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日蓮「立正安国論」の基本情報をまとめてみた

大地震、飢饉、疫病など、打ち続く災害を受けて書かれた「立正安国論(りっしょうあんこくろん)」は、鎌倉時代の仏教者・日蓮(にちれん、1222-82)の代表作として有名です。
そういう内容だけに、新型コロナウイルス感染拡大とともに、再読の機運が高まるだろうと思い、ここに基本情報をまとめてみました。

立正安国論とは

文応元(1260)年、旧暦の7月16日、日蓮が三十九歳の時に鎌倉幕府の前執権・北条時頼(1227-63)に提出されました。当時、時頼は重病のため引退、出家し最明寺入道と名乗り、長時(1256-64)に執権を譲っていたものの、北条氏得宗(とくそう、=跡継ぎ)として実権を握っていました。

立正安国論は、「勘文」という形式を取り、仏教僧・日蓮が為政者に提出した上申書という体裁となっています。日蓮の六十年の生涯においては、三十二歳から本格的に自身の教えを布教し始めてから七年後、初期の著作と位置づけられます。

簡単に説明すれば、「仏教によって社会を安穏にする原理を示した書」と言えそうですが、これではアバウトですから、順を追って見ていきます。

ちなみに立正安国論という題名は、英語では Establishing the correct (Dharma) and bringing peace to the country とか On establishing the correct teaching for the peace of the land と翻訳されています。

執筆の動機・背景

執筆の直接のきっかけは、さかのぼること三年前、正嘉元(1257)年8月23日に鎌倉を襲った大地震です。これは日蓮自身が述べています。
また同3(1259)年に飢饉、同年に改元して正元元年、疫病も猛威を振るっていました。同2年も疫病が四季を通じて止まない。国主は仏教もそれ以外も様々な祈禱をしたけれども、効果がなくかえって悪化していくさまであったと。

日蓮は大地震はじめ種々の災害を原体験したのであり、周りで人がばたばたと死んでいく、その真っただ中にありました。こうした大衆が苦しむ様子を記した、立正安国論の冒頭

旅客来りて嘆いて曰く、近年より近日に至るまで、天変地夭・飢饉疫癘、遍く天下に満ち、広く地上に迸る。牛馬巷に斃れ、骸骨路に充てり。死を招くの輩、既に大半に超え、悲まざるの族、敢て一人も無し。

以下は、貴重な歴史の証言とも言われています。

神社仏閣が隆盛し、頭を砕くように祈禱しているのに、どうしてこうなってしまうのか……。「道理と証文」を求め、日蓮は、駿河国岩本実相寺(静岡県富士市)と伝えられる「一切経蔵」に入り、仏教や儒教の経典を読み漁り、災害の仏法的な原因を探ります。足掛け三年ほどで立正安国論は完成しました。そして北条時頼に側近・宿屋入道光則を介して提出しました。

構成

立正安国論は、旅人である「」とそれを迎え入れた家の「主人」との問答形式で、客の問いに主人が「立正安国(正を立て国を安んず)」を説いていきます。客は安国論の宛先である北条時頼、主人は日蓮を想定されています(が、客の発言に日蓮の思想を見ることも充分に可能です)。

十問九答、あるいは十段から構成され、最後の十段は客のみの言葉で、客の誤解が解かれ、信仰心を改める誓いで終わります。

原文は漢文です。全部で約7500字ですから、四百字詰め原稿用紙にして19枚に及びます。直筆が現在も残っています。(国宝。直筆写真の翻刻はブログでしました)

内容

主人は様々な仏典を引用していき、為政者が適切に仏法を行なわず、その責務を全うしないなら、国に様々な災難が起きると指摘します。仏法の乱れが国の乱れであると主張するのです。
引用した経典についてですが、金光明経、仁王経、法華経は、日本では護国三部経とされました。法華経は日蓮が根本とした経典であり、涅槃経は法華経の補説と位置づけられます。その他、仏法衰退の次第を説き、末法思想の根拠とされた大集経、また薬師如来による無病息災の利益を説く薬師経が引かれます。

