三大秘法抄に仰せの『戒壇』に関する一考察(『国立戒壇論』を理解するための総論です。)
1)はじめに
昨今、日蓮系を自称する一部の教団が、「国立戒壇の建立は日蓮大聖人の御遺命である」と主張している。その根拠は、三大秘法禀承事(通称:三大秘法抄、以下、三大秘法抄とする)に仰せの御文にあるということだが、果たして、その主張は正しいのであろうか。そこで、本稿では、三大秘法抄に仰せの『戒壇』について考察を重ね、大聖人の御真意を明らかにしていきたい。
2)御抄全体より考える
『戒壇』についての御指南(1)
三大秘法抄は1282年(弘安5年)4月8日、日蓮大聖人が61歳の時に、身延から下総国の大田金吾に与えられたと伝えられている。なお、御真筆は現存しておらず、初見年代は1397年に作成された大石寺6世・日時の写本とされている。
さて、冒頭『戒壇』について確認しておきたい。コトバンクによれば戒壇とは、
1.仏教僧に戒を授ける式場。戒を授けるために壇を築くから戒壇という。(ブリタニカ国際大百科事典)
2.戒律を授ける儀式を行うために設けた特定の壇。(デジタル大辞泉)
3.出家を志す者に戒を授けるために戒場内に設けられた土の壇。(百科事典マイペディア)
4.戒律を授受する式場をいう。戒律の授受には,もと清らかな場所を選び,結界をして行ったが,のち土,石,磚(かわら)などを用いて三重の壇を築き式場とした。(世界大百科事典 第2版)
などとあった。要するに「授戒の儀式をする場所」である。
その上で、今回の考察テーマとなる『戒壇』に言及された御文を、三大秘法抄より以下に引用したい。
[御文]
戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり、三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して蹋給うべき戒壇なり、
(御書1022㌻)
〔通解〕
戒壇とは王法が仏法に冥じ、仏法が王法に合して、王と臣が一同に本門の三大秘密の法を持って有徳王と覚徳比丘のその昔の事跡を末法時代の濁悪の未来に移し現そうとする時、勅宣ならびに御教書を申し下して、霊山浄土に似ている最も勝れた地を探し求めて戒壇を建立すべきものか。時を待つべきのみである。事の戒法いうのはこれである。インド・中国・日本の三国ならびに一閻浮提の人が懺悔し滅罪する戒法だけでなく、大梵天王や帝釈等も来って踏まれるべき戒壇である。
この御文に込められた大聖人の御真意を考察するにあたり、最初に検討したいのは、本抄全般から見た引用御文の主旨である。つまり、この御文に至る直接の問いは
[御文]
問て云く寿量品専ら末法悪世に限る経文顕然なる上は私に難勢を加う可らず然りと雖も三大秘法其の体如何
(御書1022㌻)
〔通解〕
問うて言う。寿量品は専ら末法の悪世(の衆生のために弘通されるべき)に限るとの経文がはっきりしている以上は自分勝手な疑難を加えてはならないと思う。しかしながら(寿量品の文底に秘沈された)三大秘法のその法体とはどのようなものなのか。
である。ではこの問いに至るまでの本抄における要点は何かというと、次の3点になる。
【1】
[御文]
問う所説の要言の法とは何物ぞや、答て云く夫れ釈尊初成道より四味三教乃至法華経の広開三顕一の席を立ちて略開近顕遠を説かせ給いし涌出品まで秘せさせ給いし実相証得の当初修行し給いし処の寿量品の本尊と戒檀と題目の五字なり、
(御書1021㌻)
〔通解〕
問う。釈尊が言われるところの要言の法とは何物であるのか。答えていう。釈尊が初めて成道して以来、四味三教から法華経の広開三顕一の席を立って、略開近顕遠を説かれた従地涌出品第十五まで秘せられていた法である。つまり、諸法の実相を証得したその昔に修行されていた、寿量品の本尊と戒壇と題目の五字である。
【2】
[御文]
