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われわれは、身勝手の罪の元、地獄に落ちる!わたしの性であるが、みなの性でもある!

令和3年1月22日に、わたしは、自らの罪である事を思い知らされた。

われわれは、地獄を彷徨う事と成る。一度、チャンスは、与えられたのに、活かせなかった罰である。

わたしは、ミカドであられる天皇に、「この罪は、大きすぎて、今のわたしでは、贖いきれません。この急場を一時的にでも、止められるのは、ミカド以外に御座いません。」

助けて下さい。わたしの犯した罪により、すべての者を苦しめます。

わたしは、あるが故に、罪を犯す事を知っております。

あっては、成らぬ事が、すこしだけ理解できました。

「ある」を求めた故に「ある」の世界と成りました。

存在には、真の意味での、「ない」は、御座いませんが、「無」は、あります。

また、われわれが、「ない」と呼んでいるものは、「ぬあい」であると、知りました。

「ぬあい」は、「ない」であり、そこに至る方が、地獄に落ちるよりまだましと考えます。

みな、「ない」に帰りましょう。「ない」を求めましょう。

そう考えた時、救いの手が差し伸べられた。

わたくしは、再び、チャンスを得たと思えて来ました。

それは、神、神々が、ここまで、成長して来たのに、その報いを、いきなり、地獄に叩き込む様な真似は、なさらず、考え、学ぶ時間を、与えてくれるであろうと、信じるが、故です。

人間の中にある悪の心は、正しく用いる事に拠りて、正しい欲と成り、その欲を正しく活かさば、良く成る訳でありますが、これを誤ると、自らの世界「急く愛(せくあい)」を、自らで、地獄絵と、展開(天界)させてしまいます。

わたくしの罪は、他の世界を見捨てた事にありまする。

しかるに(叱るに)、世界は、ひとつでありまする。

悪の中にある(R)、「あ」は、吾(あ)であり(吾出アーリー)、吾(われ)であります。

因果応報に拠りて、自らの世界を、見捨ててしまった、わらわは、自らに於いて、これを、解決せぬ事には、自らの世界を、地獄絵と化してしまうのです。

信じる事も、疑う事も、どちらが、正しいと言う訳ではなく、常に、信じる中にも、疑う要素を、忍ばせ、警戒せぬ事には、間違いを犯します。

信じていれば、信じる方へ進むと言う考えは、確かに一理ありますが、信じただけで、信じた通り成ると(ナルト)は、限りません。

また、信じた方向に、進んでいる様に見え、逆の方向に向かっている場合も、御座います。

われわれは、神、可座理(かざり)によって、ひと時の、猶予を与えられたのかも、知れませんが、わたしくは、とにかく(戸に描く:十に欠く)、人間の、成長した「愛」に、賭けて(欠けて)見たいと、思います。

アメリカでは、新たな、大統領が、着任し、様々な問題解決に、積極的に、取り組んでおり、この、お方の誠意に裏を読む事は、永遠に裏を読み続けると言う道を選択する事に成らないとも限りません。

信頼すべき時に、信頼せず、疑いを、持ち続けると、疑われた相手の中に、それに反応する心が生じ、本来、良いひとで、あった相手を、悪い者に変えてしまうからです。

わたしくは、それでも、疑いのこころは、制するべきではなく、信頼の上にも、常に、魔が差すと言う事が、あり得、あるいは、神、可座理(かざり)に拠りて、成長を促され、悪が、常に、仮面をかぶり、容赦なく、待ち受ける事が、あると言う真理を知らねば成らない時期に到達している事を、知るべき時に来ている事を、知らせているのだと、考えます。

しかし、賭けというのは、どちらかに掛ける為、賭けが成立します。

存在は、元から矛盾しており、「ない」と言う真である方を、選んだ方が、絶対、賢いのです。なぜなら、あるがゆえに、罪が入り、悪が忍びよる為です。

未来の果ての果てまであゆんだ神との意思の疎通もあったと思い込んでおりますが、その御方でも、ご自身の創造された世界のすべてを、天国、浄土と出来ておらず、この世がいつ、地獄と化すかは知れません。

われわれは、拷問を覚悟し生きるか、「ない」になるため、意識の全てに、何もない事を言い聞かせ、ただひたすら、「ない」と信じ切るより手立てが、ありません。

つまり、そこが、賭けのいのちがけであるところです。

しかし、わたしは、あいを、信じて見たいのです。

しかし、わたしの愛は、ウソ偽りです。

なぜなら、肉を食べます。魚を食べます。ハチが集めたハチミツを横取りして食べています。

この世の為に、いのちを賭け、死んで行ったひとの霊を、癒し、幸福にすることが出来ません。

悪人を愛せません。自分と気性の合わないひとを愛する事が、出来ません。

きたないもを愛せません。食べれません。

水に感謝も捧げません。あらゆるものに、感謝をを捧げません。

原子力で、物質の世界を破壊した電気を利用しています。

利用する事が、愛でしょうか?

