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「こうだからこうあるべき」という断定的な見方〜西欧か中欧それとも東欧か〜

ベルリンの壁崩壊のニュースを知ったのはまだ日本にいた高校生の頃。

初めて訪れたベルリンでポツダム広場に打ち捨てられ、そのままになっているベルリンの壁の残骸を不思議な気持ちで眺めたのが1993年のことだ。

街のど真ん中に当たるポツダム広場が空っぽでSONY移転の看板がポツンと立っているのを少し残念な気持ちで眺めながら、ベルリンという街の変化を見てみたい、そんな風に感じた。

最初は1年くらい住んでみたい。そんな割と軽い気持ちでベルリンのテーゲル空港に降り立ったのが1995年のことだ。

西ベルリンと東ベルリンの違いは当時のベルリンでは見るからに明らかだった。

93年に訪れたときに知り合った知人のプレンツラウワーベルク地区にあったアパート内には電話線が引かれていなかった。寒くなれば通りには石炭の匂いが漂い、路駐されている車の数もまばらだった。街並みはどこもかしこも灰色。

冷戦収束後から数年経っただけの西側陣営と東側陣営も同様だったに違いない。私の中では西側、東側という区別はわりと自然なものだ。

先日、ポーランド在住の方が「東欧の地方の町の一番はじっこ」という表現でポーランドの一角を説明する投稿をしたところ、ブルガリアに住んでいるという人が「東欧という言葉は旧東側諸国にとって非常に失礼なレッテルです。」と割と強めの語調で畳みかけているのを目にした。

自称「東欧好き」の私はその投稿に対して妙に違和感を覚えたのでリツイートをした。自分の正直な気持ちを添えて。

15分くらいそのブルガリア人とやり取りを交わしたのだが、ブルガリアに住みながら日本語がとても達者なことに感心しつつも、彼の限定的な語調には少なからず残念な気持ちにさせられた。

夕食の席で相方に「限定的な物の見方をしたがる人の心理ってどうなんだろう?」という質問を投げてみたところ、Stabilität(安定性) / Sicherheit(安全性) / konkretismus(具体主義)のようなワードが出てきた。

ざっくり言うと、限定的な物の見方をすることで自分の身を守っている、ということになるだろうか。多様な物の見方をするということはある意味、安定に欠き不安にさせる一因になることでもあるのだと。因みに相方の専門は心理学である。

話をする中で、コロナ陰謀論者の心理ともどこか通ずるものがあるような気がした。「コロナは存在しない」と断定し具体化することで、現状の不安を払拭しようとする。それは自分の都合の良いように目の前の現実を書き換えていることにも繋がるのではないだろうか。

残念なことにそう言った限定的な物の見方をする人の特徴として「対話ができない」「他人の意見に耳を傾けない」「異なる意見を持つ人を遮断する」といった傾向が見られるのではないか。陰謀論者とはどこまでも並行線で対話にならないのと同じように。

「東欧」か「西欧」かという問題ひとつを取っても、白黒はっきりとした正解はないような気がする。歴史の専門家でも、地理の専門家でもないので詳細についてはまた余力のあるときにブログで取り上げてみたいが、世代や育ってきた環境、何を基準にするかによって様々な区分の仕方が可能になると思うのだ。

もちろん、差別だと感じる人がいるのであれば「東欧」という括り方は避けるべきなのだろう。ただ、「東欧」と言ったときに意図されるものは多種多様であるのに、そこに差別的な感情しか見出せないのであれば、それは非常に残念なことのように私には思える。

白か黒か。そんな単一的でモノクロの世界には魅力を感じないのだ。

*タイトル写真はベルリンの壁記念公園の壁跡に沿って作られたオブジェです。


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