その仏法の乱れの元凶は悪僧であり、現下では具体的には、日本浄土宗の祖・法然(ほうねん、1133-1212)であると主張します。法然が「選択集(せんちゃくしゅう、選択本願念仏集)」で主張した専修(せんじゅ)念仏は、念仏以外の教えをすべて排除せよというものでした。
もっとも日蓮当時は、法然が没してからすでに五十年近くたっており、さらに当時は弟子からも法然の専修を批判する者が出てきており、念仏以外の様々な修行も許容する立場を取っていました。

その上で、教えの混乱の根源としての法然を批判したと言えます。また主人は、念仏が釈迦仏(釈尊)を忘れて阿弥陀仏を貴んでいる点を批判しますが、これは仏教の祖・釈尊を軽んじる典型例として念仏を挙げていると言えます。こうして、いかに沢山の祈禱が行われようと、何よりもまず、災難の根源としての法然の専修念仏を禁じることが重要であると説きます。

続いて、念仏が災難をもたらした先例を中国と日本の事例から示します。
このように経文と証拠を示されることで、最初は高僧・法然を批判されて逆上していた客は、態度を改め、主人の主張に素直になっていきます。
主人は、目下の災難に対する具体的な策としては、そのような仏法を誤用する悪僧への布施を止めること、つまり援助をしないことを、涅槃経を引用しながら提言します。
そして、速やかに対策を講じなければ、引用してきた経典に説かれた三災七難の内、残る二つの災難が起きてしまうと警告します。それは、「自界叛逆難(内乱)」と「他国侵逼難(外国からの侵略)」です。

こうして、経文の上から、歴史上の先例から、道理の上から、法然の念仏が災いの元凶であることは疑いがない。最後に主人は客に「早く信仰の寸心を改め、速やかに実乗の一善(=法華経の教え)に帰せよ」と勧めます。客は、自分が念仏を信じていたのは、自身の勝手な思いではなく、先達の言葉に従っただけであったとして改心を誓い、速やかに安国のために対策を講じ、誤った教えを戒めよう、と述べる。これで立正安国論は結ばれています。

さて、鎌倉時代は現代とは大きく異なり、幕府にしろ天皇家にしろ、為政者に仏教が浸透していた時代です。また政治体制も、現代のような政教分離の原則や議会制民主主義とも違いました。そういう違いは理解の前提となるでしょうが、当時の為政者は、利害にしろ敬虔な信仰心にしろ、国を治めるに当たり、仏教信仰を大きな支えとしていました。

日蓮は、そうした社会を生きる仏教者として、政治、社会の問題を仏法の問題として捉えて、「立正安国」を考えたと言えるでしょう。その際も、経典を引用して自説を展開するという意味で、仏法における実証主義的な姿勢に貫かれています。立正安国論の四割近くは経典等の引用です。

提出後

立正安国論提出を受けた幕府の反応は、黙殺というものでした。それどころか日蓮にとっては、度重なる迫害の起点とも言うべきものでした。

提出から間もない夜、日蓮は念仏の信者たちに鎌倉の自宅を襲われ、一時、避難を余儀なくされます。松葉ケ谷の法難と呼ばれます(法難とは仏法を実践したゆえに起きる迫害・受難とのこと)。これは、念仏の信奉者で時頼を補佐してきた北条重時(1198-1261)とその息子で時頼の次の執権・長時の画策によると言われています。そして彼らにより、日蓮は翌・弘長元(1261)年5月、伊豆へ二年弱の流罪にされています。
なお時頼は、立正安国論提出から三年後の弘長3年に三十七歳で没しています。

その後の鎌倉の宗教界は、幕府の政策により、真言律宗を頂点とする体制へと再編されていきます。良観房忍性(にんしょう、1217-1303)が奈良から関東に招かれ、これまで浄土宗だった寺院も真言律宗のそれに替えられていきました。日蓮の批判の照準も忍性の真言律宗へと移っていきます。