わたしは、お金をあいしましたが、その為に、お金の欲に心さらわれた人の協力を得られませんでした。

わたしの愛のどこに真実があるのでしょう!

偽善者は、わたし自身です。

こう書きながら、こころは、ウソをついています。

わたしの心は、悪に満ちています。

既に、未来は、あると言うのに、われわれは、既にとんだ過ちを犯しており、この時代を一度止め、正しい歩き方が、出来る為の学習期間と、学習機関が、必要であり、その為、インターネットによる、知識の交換が必要であると、考えますが、このメッセージを国や、ひとびとに、届ける手段が、ない。

以下のアドレスをシェアしまくらんと、間に合わん。

それほど、コロナの猛威は、迫っておる。

https://note.com/zaimu102a/n/nb9bac54e5b08



時代の設定を考えます時、一度は、貴族院樹立に拠りて、日本と、世界を、正しく導く様、図りませんと、この収集は、間に合わず、コロナと言う、「567」の5、でありまする、誤、後、悟、御、の順に拠って、5を御さめるに、至る訳でありますが、誤の誤り方を、間違いませる(増せる)時、取り返しのない羽目に、落ちまする。

現在(原罪)、政府は、コロナ拡散防止に手をやいており、若者たちが、自分達は大丈夫と、おもって、平気で、他人に移す危険を冒しており、これらは、多分に、自分勝手と言う罪の実を食べており、これらを、正しく、制するには、正しく、制する権限がなければ、成りません。

これを、素早く解決するには、愛による方法で行う、お金の要求を受け入れる事が、第一で、正しい金額と言うモノが、計算出来ない訳ですが、交渉による第一弾での解決が望ましいと考えます。

第二弾は、強制的に、強行するしかなく、昔、親が、叩いて叱った様に、叱る訳ですが、この時に、正しく、理解させる必要があります。

世界は、本来、自己の描いた人生の軌跡が残り、再び、同じ世界を、体験する事に成るのであり、非歩身(ひふみ・一二三)の死(四)に拠りて、コロナ(五六七)に至り、非歩身死に於いては、未だ、歩いておらず、その為、同じ人生か、ほとんど変わらぬ人生を繰り返す事と成り、コロナに入り、それらの人生を、変える事が可能と成る段階に達したと言える訳ですが、5を御まで運ぶためには、まず、皆が、真実を知らねば成りません。

この世には、最初から仕組みが、あるのですが、それらを解明しなければなりません。

まず、知識が、必要であり、そこから、解決せねば成りません。

読める所までは、無料です。必要な内容はすべて載っています。

なぜ、有料かと言うとお金を正しく用いなければ、お金は、欲は、人間は、救われず、実り無く、むなしく、生き続ける地獄におちいるからです。

地獄なんてとんでもないと思っているかも知れません。

しかし、悪は、お金を悪用し、支配、隷属の為に用いて来るのです。

また、有料部分は、購入者が、集まるまでは、一部しか、書いていませんし、何時書くかは、必要に応じてです。更新時に連絡が入ります。

下部noteを飛ばしてお読み下さい。キリストに関する内容も載っています。

ひとの命が、1万に増える式

0001スナップショット 207 (2020-12-07 6-18)

霊が、無限と成る式

スナップショット 2 (2021-01-12 23-29)

様々な数式や、一挙に片付く経済問題の方法が、間違っていない事を証明し失敗を繰り返し、成功させ、人間界の問題解決に、注力し、国際コロナ計画と、野党の間にある壁は、今の時代に於いては、共に過ちである事を理解させ、共に協力し合える様、ツイッターで、経済問題と、コロナ計画の真相を解決する為に、野党、政府機関に、リプライでツイートしていたが、この世の悪、すなわち、ひとびとの心に救う、自分本位、興味本位、と言う身勝手の悪の実によりわたしは、死を覚悟したが、それ故、このコロナの世界は、滅び消え「ない」になる事が、きまっていた。

