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日本臣の重た使命(政府、皇室に仰ぐ!

(1)時と言う字と仏教に関して

時は、「意の智」の下で働き、時の下で命が、時より「意の智」から智慧を得て働く事は、説明したと思いますが、時と言う字は、日に寺です、

つまり、寺は、元々から日と共に存在して居たのであり、仏教とのつながりは、この世の歴史以前に存在するデータ(それをもとにして、推理し結論を導き出す、または行動を決定するための事実。資料。)です。

そして、寺と言う字を説明しますと、寺と言う字は、十の下に一 の土(ド)生きている人の大地、の下に、死後の大地の一書き、土(ド)の位置まで、杭を右に偏らせて縦線として描き、輪廻転生を象形する文字にも成っております。

上の十は、ある、と、ない、のクロスした。十字路を表し、交差点が、仏の座す無を表わしているのです。
その死後の大地と杭の中に、種の点を描いた文字で、元々の存在の種子である、人の種子の原点が、その種の点で表現されているのです。

これを意味で、説明すると、土とは、十と一の11を表し、音楽が6音階10音であった時の5音5音(御恩、御恩)に上のドを下に自己を高くして、その六九五(報い)=六が九(苦)に成り、五(後)に落ちるドを加えたド~ドまでの昔の1オクターブ。十一面観音、梵:エーカダシャムカ と下の一と合わせて12であり下の一の大地は、死後の世の大地を表す。
杭の線は、悔いが笹竹にからみ上の土まで伸びきった杭を表し、笹竹とは、刺さった毛(ささったけ)であり、右側に偏っているのは、いつもお世話になっております。と言わんがばかりに、身を木々(気義)に寄せ合い安らぐお陰を感謝して、身義(みぎ)なる義としその杭を右側に、かたよらせて打ち込んだ図形、であり、神仏の世に成る前の仏の世では、まだ、神と言う存在は、実在していなかった。

なお、坊主、尼が、頭を剃り、毛を切るのは、ほっと、ほっとけ、ほっと毛ー切る。と言う、おそらく、魔語授法から、来たと推測します。

(2)(令和2年06/07)時と仏教、キリスト教、天皇と音楽の秘密と使命


最初は、時、(十気)から始まる。時は、日と寺によって、時が生まれた。日は、気を象徴していた。十(ト)は、じゅうじ、であり、異なる二つの交差を表わし、ある、と、ない、の交差、神と、人との交差を表わす。

つまり、仏教では、無に座す仏を表わし、キリスト教では、イエス・キリストである、日本語の「はい」を表わす。

この寺では、無念無想を教えとしており、座して僧は、無念無想をするのですが、それは、あると、ないの、交差する、十字路に座して、無に成る事で、生きた人が、後悔し、悔いて死に至った時、死後の世と、生の世を循環させる為に、無念無想して、無と成る事で、出入り出来る様にする為であったのですが、生きた人とは、自分の、想念より出た自分の写しであり、全ては、自分から、生じた報いによって、死に至るのですが、本来、ある事は、「苦労多く、悔い多く」自己が無い方が、何の苦労も無くよかったのですが、ここに、一人の阿呆(あほう)がおったのです。

最初は、「あん」である、庵(あん)であり、案であり、闇(あん)から始まった。庵とは僧尼=男子の出家、女子の出家であります。

阿呆(あほう)の案であり、闇から生じたのですが、「あほうとは、ある、と言う法」でもあったのでは、あるのですが、罪は、全てこの阿呆(あほう)から始まったのですが、この阿呆(あほう)は、又、真理でもあったのです。何故なら、実に、そこに、寺があり、人が居り、存在しておったからです。

さて、ここでは、死に悩んでうなされておると、脳天をバチンと尺で叩かれ、日の寺す(照らす)と言う時まで戻る事から、ぶつ、今日と言うそれまでの事の消え、があった。

その為、仏教(ぶつきょう)、と言い、それにより、日と並ぶ、寺である時に戻る事を、帰依(消え)と言うのですが、仏は、人にムであり、人が、無に帰し、時に戻る事を意味しました。

つまり、死後の世とは、この世でもあるのです。
真の世界は、天(テン)の直下の地にある太陽の中にあるのです。
この世は、肉の世でありますが、土(ド)の大地は、神と人が、一つに成った世界なのです。

仏教が、印度(インド)発祥であるのは、寺院の院の印と、土(ド)を頂く為でした。

そして、ほとけ、とは、阿呆(あほう)である、「あ法」を説き(とき)=時、に戻す事を意味していたのです。

「ほとけ」は、あほ、のホを解け、という、命令であり、その「ホ解け」(ほとけ)であったのです。

最初、寺の字を説明した様に、十は、5音5音の(御恩、御恩)であり、天(テン=10)であり、十の下の一は、大地であり、その下が、死後の世の大地であり、元から、12音であったのですが、脳天から下った天使が、天皇(てん、のう)と成ったのです。

あほ、の「あ」とは、気付きの声であり、発見の驚いた、声であり、白鍵であった。これが、最初の土である、地球のど(土)であり、ハ長調のハ音のドであり、般若波羅蜜多=度(ド)であり、八(はち)のハ、又は、ヤでもあった。ハ長調の第8番目の音は、ト(十)音、ソであり、ハ音とト音で、ハトであり、平和の象徴である。

「ほ」は、稲穂の穂であり、ホ音ミでありますが、先に音楽の歴史から述べて置きますと、現在、音楽は、7音階12音ですが、最初、6音階10音の世界でありまして、この事は、史実として確認出来ました。

