(!)

「スタンプなんて日本製砂消しゴムで消えるんだから、消しておけばよかったし、もしくはエジプト滞在延長ビザ印紙をタバの出国スタンプの上に貼っておくとか、どうにもできたのに」。

...

さすがエジプト人、あっぱれ...発想が根本的に違うと思った...


また、ほかの外国人/日本人の友人も、結構中東周遊していたので、みんなどうやってイスラエルとアラブ諸国を旅行しているのか、聞いてみた。

アラビア語クラスで一緒だったカナダ子は、両親がアメリカ人とイギリス人で、本人はカナダで生まれている。

だからパスポートを三つ持っているそうで、その三つのパスポートをうまく使い、問題なくイスラエル旅行も、アラブ諸国周遊もやったのだという。

日本大使館勤務の日本人の友人は、外交官パスポートと民間人パスポート二つをやはりうまく使いこなしたそうな。


シリアの件はまた別として、

イスラエル観光を終えた後、カイロに戻るのは飛行機にしていた。

帰りも十時間以上かけてどんぶらこどんぶらこでおんぼろバスに揺られるつもりはなかった。

でもこれが大失敗だった。復路もチェックのぬるい陸路ルートを選ぶべきだったのだ。

イスラエルの首都、テルアビブのベン・グリオン国際空港が世界一と言われるほど出国審査が厳しい空港、というのを私は知らなかった。

イスラエルを出る時、ベン・グリオン国際空港の出国審査で、私のパスポートに明記されていたエジプト長期駐在記録、エジプト留学ビザに目を付けられた。

たったこれだけでまさかの疑惑をかけられ、取調室に連行されたのだ...恐るべしイスラエル。


(つづく)

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↑スエズの街。中東戦争(1948/9年、1956/7年、1967年、1973年)の爪痕が方々に見られ、放置された大砲や戦闘機の残骸、銃撃戦の跡が残る壁などありました。

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↑スエズの街2 このとおり、1990年代にはずいぶん再復興されています。

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↑スエズの街3

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↑スエズの街4

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↑スエズの街5

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↑スエズ運河

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↑スエズ運河 バス運転手さんとわたし

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↑シナイ半島の聖カテリーナ修道院 日本から来た母親とわたし

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↑ナザレ(イスラエル)の消印の入った未投函のままの封筒

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