末法の始の五百年には法華経の本門前後十三品を置きて只寿量品の一品を弘通すべき時なり機法相応せり。
(御書1021㌻)
〔通解〕
末法の始の五百年には法華経の本門のうち、前後の十三品を差し置いてただ寿量品の一品を弘通すべき時である。衆生の機根と教法が相応しているからである。
【3】
[御文]
末法に入て爾前迹門は全く出離生死の法にあらず、但専ら本門寿量の一品に限りて出離生死の要法なり、
(御書1022㌻)
〔通解〕
末法時代に入って爾前経・法華経迹門は全く生死の苦しみから離れられる法ではない。ただ専ら法華経本門の寿量品の一品だけが生死の苦しみから離れられる肝要の法である。
つまり末法において受持すべき出離生死の要法は、法華経如来寿量品の文底に秘沈された文底独一本門であり、その文底独一本門を具体的に明示するならば、『本尊』『戒壇』『題目』という三大秘法になるということである。
よって、この御文の真意を考えていく上で大事なことは、『戒壇』という各論を考える前提として、まず大聖人御一代の御化導における「三大秘法に関する御指南」への正しい理解が必要であるということである。逆に、正しい三大秘法観が確立されないままに、本抄の引用御文のみを切り文的に解釈しようとすると、大聖人の御真意に反した、非常に偏りのある曲解に陥る恐れがあるということである。
3)御抄全体より考える
『戒壇』についての御指南(2)
次に検討したいのは、引用御文の続きの部分である。ここで大聖人は、
1. 本門・事の戒壇が建立された後は、比叡山延暦寺の戒壇は迹門・理の戒壇であるので、利益がなくなってしまうこと。
2. 慈覚・智証の愚かさによって、延暦寺が真言密教化して土泥のようになってしまったことは極めて残念であること。
と仰せになられたうえで、
[御文]
夫れ一代聖教の邪正偏円を弁えたらん学者の人をして今の延暦寺の戒壇を蹋ましむべきや、此の法門は義理を案じて義をつまびらかにせよ、
(御書1023㌻)
〔通解〕
釈尊の一代聖教の邪と正、偏と円を弁えている学者の人に、今の延暦寺の戒壇を踏ませることができようか(いや、できない)。よって、三大秘法を始めとする日蓮の法門(をどのように広宣流布していくかについて)は、(社会的な)道理や筋道をよく考えたうえで、(日蓮の)本義を明らかにしていきなさい。
と御指南されたのである。
この御文について順を追って確認すると、最初の「夫れ一代聖教の邪正偏円を弁えたらん学者の人をして今の延暦寺の戒壇を蹋ましむべきや」との仰せは、当時の日本は官僧と私度僧の区別が形骸化して曖昧になっていたとはいえ、延暦寺が依然として、天皇が勅選を下した日本唯一の大乗戒壇であったことを念頭に置かれた発言と思われる。その上で大聖人は、例え世間法としての由緒の正しさや国のお墨付きがあったとしても、仏法はあくまで「法の正邪」が根本であることを明確にされたのである。
この点は、当時の社会的背景をよく理解していかなければ、仰せの趣旨が掴みにくいところでもあるので、慎重に考えていきたい。また、本抄を与えられた大田金吾は、鎌倉幕府の問注所の役人であった伝えられていることから、政治と宗教の両面に渡る世事に通じていたと考えられ、本抄で述べたい主旨も感覚的に理解できたとものと推測される。
次に「此の法門は義理を案じて義をつまびらかにせよ」について確認するならば、「『前述の戒壇や本抄の総論である三大秘法をどのように広宣流布していくのか』ということについては、社会的な道理や筋道を弁えたうえで十分に思索を重ね、大聖人の仏法の本義を一切衆生に明らかにしていきなさい」と、弟子に託す意味で御指南されたものと拝察される。