提出時の立正安国論はもっぱら念仏を批判していますが、実は提出前、日蓮は北条時頼と会見し、時頼が信奉していた禅宗を批判しています。日蓮が立正安国論の文面で禅宗を批判しなかったのは、同書が受理されて側近と審議される際、禅宗が批判されていたら、時頼の面目がつぶれてしまうことを配慮したからだという考察もあります。

警告した二難が現実に――内乱と外患

日蓮が立正安国論で経典を引用して警告した二難は、現実のものとなります。一つは、文永9(1272)年の二月騒動(北条時輔の乱)という北条氏の内乱です。
もう一つは、既に文永5(1268)年から蒙古(モンゴル帝国)から服属を要求する通知が届き、襲来の危機に脅かされていましたが、文永11年(1274年、文永の役)、また弘安4年(1281年、弘安の役)の蒙古襲来(モンゴル戦争、元寇とも)で、これが鎌倉幕府滅亡の一要因となっていきます。

二月騒動は、時頼の子で執権・時宗(1251-84)が兄弟・親戚を暗殺して北条氏内の危険分子を駆逐した事件ですが、日蓮の時代は、幕府内で合議制から北条得宗による独裁制に移行していく真っただ中であった点も、当時の社会情勢として見過ごせません。

もとより日蓮は、この二難の現実化を望んではおらず、仏教者の責務としてそれを防ぐために経典から導き出される当然の結末として警告したのであり、例えば二難により「予言が的中した」という言い方は注意が必要に思います。

鎌倉の大地震について

正嘉の大地震は、マグニチュード7.0と言われていて、その凄惨な様子は、幕府編纂の歴史書『吾妻鏡(あずまかがみ)』にも記されています。現代語訳を読んでみます。

二十三日、乙巳。晴れ。戌の刻(=21時頃)に大地震。音がして、神社・仏閣で一つも無事なものはなかった。山岳が崩壊して民家は転倒し、築地(土をつき固め、上に屋根をかけた土塀)は全て破損した。諸所で地面が割れ、水が噴き出した。中下馬場橋(=現在の二の鳥居付近と見られる)の辺りの地面が割れ、その中から炎が燃えだした。(炎の)色は青という。
(五味・本郷・西田編『現代語訳 吾妻鏡 14 得宗時頼』吉川弘文館、129頁、引用者が=で注記)

また当時日蓮が居を構えていた鎌倉の名越(現在の名越切通し以西から大町・材木座周辺と推測され、松葉ケ谷とも)は、鎌倉の周縁といえる場所でした。名越に限らずこうした周縁には、「やぐら」と呼ばれる、岸壁に穴を掘って作った、死者を供養する墓が散在していました。日蓮が常に大衆の生き死にと共にあったことは、立正安国論の背景の重要な要素でしょう。

日蓮が生涯重んじた書

日蓮は立正安国論を終生重んじ、自ら何度も書写し、他の著作でも言及しています。臨終直前に弟子の前で講義したという伝記もあります。

また、「広本(こうほん)」と呼ばれる再編バージョンがあります。これは文応元年の提出から十数年後、日蓮が佐渡流罪から生還し、身延山(山梨県)へ居を移してから、証文とする経典引用を大幅に追加し、また仏法の誤用に対する糾弾を一層強め、さらに真言を批判する文言が加えられています。(詳細はブログで示しました)

広本と同じ時期、日蓮は「撰時抄」(せんじしょう、これも代表作の一つ)を書いていますが、そこで法然批判に関して「私日蓮がこれらの誤った教えを非難し打ち破ってから長い時間がたっている」と記しています。少なくとも日蓮の認識はそうだったわけですが、先に述べた真言を中心とした幕府の宗教政策を考えると、日蓮の批判は、当時の念仏宗に何らかのダメージを与えたことでしょう。

余談ですが、日蓮と同時代には、法然の直弟子であり浄土真宗の祖・親鸞(しんらん、1173-1263)がいましたが、日蓮の書簡では言及されず、接触はなかったようです。