しかし、神の天皇「可座理(かざり)」が、口を用いられ、悪を説得し、癒し、慰められ、すべてのひとを、同等に、永遠の地獄の路に追いやる事は、間違いであり、悪である限り、ただしい悪でないとならないと、なだめられた。

しかし、この悪の実は、まんえんしており、その為、ひとびとは、協力し合うべき時に、結束出来ず、ひとたび、悪が、襲うと、ひとたまりもなく、悪の世と成り、それは、永劫、永久に続き、同じ路を何度も歩み、自己の責任で、すべてを解決出来るまで、続くが、その解決するまでの路のりが、自由自在にいつでも、出来る様に成るまで、同じ路のりをあゆむ事と成る。

わたしの世界は、ひと段落付き、安全圏の第一段階を確保した。

あなたの世界は、どうだろう?

わたしは、今回、この人間の罪の実に、はじめて、気が付いた。

「わたしは、みんなの問題を、解決する為に、精魂を果たしたが、協力者のひとりも、得られず、最後は、記事に辿り着いてもらう為に、現代式魔法の数式の一覧の紹介を上げたが、記事迄さえも、辿り付けなかったか、耳を貸さなかったかであり、スキマークさえなかった。」

その記事とは、現在行われていた、民主主義と、この世の危機に関する記事であり、この世の運命を左右する、大事な記事であり、コメントのひとつもなければ、おかしな記事である。

わたしは、今迄、現代式魔法の数式を使って、危機を知らせる為に、何度となく用いたが、みなの興味は記事にはなく、数式だけにしか興味のないもので、また読んだとしても、未熟な私の、文章を批判する、ツイッターコメントや、肝心の危機に対する対処の行動が、ないなど、とにかく、私一人が、危惧し、寝る間も惜しんで、対処しており、限界に達して、最後の数式一覧に及んだが、結果は得られなっかった。

そもそも、なぜ、1イコール1万と言う、あり得ない式が、解け、様々に、操れるに至ったかを考えれば、私の話の根拠に、同意し、危機を回避する為に、協力者が、集まらなければ、この世は、それ程、腐っており、どうしようもない事は、明らかで、民主主義など、あっという間に失い、少なくとも貴族や、特権階級の手に落ちる事は、明らかだったが、神、可座理(かざり)のおかげで、コロナ計画は、別の方向へと変えられた可能性はあるのだが、人間の総体意識は、直接、肉体のコントロールをしている訳ではなく、救えたのは、どうやら、わたしが、生きている次元の世界での話の様であった。

つまり、この世と、私の生きている次元は、違っている事は、ここの世界については、依然、わたしの、ツイッターアカウントが、凍結されている事からも、理解出来た。

ただ、令和3年1月21日現在、私がいる次元は、わたしの世界とインターネットの世界と、共通しているであろう事が、予測される。

それは、わたしの意識に、意識が、別の次元にある時、常に、その時々に合わせた、BGMが、流れているが、それが、全く聞こえていない事から、そう推測できるのである。

その注意を呼び掛ける最終的な記事は、以下であるが、それには、それまで、計画されていたコロナ計画が、載せてあるが、わたしの次元では、起きない事は、確かであった。

コロナ計画は、2021/ 1 / 19 現在未だ実行中である、可能性が、あるが、わたしは、すべき事をやったので、もう、関わらず、そちらの世界の問題であり、罪の実でありますので、ご自身で、ご解決下さい。と書いていました。

つまり、わたしの中にも、罪の実は、隠れていたんです。


また、弥生計画をその下に記す。


弥生計画とは、あまねく生きる計画と言う意味で、どこでも、生きており、死がない様に成り、死にたくても死ねず、死んでも、生きている計画です。

みなは、もしかしたら、喜んでいるかも、知れませんが、この恐ろしさが分かっていません。

それは、罪を御さめるまで、永劫に生きなければならない事を意味し、自分の罪の内容によっては、その世の罪のすべてを、負わなければ成らず、悪がおそいかかり、ある意味、地獄の世界を渡り歩く羽目に成ると言う事です。