例えば、『戒壇』とは授戒する場所であるが、授戒の目的は、持戒による一生成仏である。この点、一生成仏を目指すための戒壇の在り方は、広布と時代の進展に伴って、社会への展開の仕方も大きく変わっていくことになる。では、将来において、どのように社会に展開していくことが、広宣流布にとって適切なのか。このようなことについては、「それぞれの時代の弟子や和合僧団が、師匠である大聖人に代わって、しっかりと考えて推進していきなさい」と仰せになられたのである。
4)三大秘法に関する御指南を考える
さてここからは、『戒壇』を考える前提として、大聖人の御一代の御化導における「三大秘法に関する御指南」について検討を重ねていきたい。
大聖人が三大秘法について指南された御抄は多数あるが、その中でまず認識を深めるべきは、三大秘法とは「自行化他にわたる南無妙法蓮華経の実践」が前提にあって始めて成立する法門であるという点である。つまり、外形として、いくら『本尊』『戒壇』『題目』が整っていたとしても、その中心に、自行化他にわたる南無妙法蓮華経の実践がなければ、三大秘法としては成立しないということである。
では、このことについて、順番に御文を確認していくと、最初に義浄房御書では
[御文]
寿量品の自我偈に云く「一心に仏を見たてまつらんと欲して自ら身命を惜しまず」云云、日蓮が己心の仏界を此の文に依つて顕はすなり、其の故は寿量品の事の一念三千の三大秘法を成就せる事此の経文なり
(御書892㌻)
〔通解〕
如来寿量品第十六の自我偈に「一心に仏を拝見しようとして、自ら身命を惜しまない」とある。日蓮の己心の仏の境界を、この文によって顕すのである。そのわけは、寿量品に説かれている事の一念三千である三大秘法を成就しているのが、この経文だからである。このことは秘しておきなさい。
と仰せになられている。
また、御義口伝の「南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事」では
[御文]
御義口伝に云く此の品の題目は日蓮が身に当る大事なり神力品の付属是なり、如来とは釈尊惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、寿量品の事の三大事とは是なり、
(御書752㌻)
〔通解〕
この南無妙法蓮華経如来寿量品第十六という題号は、日蓮の身にあたる大事なものである。これこそ神力品第二十一において、上行菩薩として釈尊より付属を受けた実体なのである。文句の九の文を文底より読めば、如来とは釈尊のことである。すなわち、総じては十方三世のあらゆる仏に通じるのである。だが別しては、本地無作の三身、すなわち久遠元初の、凡夫即極の本仏である。今、日蓮およびその門下の意で如来を論ずるならば、総じては、一切衆生はことごとく如来である。だが、これはあくまで理の上で論じたものであり、別して、事の上で論ずるならば、日蓮およびその弟子檀那のことである。されば、無作の三身とは、末法の法華経の行者のことである。そして、この無作の三身の宝号を、南無妙法蓮華経というのである。寿量品の事の三大事とは、すなわち法華経の行者の内証に顕された事の一念三千である本門の本尊、本門の戒壇、本門の題目、のことである。
と仰せである。
さらには、佐渡流罪中に四条金吾に与えられた御消息(四条金吾殿御返事)には
[御文]
今日蓮が弘通する法門はせばきやうなれどもはなはだふかし、其の故は彼の天台伝教等の所弘の法よりは一重立入りたる故なり、本門寿量品の三大事とは是なり、南無妙法蓮華経の七字ばかりを修行すればせばきが如し、されども三世の諸仏の師範十方薩・の導師一切衆生皆成仏道の指南にてましますなればふかきなり、
(御書1116㌻)
〔通解〕
今、日蓮が弘通する法門は狭いようではあるが、実は甚だ深いのである。その理由は、彼の天台・伝教等の弘められた法門よりは、さらに一重立ち入っているからである。法華経の本門寿量品の三大事とはこのことなのである。南無妙法蓮華経の七字ばかりを修行するのであるから狭いように思われるかもしれない。しかしながら、南無妙法蓮華経は、三世の諸仏の師範であり、十方薩埵の導師であり、一切衆生が皆成仏道を実現ための指南であるから、最も深いのである。