ここから、しばらく先までは、他のnoteのリンクで、ブログをご覧に成った方には、重複がほとんどですが、仏教も混ぜました。

音楽の基本的、説明を先にしますが、ピアノの鍵盤には、白鍵と黒鍵が存在しますが、黒鍵は、ドとレ、レとミにあり、ミとファの間にはなく、ソからシまでは、各白鍵の間にあり、シとドの間には、存在しません。

そして、鍵盤の次の鍵盤までが、半音(はんおん)で、その次迄、飛ばした場合、全音(ぜんおん)と呼びます。

基本のハ長調の場合、黒鍵が、二つ並んでいる、その左の黒鍵の左側が、ドで、ハ音です。そして、ミとファ、と、シとドの間には黒鍵は、ありませんので、この長調と言う並びは、全、全、半、全全全半。と言う並び方に成っており、この並び方で、弾けば、どこから、はじめても、ドレミファソラシドになります。

ちなみに、単調は、ラシドレミファソラで、全半全全半全全ですが、実は、私は、インディーズアーティストでもあったのですが、単調と、長調の違いも、ほとんど分からない、学識音痴です。

そして、6音階10音であった時は、全全半全全半で1オクターブで、その繰り返しでした。

この時、音階の音名は、ハニホへイロの、葉に穂へ色で、ドレミファソラまでしかなく、シは、ありませんでした。

仏教的には、「し」なさい。と言う「し」の「する」を除き、キリスト教的には、死を除く為、ラまででした。

ここに、天(10)で10(テン)NO(ノー)を告げる、神としての天皇が登場します。

そして、あってありしもの!を表明しました。

それまでの神々は、女であり、音名でした。しかし、天皇には、他の神々に無い物が、付いておりました。天皇は、男、音子(おとこ)でした。

そして、死をも統べる神でした。ただ、女は、又、御名(おんな)であり、御名は、ミナであり、皆でもありましたし、音名(おとな)であり、大人でありました。

しかし、確かに、天皇は、音子(おとこ)であり、子供でもありましたが、音固(おとこ)でもあったのです。

ちなみに、皇帝の事を、朕(ちん)と言い、「ちんちん」とは、珍朕=珍しい皇帝の意味では、ないかと考えました。

戦時中、現人神であった天皇は朕(ちん)と呼ばれておられました。

音固である肉の身体を着せ、女に子を宿す、切り巣をつけられ、その聖域を穢(けが)さぬ様に切り巣に戸を設けられキリストをお立てに成り、「はい」を表わすイエスを、キリストとされました。

この時、10NO(テン・ノー)を、告げたのは、12である。

として、7音階12音を作られ、第8番目の音、すなわち、無限を、表す、8、と、末広がりを表わす、八の場所に、十(ト)である、十字路と十字架の意味を持つト音を、設けられ、ハニホヘトイロの(葉に穂へ十色)を作られました。

そして、十(ト)音であり、、ソである(祖)に重荷である、リック(リュック)を負わせ、トリック(取りっ苦)と言うトリックを仕掛け、8番目にト音ソを加えた証とし、加トリック(カトリック)、加祖(カソ)リック(カソリック)として残し、十字架の架の字には、加えるに木で、木は、十の中央に八を引っ付けた字の秘密として使用し、十字路の路の字は、各々自分の足である苦(歩く)を負わせた、証を残されたのです。

そして、自分は、本来、上のドとなる所でしたが、下の、ト音ソの祖の点極天極と、終えさせ、上のト音である、十(ト)にも、点国である、天国として、自分も、点々を使い無くして、上の音階(恩界)の都(ト)成る人と成って、恩界にしたから、登って来た、最も、低い子供としの国の発見に励まれ、日の元、日本を発見し、そこの、都に住まわれたのです。

しかし、時空(とき)廻りて今日である、京を、アースの国である(明日)に攻め入られ、今日が、狂、凶、へと変わり、教(きょう)を受け、理狂を治すべく、任務を命じられて、開く、空く、灰汁、悪、飽くを全修復する、御恩(5音)の任を、命じられて、居るので御座いました。なぜなら、ドレミファ祖(ソ)の5音階(御恩界)は、庵治吾、案字吾、あ字吾(あじあ)の吾(われ)の脳ミ祖(脳みそ=脳三祖)から出た国であり、守るべき、責があったが故で御座います。

これが、第2次世界大戦の欧米諸国に交じり、闘った、理由でありました。

しかし、今回、庵治吾(アジア)より、使わせた、キリストの本来の義である。サンヘドリンの義と、日本国内の色の乱れによる足(葦=悪し)が高く成り過ぎ、考える人である、ロダンの足が、適正な足(悪し)の高さを維持出来なくなり、セダンの義である、裏の仕組みの中にある善を証明し、背の談義である、背談(セダン)の義を果たさねば、U7=ユー・セブンと、あなたは、せぶん、(背分)つまり、裏の身分であり、悪である事を、言わねば成らず、自ら、身義「右」=ライトである、つまり、正しいと、証明しなければならなくなる。と言う日本への、宇宙における、大帝王が述べられているお言葉を受けているのであります。

(2)音意字意

音意字意(おんいじい)とは、名前でもあるのだが、音意つまり、音が、持つ意味、字が、持つ意味の秘密を、解釈する、じいさん、の名前でもあるのだが、例えば、慈悲には、音意として、字秘(字に隠された秘密)の意味がある等である。

面倒では、御座いましょうが、お心使いお願い申し上げます。発表する場合が、ありますので、匿名希望の方は、匿名とお申し付けください。