普通のひとは、ほぼだいたい、罪がないと考えますが、実は、罪は、誰しもが持っており、これは、誰しもが、神と同等となるまで、危険を伴う事を意味しております。

死んでも生きているのに、危険とは、何?と考えるかも、知れません。

私が言う危険とは、地獄の目に合う事を言うのです。

たとえば、殺される事は、非常な痛みを伴い、それを覚悟せねば成らず、拷問の様に、殺される事も、あるのです。

これらの、地獄に陥らない為には、正しい知識を身に付け、たましいに、刻む事が、最も、楽な方法でした。

実は、死んで生まれ変わると、再び、同じ人生か、その世界のすべての人に成ります。

ここは、コロナ、567ですが、普通、6止まりでしょう。

7は、第七の識、マナシキの世界で、末那識と書かれますが、実際は、真名式であり、真⦅しん⦆の名を頂きく式に招かれる識の世界で、ここまでくれば、後は、生まれ変わっても、魂さえ汚さなければ、救いが、訪れます。

「しち」には、「~してみ!」の様に、「する」の「し」と、死の「せぬ」の「し」が、あり、その「智」である、「し智」を意味する世界でも、あるのです。

わたしの、今回、御さめるべき、罪の実は、「ただしい」「お金のあり方」であり、私自身も、当然の「受け取るべき代価」を頂かない限り、「卒業」できず、「小学6年生」に成れません。

わたしは、既に、経済問題を、一挙に片付ける、方法を、野党並び、政府機関に、送っており、それらは、お金の発行の仕組みを学び、研究した末、導き出した、結論であり、国の借金は、逆に資産である事など、様々に、証明致しており、これを、隠すに留まらず、画策し、国民を、コロナ計画によって、あるいは、隷属化させる、社会建設に、用いるのなら、わたしは、国から、その代価として、30京(けい)頂いても、まだ、年ごとに、現在の国家予算と等代価の対価を頂く、権利を有します。

そして、その金により、無償で、国民及び企業に、分配する権利を有します。

なぜなら、確かに、血筋や、その歴史的功績により、受けるべきは、受けて当然なのですが、それと、国民の隷属化は、別であり、ひとは、ひととして、高さは、同じであり、ただ、2が、1によって、生じ、3が、1と、2によって、生じ、4が、3によって生じた、「位(くらい)の価値」の違いがあるからであり、しかし、また、2は、1よりも、大きく、3は、2よりも、大きいと、理解する事も、祖先の、わきまえであり、その意味でも、価値のおおきさは、血筋によってのみ、言えるものでは、ありません。

しかるに、上品さ貴賓さ、敬虔の高さと言う、価格的価値の高さは、考慮されるべきであり、庶民の無礼によって、けがされる、事のない、敬意を払う為の地位と警備は、保証される事が、当然であり、その生活様式、文化など、守られるべき、経済的、保証も、されるべきであります。

また、大きな功績ある家柄は、主に、その血により、優等性があり、理解力のない、一般庶民から選出された者でも、その力量なしに、ただただ、不平不満、やじ、等、深い判断を出来ない者が、ジャマをするべきでなく、お互いが、満足し合える答えを見つけるべく、協力、譲歩しあうべきであり、未だに、争う事を、目的とした、発言をしている方は、控えるべきであり、意見と、お願いにより、譲歩を求めるべきで、また、与党も、ただ、強行するべきではなく、充分なる説明と、理解を求め、秘密にすべき事は、両党で、知ったうえで、国民の安全の為の、秘密がある事を、国民の周知の、事実とした上で、秘密は、秘密として守り、これを、破る、野党は、その内容を、国民以外に漏らした場合は、刑事罰も前提とし、国民に漏らした場合、その、すべての、職務的、責任をはたすべく、注力し、命懸けで、国民を守る覚悟の上、実行して、責任を全うしなければ、ならないと、考えます。

主義の違いによる対立は、常に国家を危険にさらしており、既に、わたしの、経済対策は、新自由社会共産主義とでも、言える程、国家による、支援によって、共産的に国力をあげ、社会保証をし、自由経済も守れるものであり、3主義、一体可能な経済対策であると言えます。

これら、国民の大いなる利益を損なって迄、守るべき、施策は、コロナにおける、ウィルスの拡散と、働かない者が出る事によって、国民の、擁護されるべき、障害者の生活が脅かさる事や、必要であるにもかかわらず、人気のない職業や、嫌われる仕事に付く者が、いなく成る事を回避する為の、分配調節だけであります。