と仰せにならえた上で、本抄の最後に
[御文]
多宝塔中にして二仏並坐の時上行菩薩に譲り給いし題目の五字を日蓮粗ひろめ申すなり、此れ即ち上行菩薩の御使いか、貴辺日蓮にしたがひて法華経の行者として諸人にかたり給ふ是れ豈流通にあらずや、法華経の信心をとをし給へ火をきるにやすみぬれば火をえず、強盛の大信力をいだして法華宗の四条金吾四条金吾と鎌倉中の上下万人乃至日本国の一切衆生の口にうたはれ給へ、
(御書1117㌻~1118㌻)
〔通解〕
多宝塔中で、釈迦・多宝の二仏が並坐した時、上行菩薩に譲られた題目の五字を、日蓮は粗弘めたのである。このことはすなわち、日蓮は上行菩薩の御使いといえるのではないか。あなたもまた、日蓮に従い、法華経の行者として諸人にこの法を折伏されている。これこそ法華経流通の義ではないか。法華経の信心を貫き通しなさい。火打ち石で火をつけるのに、途中で休んでしまえば火を得られない。(この信心も同じであるから)強盛な大信力を出して、法華宗の四条金吾、四条金吾と鎌倉中の上下万人および日本国の一切衆生の口にうたわれていきなさい。
と激励されている。
これらの御文より明らかな通り、日蓮大聖人は自行化他の南無妙法蓮華経の実践によって、万人が一生成仏するために三大秘法を建立されたのであって、間違っても、三大秘法の外形的条件を整えることに立宗の目的があったわけではない。よって、三大秘法抄も、これらのことを十分にわきまえたうえで拝していかなければ、大聖人の御真意を読み間違えてしまうことになるだろう。
5)戒壇に関する御指南を考える
前項と同様に、今度は『戒壇』に関する御指南を検討していきたい。冒頭述べたように、戒壇とは授戒をする場である。そして、授戒とは戒を授かることに大事があるのではなく、授かった戒を持ち続けることに大事がある。
では日蓮仏法における持戒とは何を意味するのか。日蓮大聖人は十法界明因果抄で次のように仰せである。
[御書]
次に絶待妙の戒とは法華経に於ては別の戒無し、(中略)故に爾前の十界の人法華経に来至すれば皆持戒なり、故に法華経に云く「是を持戒と名く」文、安然和尚の広釈に云く「法華に云く能く法華を説く是を持戒と名く」文、爾前経の如く師に随つて、戒を持せず但此の経を信ずるが即ち持戒なり
(御書436㌻~437㌻)
〔通解〕
次に絶待妙の戒とは、法華経においては別の戒があるわけではない。(中略)ゆえに爾前経の十界の人が法華経にくればみな持戒の人である。法華経には「これを持戒と名づける」とある。安然和尚の広釈には「法華経には『能く法華経を説くことを持戒と名づける』とある」と釈している。爾前経のように、師に従って戒を持つのではなく、ただこの経を信ずるのが、すなわち持戒である。
その他、一代聖教大意では
[御文]
又我等六度をも行ぜざるが六度満足の菩薩なる文・経に云く「未だ六波羅蜜を修行することを得ずと雖も六波羅蜜自然に在前しなん」と、我等一戒をも受けざるが持戒の者と云わるる文・経に云く「是則ち勇猛なり是則ち精進なり是を戒を持ち頭陀を行ずる者と名く」文。
(御書401㌻)
〔通解〕
また、我らは六波羅蜜を行じていないのに六波羅蜜を満足する菩薩であるとの文は、無量義経に「いまだ六波羅蜜を修行することがないといっても六波羅蜜は自然に具足する」とある。我らは一戒も受けないていないのに持戒の者といわれるとの文は、法華経見宝塔品第十一に「これはすなわち勇猛である。これはすなわち精進である。これを戒を持ち頭陀を行じる者と名づける」とある。
また、御義口伝では
[御文]
さて於戒有欠漏とは小乗権教の対治衆病の戒法にては無きなり是名持戒の妙法なり故に欠漏の当体其の侭是名持戒の体なり