現世の国土変革の志向

日蓮がいう「国」とは、為政者・権力者が支配する体制としての国家よりも、民が生活を営む土地としての国土の意味を重んじるものでした。そもそも仏教の教え自体に権威・権力を相対化する視座が内蔵されていますし、日蓮は「王は民を親とし」と明言しています。

立正安国論の直筆でよく注目されるのが、この「国」字の大半が国構えに民という字体を用いていることです。これは日蓮に限ったことではなく、後白河法皇や北条高時など国主と言われる人が好んで使った字のようです。とすれば、日蓮のこの用字は、為政者への配慮と善政への働きかけととれますし、民衆本位の日蓮の国家観を示す象徴と見ることもできます。

また日蓮が安穏を求めた国土は、現実の今ここにある国土でした。念仏は、現世を嫌い来世の往生を求めますが、その現実の苦悩から目を背ける志向を日蓮は批判しました。大災害にあえぐ眼前の大衆と不可分な現実の国土を、どう安穏ならしめるか。
それは立正安国論にある「国を失い、家が滅んでしまえば、どこへ逃げることができるだろうか。あなたは自身の安全を願うならば、まず四表の静謐(=社会全体の安穏)を祈ることが必要ではないか」(現代語訳)との一節、また先にも引きましたが「早く信仰の寸心を改め、速やかに実乗の一善に帰せよ」との勧めに続き「そうすれば、この三界(=生死を流転する迷いの世界)はみな仏の国土となるのである」(同)と述べていることからも明らかです。

さて、これまで私情を抑えて説明してきたつもりですが、最後に。例えば、大災害で家族、住む家屋を失った人々。疫病で死んでいく人たち、不安がまとわりつく社会。戦火の中で親を亡くし路頭に迷う子どもたち――。そうした惨禍にあって、大衆の眼前の苦しみに根差した日蓮の言動というものは、高みから講釈を垂れる宗教者・思想家・インテリとは一線を画しており、立正安国論からもまた、その象徴的な息づかいを感じ取れることでしょう。

読書案内

日蓮「立正安国論」』(佐藤弘夫訳注、講談社学術文庫)
原文、読み下し、現代語訳、解説が付き、もっとも入手しやすく、まとまっていると思います。本書を機に巻末の参考文献を集めて、より理解を深めていくこともできます。
日蓮の著作において、立正安国論ほど、政治がらみでその解釈の賛否がなされた書もないでしょう。そういうバイアスと距離を取りながら、むしろ、まずは原文を素朴に読まれるほうが、ビギナーの方にはよいのではないでしょうか。

法然『選択本願念仏集』(大橋俊雄校注、岩波文庫)
いわば槍玉に挙げられた法然の「選択集」ですが、立正安国論では一部をけっこうな紙幅を割いて引用されています。原文はこれで読めます。

ここまでお読みくださりありがとうございました。■

上記以外の主な参考文献
『日蓮大聖人御書全集  新版』池田大作監修、『日蓮大聖人御書全集  新版』刊行委員会編、創価学会
『新編日蓮大聖人御書全集』堀日亨編、創価学会
高木豊『増補改訂 日蓮――その行動と思想』太田出版
都守基一「『立正安国論』の再確認」(『法華仏教研究』第18号所収)
山川智応『日蓮聖人』法蔵館(新潮社刊の再版)
馬淵和雄『鎌倉大仏の中世史』新人物往来社
高橋慎一朗『中世鎌倉のまちづくり 災害・交通・境界』吉川弘文館
河野眞知郎『中世都市 鎌倉――遺跡が語る武士の都』講談社学術文庫
上原專祿「「立正安国論」と私」等(『上原專祿著作集 26 経王・列聖・大聖――世界史的現実と日本仏教――』評論社所収)

追記。坂井法曄「日蓮と鎌倉政権ノート」(『法華仏教研究』第6号、2010年所収、佐藤博信編『中世東国の社会構造』岩田書院、2007年の再掲・補足)は、日蓮と鎌倉幕府との関係・交渉が先行研究を網羅しながら丁寧に整理検討され、立正安国論提出前後における日蓮の問題意識を探求する上でも刮目すべき内容でした。

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