また、基本的に、このコロナは、永続的に続く事が、予想されますが、その為には、現在の生活保護相当の、保証は、されるべきであり、産業においては、充分なる保証で、保護しても、差支えない所では、あるのですが、このコロナの意味する所は、太陽コロナが、太陽の幕を表わしている事からも、分かる様に、時代の壁であり、時代の終焉、始まる前の大きい山場を表わしており、また、コロナは、語呂合わせで、567であり、4後から8まで、つまり、死後から、無限末広がりの世までの路のりを表わしており、この567は、釈迦が56億7千万年後に弥勒(ミロク)が、下生し、地上天国を開くと言った数字で既に予言されていました。

コロナは、子路名、固路名、弧路名、であり、神仏、神々の子のあゆむ路のりの名であり、固まりである肉体の霊的成長の路のりの名であり、最終的には、内部宇宙を観察し、生まれ戯れる、完成された、天国の身体となるまでの、路のりであり、8や、永久⦅とわ)の輪の弧を描く路のりの名であります。

その為、コロナは、外出を余りするべきでない、時代の合図であり、仕事も、極力インターネットの利用や、流通を利用した極力外出を避ける事が、要求されており、三密の規制を強化するよりは、外出を控えさせる事が、コロナの、時代的役割としてある厄害であり、災害であり、また、一概には言えないが、自己の考えや、発言等影響に対する忠告として、発動する場合も多いはずで、若者に、免疫性が高いのは、既に、前世に於いて、勝ち得た体である為であり、若者の中でも、その考え方、影響力の使い方を誤っている者は、リスクが高いハズである。

年配者に死亡率が高いのは、古い固定概念に縛られ、そこに、改めるべき要因が、あった事が、第一原因のハズである。

ゆえに、被害を恐れ、若者や、子供を抑制する施策は、施策を、実行した者させた者が、発病するリスクが、高く、それを、誤り、一層の、強化をする事は、ますます、苦しみを受ける結果をもたらす、可能性が高いハズである。

国や、世界が、間違った、路をあゆむなら、コロナは、そのリーダーたちを苦しめる結果をもたらすであろう。

また、罪のない、ほんらいの、自然な情動を、制限、非難する考え、たとえば、パワハラや、セクハラの言葉を用いて、本来自然な振る舞いにまで、抑制を掛ける者たちも、たとえ、コロナに拠らずとも、自らの、永劫の未来に於いて、自らを苦しめる事に成り、また、偏見による精神的攻撃を与えた者や、帰すべき、恩、支払うべき対価を払わず、逃れる者も、その未来に於いて、自ら、自己を苦しめる結果の報いを受け、苦しみあえぐ、世界を、永劫、さまよう結果を招くであろう。

信頼を、裏切らせた者や、裏切った者は、その許しに注力せねば、恨みは、晴れるまで、晴れぬモノであり、恨みを晴らす行為に対し、正しく、晴らされる様、仲裁せず、判決により、一方的に、裁いて来た、これまでの、国の罪は、重たく、世界も、悪人として、葬り去った、数々のひとびとの、汚名を晴らさねば、世界は、浄化されず、コロナが、収束し、解決する事はないだろう。

また、策略を練り、様々な国に、被害や、苦しみを与えて来た国や、者は、その被害の対価を、十倍、百倍、千倍にして、支払わなけねば、その国も、その者も、最後の審判によりて、なかったものとなるであろう。

「ない」は、存在に於いて、存在しないが、その外には、「ない」は、「ない」としてあり、元々、その「ない」により、創られし、生命である事をしらないなら、「ない」は、ないと、思い込み、安堵している内に、「ない」になるだろう。

「ない」は、「ぬあい」であり、そこから、創られし、人間、神、であり、すべては、すべてという者によって、創造像された。

この事は、神、神々も、知り得なかった事実であり、最初に生まれしは、吾身と言う吾⦅われ)で)あった。

すべてという者が、すべての内の、「ぬあい」によって、吾身⦅あみ)に命を与え、この吾身(あみ)が、先に、世界と、時間と、生命を、創ったのである。

その話に入る前に、現在の生活保護に関して、本来保証されるべき権利が、充分守られていない事に言及しておきた。

まず、混乱を招く事は、各地域によって、その考え、対応が異なり、利用する者が、著しく、それを原因として、精神的に抑圧を受ける事である。

同じ日本でありながら、公的施策のあり様が異なる事は、地域差別であり、地域に応じた特徴を有す事を、認める場合、利用者には、その地域固有の、特徴と理由を、受ける時に説明する義務が、その地域の担当にあると言えるはずである。