(御書719㌻)
〔通解〕
さて、戒に於いて欠漏ありとは、小乗権教における、衆病対治のための戒法のことではなく、受持即持戒、是名持戒の妙法の受持である。ゆえに、小乗権教における戒という点からみて欠漏がある、我々の生命の当体が、そのまま是名持戒の戒体と現われるのである。
と御指南されている。すなわち、大聖人の仏法における戒とは、一般的な(小乗教や権教など)の仏法で説くところの戒法ではなく、南無妙法蓮華経を受持することが即持戒となるのである。生命は妙法蓮華の当体であり、通常の仏法の戒において欠漏があったとしても、その当体がそのまま戒体と現われるということである。
これらの御文に明らかな通りに、日蓮大聖人が重視されたのは、正しい法を生涯に渡り実践する『持戒』である。そして、この点が一生成仏(万人の成仏)を決する根本要因なのである。間違っても、戒壇の在り方や戒壇の建設主体が根本要因である、とは一言も仰せになられていない。
6)総論を検討する
ここで、項目4及び項目5の趣旨について、さらに総論的に言及しておきたい。日蓮大聖人は、両項目に関係することを端的に次のように御指南され、三大秘法の意義をより鮮明にされている。
[御文]
御義口伝に云く此の経文にて三学倶伝するなり、虚空不動戒・虚空不動定・虚空不動慧・三学倶に伝うるを名けて妙法と曰うと、戒とは色法なり定とは心法なり慧とは色心二法の振舞なり、倶の字は南無妙法蓮華経の一念三千なり伝とは末法万年を指すなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉り権教は無得道・法華経は真実と修行する是は戒なり防非止悪の義なり、持つ所の行者・決定無有疑の仏体と定む是は定なり、三世の諸仏の智慧を一返の題目に受持する是は慧なり、此の三学は皮肉骨・三身・三諦・三軌・三智等なり。
(御書743㌻~744㌻)
〔通解〕
御義口伝には、次のように仰せである。この此経難持の経文によって、戒定慧の三学を俱に伝えるのである。虚空不動戒(戒壇)・虚空不動定(本尊)・虚空不動慧(智慧)を俱に伝えることを名づけて、妙法というのである。戒とは色法を意味し、戒壇となる。定とは心法を意味し、本尊となる。慧とは色心二法の振る舞いであるから、題目である。俱の一字は、三大秘法を包含した文底独一本門の南無妙法蓮華経ということであり、それはすなわち事の一念三千の当体である。伝とは、末法万年に伝えていくことを指しているのである。今、日蓮およびその門下が、南無妙法蓮華経と唱え奉って、権教は無得道であり、法華経は真実の教えであるとして折伏していくことは戒である。これは非を防ぎ、悪を止めるという意味である。この御本尊を受持する者は、成仏することは疑いないと定めることが定である。また、三世十方の諸仏の智慧が含まれた一返の題目を受持していくことが慧である。この戒定慧の三学は、皮肉骨、法報応の三身、空仮中の三諦、衣座室の三軌、道種智・一切智・一切種智の三智である。
これは法華経見宝塔品の「此の経は持ち難し 若し暫くも持たば 我れは即ち歓喜す 諸仏も亦た然なり 是の如きの人は 諸仏の歎めたまう所なり 是れは則ち勇猛なり 是れは則ち精進なり 是れを戒を持ち 頭陀を行ずる者と名づく 則ち為れ疾く 無上の仏道を得ん 能く来世に於いて 此の経を読み持たば 是れ真の仏子 淳善の地に住す」(法華経393㌻~394㌻)についての御義口伝である。ここでは文底独一本門を戒律(戒壇)・禅定(本尊)・智慧(題目)の三学に開く形で、三大秘法について御指南されている。この御文を拝すると、三大秘法は、自行化他の南無妙法蓮華経の実践を根本にしてはじめて成立することが明確に解る。
7)考察テーマである引用御文に込められた真意とは
ここまで、日蓮大聖人の御一代の御化導における「三大秘法」や「戒壇」の意義について検討してきた。その結果として、大聖人は、あくまでも「自行化他の南無妙法蓮華経の実践を主眼」として、本門の戒壇を含む三大秘法の法門を樹立されたことがお解り頂けたと思う。
この点を踏まえた上で、御書全編の主旨に則って、今回の考察テーマである三大秘法抄の引用御文について、次のことを結論として導きだした。
1. 戒には防非止悪の義がある。戒壇とは、具体的には生涯不退転の信仰の実践という持戒を決意する場である。
2. 日蓮大聖人の仏法の持戒は一生成仏(万人の幸福)や立正安国(民衆根本の社会)に不可欠であるが、戒壇の在り方やその建設者の立場が一生成仏や立正安国に影響するとの御指南は一切ない。
3. 同様に、国家や為政者による戒壇建立が広宣流布の絶対条件であるとの御指南はない。
4. これらのことから御文の意図を考えると、主旨は「王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」にある。つまり、広宣流布であり、立正安国である。
5. 戒壇は目的ではなく手段としての外形的大意である以上、「勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か」との仰せは、その時代時代における社会的正当性を担保した最も賢明な在り方であれば、その主旨を満たす。つまり、現代にあっては法律上の正当性や民衆の支持といえよう。
以上5点の結論を踏まえたうえで、これ以降は世界広布の観点より三大秘法を考えてみたい。
8)世界広布を標榜した種々の御指南
日蓮大聖人は教行証御書で
[御文]
地涌千界出現して濁悪末代の当世に別付属の妙法蓮華経を一閻浮提の一切衆生に取り次ぎ給うべき仏の勅使なれば・八十万億の諸大菩薩をば止善男子と嫌はせ給しか等云云、又彼の邪宗の者どもの習いとして強に証文を尋ぬる事之有り、涌出品並びに文句の九・記の九の前三後三の釈を出すべし、但日蓮が門家の大事之に如かず。
(御書1281㌻)
〔通解〕
地涌千界の菩薩が出現して末法濁悪の今の世に、妙法蓮華経を一閻浮提の一切衆生に弘通する仏の御使いとして如来神力品で別付嘱を受けたのである。それゆえ、八十万億那由他の諸大菩薩の末法弘通の申し入れに対しても、『止みね善男子』と拒まれたのである」と言うがよい。また、このように言えば、彼の邪宗の者達の習いとして必ず証拠の経文を尋ねるであろう。その時には法華経従地涌出品と法華文句の第三の巻と法華文句記の第三の巻にある前三後三の釈を出すがよい。日蓮が門家の大事、これにすぎるものはない。
と仰せの通り、大聖人の御遺命、そして地涌の菩薩の使命は『世界広宣流布』である。であるならば、三大秘法の法門も当然のことながら、「一閻浮提の一切衆生に取り次ぎ給う」と合致する法門でなければならない。この点を考えるならば、授戒の場である『戒壇』が、どうして日本国家の所有となる国立戒壇でなければならないとうことがあろうか。余りにも愚かな発想である。
その上で付言するならば、大聖人は一閻浮提の広宣流布、つまり、仏法を地球社会に展開する立正安国の在り方について、いくつかの大事な御指南を残されている。これは、本抄の「此の法門は義理を案じて義をつまびらかにせよ」(御書1023㌻)との仰せのままに、私達が戒壇の建立の意義を思索する際の具体的な指針となる御指南といえる。
例えば、南条時光に対する短い返信は別名「時国相応抄」と言われているが、その中では、
[御文]
一切の事は国により時による事なり、仏法は此の道理をわきまうべきにて候」
(御書1579㌻)
〔通解〕
一切の事は国により、時によるのである。仏法を行ずる者は、この道理をわきまえるべきである。
と仰せになられ、教機時国抄では
[御文]