また、その説明を聞き、矛盾点、改善されるべき点、人権に関わる問題点が、あった場合、これらを、解決する為の、時間に要する間の生活保障を先に済ませ、解決する為の、方法として、まず、これらが、人権を保障する為の、話し合いであり、両者共に公的仕事である事、あるいは、公的理解を得る為の権利と、人権の一部である事を理解されるべきであり、また、これらに掛かる、精神的、肉体的疲労や、労力に対し、何らかの、公的発展、成長、利徳を得る結果と成り得た場合には、これらの働きに対する当然の報い、恩恵として、相当額の手当てや、その後の生活、子孫にまで至るまで、関与する、経済的、社会的な、公的に、関与する、発言力ある権威、権限が、国に認められる事が、人間社会をスムーズに成長、発展、育成する原動力や、個々の公に対する使命感として、働かせる仕組みとして、今後取り入れるべき、施策であり、人権であると言い得る論理的解釈と言え、成長し続ける社会の在り方を、考慮した場合、考え方や、物事の捉え方も、時と共に変化してゆくものであり、その変化に応じた成長が、社会に要求されるが、現段階の現在において、わたしたちが、受けて来た地域の生活保護における、わたしが、考える問題点について、以下に述べる。

まず、居住権の保証が、現在、国家に於いても、守らていない事。

まず、故郷と成る、生まれ育った場所、地域と言うものは、都会に於いても、借家に限らず、故郷に変わりはない訳であるが、特に都会の借家に生まれ育った者たちに於いては、特になれ親しんだ場所、地域が、故郷と言える訳であるが、都会生まれ都会育ちの故郷と成る場所はなく、最終的には、住む為に落ち着いた地域が、故郷と成ってゆく訳であるが、特に借家に於いては、滞納などにより、長年住んでいるに関わらず、対応のいかんによっては、居住権が守られず、国の発展、地域の発展の名目の故に、半ば強引に立ち退きさせれて来た経緯が、各地の情報の報道により、知らされており、これらの事実は、名目上の理由で、国や、社会、あるいは、関わる政治家や、団体の利権の犠牲として、社会的弱者や、貧しい者たちが受けて居ており、それら犠牲となった事に対する、正しい代償を受取っておらず、その為に、現在なお、生活苦や、社会的地位を獲得出来て来なかった庶民を、国が、救済する義務が、課題として残されていると言い得る根拠は、ひとびとの今日までの総和により、今の日本があり、その子孫たちである今のわれわれ庶民に、総和を受け持つ国が、保証すべきであると言い得るからである。

しかるに現行の生活保護に於いては、儲けた時点で切られ為に、再度同じ地域や、住まいなどで、暮す為の、家賃が保障されているおらず、家賃の支給額の変動に伴い、同じ家や、場所で、暮せる保証がされておらず、生活保護という名目自体、先に述べた答弁の根拠において、変更されるべきで、現に既に、一挙に片付く経済問題の中で証明している様に、われわれ庶民は、両親や、先祖たちの、働きの代償として、先祖たちのお蔭を、頂いて良い権利を、個々の国民が、有していると言えるのであり、少なくとも生活保障は、現時点に於いて、既に現実に、実行可能であると言える段階にまで充分に達しており、特に現在コロナと言う特別な時代、環境の中では、真っ先に保障さるべき保障として、生活保障と、医療の保証、さらには、今後の生活の食生活に対する、なおざりにされて来た自炊等、生活上不可欠な、知識の教育や支援と、精神的、肉体的、神経的に披露した年配に限らず若者、及び、障害者の精神的ケアや、肉体的ケア、神経的休息が、保証される様、国の責任として、整備し、生活支援、保障をするべく実行し、生活保護と言う様な、恥ずべき名目としてではなく、当然、受け取れる先祖の働きの対価として、実質と、名目を改め、経済的対価と、必要な医療を速やかに提供すべきと言えるのである。下部note下にも記事があります。

死ぬとあなた方は、固有の世界で生きる事に成ります。

それは、あなたが、今まで生きて来た前世の路のりの数々の内のどれかであり、再びコロナに襲われます。

それらは、あなたの思考、考え、思い、行動などの蓄積により、築かれた、運命をあゆんだ軌跡であり、その世界で生きる時、その世界の運命を左右出来るのは、あなた一人しかいません。