仏教は必ず国に依つて之を弘むべし国には寒国・熱国・貧国・富国・中国・辺国・大国・小国・一向偸盗国・一向殺生国・一向不孝国等之有り、又一向小乗の国・一向大乗の国・大小兼学の国も之有り、而るに日本国は一向に小乗の国か一向に大乗の国か大小兼学の国なるか能く能く之を勘うべし
(御書439㌻)
〔通解〕
仏教はかならずその国に応じた法を弘めるべきである。国には寒い国と熱い国、貧しい国と富める国、世界の中央にある国と辺境の国、大国と小国、盗賊ばかりの国、殺生者ばかりの国、不孝者ばかりの国等がある。また小乗だけの国、大乗だけの国、大乗と小乗を兼ね学ぶ国もある。それでは日本国は小乗だけの国なのか、大乗だけの国なのか、それとも大乗と小乗とを兼ね学ぶ国なのか、この点をよくよく勘えるべきである。
と仰せになられている。いずれの御抄も、仏法の本義に違わない限り、それぞれの国情や習慣、時代性などを尊重して、広宣流布していくべきことを指南されているものである。
これらの他にも「四悉檀」の観点から次のように仰せになられた御抄(太田左衛門尉御返事)もある。
[御文]
予が法門は四悉檀を心に懸けて申すならば強ちに成仏の理に違わざれば且らく世間普通の義を用ゆべきか
(御書1015㌻)
〔通解〕
私の法門は四悉檀を心掛けて説くならば、とりたてて成仏の理に違わない限り、とりあえず世間の普通の道理を用いることができるのである。
四悉檀とは、四種の法の説き方のことで、SOKAnetの教学用語検索で調べると
■四悉檀(ししつだん)
仏の教法を4種に分けたもので、『大智度論』巻1などに説かれる。
①世界悉檀[せかいしつだん]。人々が願い欲する所に応じて法を説くこと。②為人悉檀[いにんしつだん]。詳しくは各各為人悉檀といい、機根などが異なる人それぞれに応じて法を説いて教え導くこと。③対治悉檀[たいじしつだん]。貧り・瞋り・癡かさなどの煩悩を対治するために、それに応じた法を説くこと。④第一義悉檀[だいいちぎしつだん]。仏が覚った真理を直ちに説いて衆生を覚らせること。
と説明されていた。この中で、特に世界悉檀は「社会全体」について指すものであるから、三大秘法抄に仰せの『戒壇』についても「強ちに成仏の理に違わざれば且らく世間普通の義を用ゆべきか」との考え方を順守した上で社会に展開していくことは、日蓮門下にとっての重大原則といえる。
よって、一部の教団に見られる「御文の悪しき曲解」を念頭に一言触れておくが、本抄に仰せの「勅宣」や「御教書」の取得は、鎌倉時代の制約下では法的・社会的正当性を得るために必要な手続きであったということであり、国立が絶対条件であるという趣旨では断じてない。ましてや、現代において憲法を改正してまで国立戒壇を建立する必要などまったくないのである。
そもそも、日蓮大聖人は佐渡から帰還された1274年(文永11年)4月8日。鎌倉幕府の要請を受けて平頼綱と対面し3度目の諌暁をした際も、幕府が寺院を寄進することを条件に蒙古調伏の祈禱を依頼したが、幕府が邪法に帰依し祈祷を行っている過ちを強く諌め、その申し出を毅然と拒否されている。それでもなお、この対面の席上であえて仰せになられた
[御文]
王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも心をば随えられたてまつるべからず
(御書287㌻)
〔通解〕
王が支配する地に生まれた以上、身は従えられているようであるが、心まで従えることはできない。
との御言葉は、日蓮大聖人の仏法者としての信念を端的に表す甚深のものと思われてならない。
9)まとめ
以上雑駁ではあるが、ここまで三大秘法抄に込められた日蓮大聖人の御真意について考察を行ってきた。その結果として明確にいえることは、三大秘法抄の引用御文を依文として「国立戒壇は日蓮大聖人の絶対的御遺命である」または「国立戒壇を目指さなければ日蓮大聖人の御遺命に反するため、個人と社会に不幸が起こる」などと主張することは明らかな邪義である、ということである。