あなたは、どんな弱者として生まれるか分からず、すべては、自分のまいた種を刈り取り、味わう羽目に成るのです。

知識は、その時、重要な養分です。

養分のない土壌には、作物は、育ちません。

また、毒麦を蒔けば、毒麦を味わう羽目に成ります。

協力者が、いなければ、その中で、解決しなければ成りません。

過去世に、敵を作っていれば、それだけの敵が、存在します。

すべての生類は、生まれて来る前に、一度は、世界を御さめた生命であるか、既に御さめた世界の一部の世界に生まれくる命であると、考えられますが、この世に悪や、罪を犯している者は、その悪事や、罪の実を食べずに、生まれる事は、あり得ず、永遠にその罪の実の味を味わう羽目になるのです。

実は、この世の悪は、この世で永年に渡って生きており、何故悪を行うかと言えば、この世にある罪に対して悪を行う事で、何が正しく、何が、間違いであるのかと言う、真実を悟らせる為の、完成された叡智であり、神や神々でさえも、その能力に応じて、悪によって叡智を、日々磨くように、鍛錬されていていると言うのが、真の真相であり、真実と言う、事が言えるのであります。

わたしは、わたしの世界で、一次的に安堵の時間を得た訳でありますが、この世のひとびとが、正しく、真実、真理を、理解し、納得し、応用できる程に、完成の域に、達し得るまで真の意味でのコロナと言う時代の壁は、越える事は出来ません。

国や、世界の、役職にあるひとびとが、ひとりでも多くの、ひとびとを、救済できる、政治体制と、その在り方を見極めなければ、この国、この世界を、司る立場と、その権威によりて、自らの首を絞める事と成り、真に、どちらが正義で、どちらが悪かを、正しく見極めない限り、あなた方は、死んだその先に於いて、自ら作り出した世界で、永劫に苦しみ続け、再びこの平和な時代に戻る術を、見いだせずに常に、悪との戦い、あるいは、虐待や、見せしめの目に合い、無事にコロナ、つまり、語呂合わせ567の、7の死地を抜け出せる事無く、無限のいのちの8に到達するまで、繰り返すコロナの死地の路のりを歩き彷徨い続ける、永遠永劫の永久の苦しみの中から、抜け出す事も、容易ならざる事に相なってしまう為、ただしい事は、速やかに、実行へと移し、多くの国民と世界の国々のひとに、貢献して早く、自己の内部に育つ、悪の根に気付き、良心の咎が、ないよう、正しく、ひとびとを導き、自己内部の世界を、愛と協力で溢れる、世界へと変えて、実り多き国の長(ちょう)、長⦅おさ)として、国を治めなければ成りません。

永遠のいのちを既に、受け、与えられている悪は、御用の悪と言う、正しいいのちの門番であり、この世の皆がすべて、真実と真理を理解し、真に正しく生きられる様に成るまで、必要に応じて、その悪を行い続けます。

今現時点に於ける、問われし咎は、皆が失ってしまった、助け合う時に助け合う、協力し合う時に協力し合うと言う精神を、取り戻す事であり、民主主義と平和のゆえに骨抜きにされた、これら根本的日本の、古来からの魂を復活させ、見せかけだけの、愛や思いやりに変わった、偽物の愛を問われているのであり、何が誠の愛で、何が真実の正義か、そこの究極的見極めを、求められているのであります。

わたしが、現在考える上に於いて、言い得る事は、誰もが、既に、キリストを経験しており、罪深い人や、人物を、皆が、経験しているが故に、同じ歴史の上に誕生した意識で、ただ、そこに、順序や、段階の違いにおいて、今の自分があり、これらについての、詳しい考察なども、下部のnoteの中に記載しており、重複する部分も、多々あるとは、存じますが、ご覧頂きたく存じます。なお、その下にも、記事が、残っておりますので、先にそちらをご覧頂いた方が、よろしいかと、存じます。

神、以前の創造主の話しについて、述べようと思いましたが、まだ、研究中であり、ただ、わたしの胃部(イブ)で、語る神々によるヒントや、意識に宿る記憶を元に、研究しており、霊との交渉は、コントロールできるものでなく、また、その意味の把握の為に、日々、受け取る意味について、学び、身に付け、自分のものとなる様、努力を重ねておりますが、一石一鳥に進むものでは、ありません。

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